ブラックスキニーのジーンズは足がきれいに見えると言って友達が褒めてくれたお気に入りだ。
胸元にレースのついたキャミソールを、からだのラインにぴったり沿った薄手のロングニットで重ね着する。ニセモノだけど、それでも持ってる中ではいちばん高かったゴールドの華奢なネックレスを鎖骨のあいだくらいの長さに調節しながら、彼女は鏡と今日何度目かわからない対面をはたした。

「いい、よな?こんくらいで」

化粧はしようとおもったけれどやめた。たかが家に行くだけで張り切り過ぎだし、だからってなにも着飾らないのは落ち着かない。よし、とちいさく呟いて鏡を背にしたところで、けれど彼女はじっと、自分の胸元をのぞいてみた。
たった一言で彼に切り捨てられたあの女は、気が強そうな美人だった。マスカラで巻いたまつげが大人っぽくて、グロスでつやつやのくちびるは色っぽくて、なんたって、胸にはあふれそうな谷間ができてた。

「…考えたってしょーがねぇよな」

それにくらべて自分のは、と、こぼれそうになるため息を飲み込んで、ふたたび前をむく。部屋のドアを開けて、居間に誰もいないことを確認してから早足で玄関に向かった。足止めされたらたまらないのだ。兄は部活があるから夕方まで帰って来ないはずだけれど、それでも万が一を考えたらさっさと家を出たほうがいい。エナメルのパンプスにかかとを押しこむ指は、三日ぶりのあの男との再会に、焦れる心そのままにせっかちだった。
学校終わってヒマだったら、とりあえず俺んとこ来い。
怒鳴り散らす兄をものともせずささやかれたあの男の言葉は、彼女にとっては唯一のよりどころだった。連絡先も知らない素性も知らない、分かっているのは名前と家だけだ。俺にしろと言った男のことをまるきり信用してないわけじゃないけれど、出会ったあの日きりにすることだって可能なんだと、不安を捨てきれなかった彼女にとって、どんなささいでも次を約束してくれたあの言葉だけがたよりだった。
だから明日になったらすぐに行こうと決意したはずなのに、兄に邪魔され部活に邪魔され友達のグチに邪魔されて、気がついたら三日間まったく音沙汰のないまま今日まできている。ようやく捕まえたなにもない放課後を、だから逃すわけにいかない。
アイツのほうから来てくれりゃいいのに、なんて願いは、来れない理由を考えたくなければ追い払うしかないのだ。

「やべ、メチャメチャ緊張する」

彼の家のドアの前で、彼女はいちど深呼吸をした。それからようやくインターホンのボタンに立ち向かった指は、けれど上がったり下がったりを繰り返すだけでなんの役にも立ってくれない。太陽は出てるし天気はいいけれど、ニット一枚じゃさすがに少し寒いのだ。いつまでもこの調子でいたら風邪を引くだけ引いて終わりなんだと、分かっていても踏み出すには勇気がいる。
誰だおまえとか言われたらどうしよう。あのときの女みたいに一言で追い返されたらどうしよう。
予想できるかぎりの嫌な未来に、けれど今日を諦めたところでまた明日も同じ未来を同じだけ繰り返し描き続ける自分が予想できるのだ。だったら何を言われようとさっさと決着をつけれるだけ今日のがマシだ。ヒデェこと言われたら一発蹴り飛ばして帰ろう、となんとか自分を勇気づけて、上がったまま固まっている手とは反対の手の指で、彼女はインターホンを押した。
それから時間にして数秒。

『ァア?』
「っあの、俺、ひじ、」

マイクから届いたものすごく機嫌の悪そうな声に一瞬躊躇いながらも、名乗ろうとした彼女は、けれどブツッとなにか線を引きちぎるような音に言葉を失った。
一言すらねェのかよ。なんだよそれ蹴れねェじゃねーか。悔しすぎて震えそうなくちびるを、噛み締めるのに必死だった彼女は、だから自分に近づいてくるドスドスとおもいきり床を踏みしめる音に気がつかなかった。
ガンっ、となにかが衝突したような音がした。

「おせーよテメェ!」
「…あ、」

蹴り開けたドアに足を引っ掛けたまま相変わらず人殺しのような目で睨みつけられて、こんなに嬉しいとおもう人間なんているんだろうか。
自分で自分がヘンなんじゃないかとおもうくらい、三日ぶりに見た彼のすがたに、彼女は自分の顔が勝手に笑み崩れるのがわかった。しんすけ、と、ほとんど無意識でつぶやくと、彼はチッ、と舌打ちしながら、それでも目もとを少しだけ緩めて足を降ろした。

「俺がどんだけ待ったとおもってやがる。もう少しで銀時経由でツナギ入れるとこだったじゃねェか」

アイツに借り作るなんざ末代までの恥だぜ。なんてブツブツ呟きながら、男が彼女の腕を掴んでさっさと中に引っ張り込もうとする。彼女は慌てて靴を脱ぎ捨てながら、それでも彼の目に、声に、それから言葉に、顔が笑ってしまうのを止められなかった。待ってたんだ、俺のこと。
作りたくねェ借り作ってでも、俺に会いたかったんだ。





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「もーちっとしたら仕事終わっから、それまでそのへんで待ってろ」

そう言って彼女が放り出されたのは、自分の家と同じ間取りの、けれど印象は全然違うリビングだった。必要最低限の家具はテーブルからゴミ箱にいたるまで計算しすぎなくらい色や形がそろっていて、ポスターどころか置き物ひとつない。飾りといったら酒のビンくらいだ。
大会のトロフィーや賞状や、修学旅行のおみやげから果ては脱ぎ散らかした服まで、安さ優先で買いそろえた家具のすべてになにかしら飾ってある自分の家とは大違いな景色を、彼女は落ち着かない気持ちで見回しながら、それでも別の部屋のドアに手をかけた男の背中を呼び止めるのは忘れなかった。

「晋助」

振り返った彼は言葉のかわりにあくびで答えた。

「仕事ってなにやってんだ?」
「あー…読影」
「ドクエイ?」
「契約病院から送られてくる患者の写真読んで診断つけんだよ。一枚いくらの世界」

金にゃあなるが目ェ痛くなんだよなァ。頭をかきながらめんどくさそうに呟く彼に、けれど彼女は一瞬言葉をなくした。
診断?診断っつったよなコイツいま。

「…もしかしておまえ、医者?」
「もしかしてってなんだもしかしてって」
「や、だって…ぇえええ?」

ウソだろ。彼女は「え」のかたちに口を開いたまま固まった。
三日前はじめて会うまで、いちどもすがたを見たことがなかった男だ。頻繁に外出してるか滅多に外に出ないか、だからそのどちらかが必要な仕事なんだろうとはアタリをつけていたのだ。顔からしてもしかしたら公にできない仕事かもしれないから、口ごもるようなことがあったら深くは追求しないでおこうと決めて聞いたんだけれど、だからってまさか、医者はないだろう。
どう考えたってナシだろ。生かすより殺す顔だろ。おもわず男の頭のさきから足のさきまで見直して、ふたたび顔に戻ったところでやっぱり、ナイな、と納得していると、男がおい、と、それこそ脅しかけに充分な迫力でうなるのが聞こえた。見つけたさきの顔にもういちど、うん、ナイ、とおもう。

「テメェ、さては信じてねェだろ」
「や、ムリ。どー考えてもムリ。ナイナイ」
「…こっち来い、証拠見してやらァ」

舌打ちとともに背中を向けた男が、さっき行きかけた部屋のドアに手をかける。ほんとうの仕事がなんにしても興味はあったから、その後を追った彼女は、ドアのむこうの景色にもういちど口を開けっ放しにした。
八畳程度のその部屋は、彼女の家では兄の部屋だ。縦長に伸びるその部屋はところがいまは真っ暗で、入って右側にあるのはベッドでもない。でかい額縁みたいな長方形の仕切りに、普通の蛍光灯よりずっと明るい白い照明が輝いていて、そこに黒と白だけで構成された写真というよりはフィルムみたいなものが何枚か貼ってあった。あとは、事務用みたいな椅子が一脚と長机。

「どうだよ、信じたかァ?」

額縁を背景に男が笑う。暗闇に浮かび上がるそのすがたはどう見ても闇取り引きの真っ最中だったけれど、それでも信じないわけにはいかなかった。男を除けば、たまに世話になる病院の診察室でよく見る光景だ。
返事のかわりにいちどだけ頷いて、彼女はその見慣れてはいるけれど身近ではない仕組みに近寄った。

「触んなよ。指紋つけたら読みづれェ」
「…これをどーやって読むってんだ?」

暗号か?黒い画面に白いのがのたうち回ってるようにしかみえない写真を眺めながら、彼女が呟くと、彼は机のうえに転がっていたボールペンの頭を手に取って写真のうえに指し示した。

「これが腹部大動脈な。周りの白いつぶつぶは石灰化で、まぁじーさんだからあってもおかしくねぇ。んで、この左右対称にある灰色のまるっこいのが腎臓なんだけどよ、左に比べて右だけ中に黒っぽい丸で仕切られた場所がいくつもあんだろ?」

言いながら、彼は写真の上にボールペンのさきを滑らせていく。

「おかしいのはこれだ。のう胞腎つって、まぁ簡単に言やァ中に水溜まってんだよ。ほとんど診断はついてんだけどな、こいつの場合範囲が広ェから一応腎ガンと鑑別つけてくれっていわれ…おいコラ、人がせっかく説明してやってんのになにほうけたツラしてやがる」
「…や、」
「ぁあ?」
「なんか、カンドーした」

そっか、こんな顔でも医者になれんのか。不思議な感動をおぼえた彼女は、やくざじゃなかったんだな、とおもったそのままを無意識に呟いていたことに気づかなかった。

「…テメェいまなんつった?」
「え?」
「誰がやくざだってェ?」

やべ、怒られる。ギラッ、と光った目とともに近づいてきた手のひらに、彼女はおもわずぎゅっと目をつむる。けれど与えられたのは怒鳴り声でも掴み上げられる痛みでもなんでもなかった。首すじに触れたあの骨張った暖かさと、くちびるだった。

「ン」

引き寄せられたからだが、男のからだにぴったりとくっつくのが分かって、勝手に声がもれる。首すじにあった手が頬や、後ろ頭に滑っていくのが気持ちよくて、まぶたが震えた。からだまで震えてしまわないうちに、男の背中に両手をまわしたら、支えるのを助けてくれるように抱きしめる腕に力がこもるのがわかった。
離れたり、また触れたりを繰り返す男の少しかさついたくちびるに、くちびるを柔らかく噛まれて、その拍子に薄く開けてしまったくちのなかに、男の舌が入り込んできた。

「っんン」

やわらかくてぬるついたその感触は、いままで知らなかったものだ。どうすればいいのかわからなくてこわばったからだを、けれどなぐさめるように腰にあった手で背中を撫でられたら、すこしずつちからが抜けていった。

「ふ、ァ」

舌のさきからつけ根へ、舌ぜんぶを絡めとるようにもぐりこまれて、足が震えだした。からだの奥のほうがきゅう、とうずいて、それがなんなのか分からなかった。
怖くて彼のシャツを指先で握りしめたところで、ところが唐突にくちびるも舌も、それからからだまで離された。

「…ダメだ、仕事になんねェ」

男は頭の後ろをガサガサと掻きまわしながら、おまえやっぱ向こうで待ってろ、と部屋のドアを開けた。とたん入り込む光に目を細めながら、男の言うとおり部屋を出た彼女は、背中で聞いたドアの閉まる音を合図に、自分がようやく我にかえると同時に顔中が熱くなるのがわかった。
両手でくちびるをおさえながら早足でソファを目指す。焦げ茶色の布ばりのソファは飛び乗るとすこしだけ弾んだけれど、彼女は自分の心臓のほうがよっぽど弾んでいるとおもった。ものすごい早さで弾んで止まらない。
うつぶせにからだを沈めながら、どうしよう、と布地に向かってつぶやいてみる。どうしよう。どうしよう。どうしたらいいんだろう。
やめてほしくなかったなんて、どうやって伝えたらいいんだろう。


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はずかしーほどのピュアっぷりですな!はっずかしー!
しかもこれ、ノリと勢いではじめただけでどーやって終わらせたらいいのか
わかんないんですけど、どーすればいいですか。最後までやっちゃうべきですか。


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