「うー」

四人は楽に座れそうなソファのうえを、彼女はごろごろ転がっていた。転がりながらうなってみたのは、それくらいしかやることが思いつかなかったからだ。彼に追い出されてから約二時間。ものすごくヒマを持て余しているところだ。
いままで知らなかったキスに染められた衝撃に、どんな顔をして会えばいいんだろうと悩むのもさすがに飽きた。
だからって好き勝手探索できるほど彼の居場所に慣れたわけじゃないのだ。仕事の邪魔になるのが嫌で、どんなことならしてもいいか聞きにいくこともできないし、携帯は面倒ごとに、特に兄の説教なんかに邪魔されたくなくて家に置いてきたから、遊び道具もない。だからしょうがなくそのへんに転がっていたリモコンでテレビのチャンネルを適当にいじってたんだけれど、それもついさっき飽きたところだ。
少しはおしとやかにしていよう、なんて自分なりの努力もこの際捨てて、寝てしまうつもりで寝転がってみたのに、どこかに慣れない場所への緊張があるのか結局眠れずにいる。

「ひーまーだー」

天井に向かって呟いてみる。ふたたびごろんと転がって背もたれに背中を向けたところで、部屋中をぼんやり眺め回すのはもう何度目か分からない。
足下には背の低いテーブルがあって、うえにはリモコンと、黒い陶器の灰皿と、すこしつぶれたタバコの箱と、蛍光色の百円ライターがある。
正面には本棚があって、よくわからない本が詰まった本棚のうえには酒のビンがあって、本棚の右隣にはテレビが斜めに置いてあって、そして、左隣には彼のいる部屋のドアがある。
いくら見つめてみても、開くわけじゃないのはさっきから何回も確認ずみだ。

「つまんねェの」

ただ、一緒にいてくれればいい。どこに連れていってくれなくても、なにか喋ってくれなくても、見慣れただるそうなそぶりで隣に居てくれるだけで、それだけで全然つまらなくなんかなくなるのに。
テーブルの真ん中に置いてある灰皿の、何本か取り残された吸い殻をぼんやり眺めながら、彼女は、彼のタバコを吸うしぐさを思い浮かべた。銀時よりすこし細くて、兄よりすこし骨っぽい指をした彼は、人さし指となか指のあいだ、つけ根のところにいつもタバコを挟んでいる。
薄いくちびるがほんのすこし開いて、吐き出される煙に、鋭い片目をまぶしげに細める彼のすがたを、おもいだして彼女は、ゆっくりとからだを起こした。タバコの箱に手を伸ばす。
そこだけビニールの破かれたふたを開ければ、中身は三本だけだった。一本取り出し、彼とおなじように指に挟んでみた。残った片手でライターを、取ろうとしてやめた。吸ったことなら何度かある。けれどいまはやめておいたほうがいいのも分かってる。
中学からタバコを吸っていた兄の、買い置きする箱の銘柄は高校に入った頃から変わった。
それが銀時の吸うタバコと同じ銘柄なんだと知ったのは、家に居るふたりを見るようになってからだ。一本ちょうだい、と情けなく笑う銀時に、しょうがねぇなぁ、と顔をしかめながら自分の箱を差し出す兄が、なんとなくうらやましくて、いつか自分もこうやって、なにげなく自分のものを差し出す誰かができるんだろうかとおもったのがきっかけだった。
結局、タバコを吸う女が嫌いな男がたくさんいることをあとで知って、苦いだけだったはじめてのそれを日常のものにする気にはなれなかったんだけれど、それでも、たまに吸っていた。それは、好きだったあの男の吸っていたタバコのにおいと、同じにおいに包まれるためだった。
それにくらべていまは、ドアの向こうにいるはずの彼に、あと少し待てば頼まなくても同じにおいを分けてもらえるのだ。もし彼が、タバコを吸う女が嫌いだったら、吸ってるところなんて見られたくない。だから火はつけない。彼のしぐさをなぞるだけで我慢しようと、挟んでいたタバコを箱に戻してふたたび、彼女はごろん、とソファに寝転がった。目を閉じる。全然ちがうとおもった。学校以外では会えなくて当然だったあのときと、会おうとおもえば会いに行けるいまと、全然ちがう。ほんのすこしの時間なのに。
隣にいない寂しさに、こんなに簡単に流されてしまいそうだなんて。





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メシ食いに行くかァ。
それは三時間ぶりに現れた彼がいちばん最初にくれた言葉だった。彼女の隣にどさっ、とからだを投げ出した彼の、外出っから上着持ってこい、と言う声と、頭をクシャクシャと撫でる手から、抜け出すには少しだけ努力が必要だったけれど、彼とふたりでどこかに出かけられるなら惜しくない努力だった。
家には兄が帰ってきていたけれど、引き止められても振り切るつもりだった。携帯や財布をバッグに詰めて、持ってるなかではいちばん大人っぽいはずの紺色のトレンチコートを着て、部屋から出た彼女は、どこ行くんだと聞いてきた兄に、晋助とメシ食いに行く、と、だから挑むように言った。彼は明らかに不機嫌な顔をしながら、コートの襟をきれいに立てるのを手伝ってくれた。彼女は驚いた。いったいなにが起こったんだろうという目で見た彼女に、彼は、さっさと行け、とうなるように言っただけだった。隣の家に早足で戻りながら、もしかしたら銀ちゃんがなんか言ってくれたのかも、とおもった彼女は、だから今度銀時が遊びに来たときにはたくさん甘いお菓子を作ってあげることにした。
中華でいいかァ?と戻ってきた彼女にどうでもよさそうに言った男は、さっきまで着てたダルダルのスウェットとTシャツから、細身のジーンズとYシャツと、黒いスブリングコートに着替えていた。彼女は、知り合いからバイキングの割引券もらったの思い出したんだよ、とやっぱりどうでもよさそうに呟く彼の言葉を、ほとんど聞いていなかった。はじめて見た彼のすがたを、目に焼きつけるのに夢中だったからだ。
さきに靴を履いて外で待っていた彼が、あとから出てきた彼女の手を三日前と同じように掴みながら、残りの片手で三日前と同じように括ってあった彼女の髪からヘアゴムを取り去って、ひどく満足げに、やっぱこっちのほうがかわいいな、と目を細めたとき、彼女は、火照った顔を俯けることしかできなかった。

「よく食うなァ、おまえ」

箸に水餃子を乗せたまま彼が言う。その目が彼女のそばに積まれた皿を見ているのに気づいて、彼女は我にかえった。
慌てて箸を止めたところで、けれどもう遅いんだとも分かって、恥ずかしさで顔が熱くなった。なにやってんだ俺。そっと目の前の彼を覗き込んでみれば、どこか感心したように皿の数をかぞえていて、彼女はもっと恥ずかしくなる。
中華と聞いてどこかの中華料理屋を想像してたのに、連れて来られたのはホテルの高級中国レストランだった。
相手は大人だし、割りカンなんて言い出したらかえって失礼だろうから、せめてあまり負担にならないような場所がいいとおもっていたのだ。だからバイキングで、しかも割引券があると聞いて、それならなにを食べても値段は変わらないうえに安くなると安心していたのが間違いだった。
駅から乗ったタクシーに彼がホテルの名前を告げたところでまず驚いて、ホテルに入ろうとする彼に中華じゃねェの?と聞いたら、ここの最上階にあんだよ、と言われてまた驚いて、渋い赤と黒の家具とタキシードの店員で統一された店構えにさらに驚いて、そして案内された席の目の前にひろがる、おおきなテーブルに並んだ見たこともない料理には呆然とした。
ホテルで食事なんて父親がいなくなって以来だ。いまは親と滅多に会わないから連れていってもらうこともない。仕送りは充分あるけれど、もしものために節約できるところはしたいから、そのために兄も自分も家庭料理ならある程度つくれるようになった。たまに友達とファミレスやファーストフードを食べに行ったり、休みの日に銀時が焼き肉に連れていってくれるくらいで、外食自体だからほとんどしてない。
こんな高そうなとこいいんだろうか、と、恐縮したのは、けれど最初のうちだけだ。選びきれないくらいの料理はどれも美味くて、しかも取り放題で、そしたらいつのまにか食べることに夢中になってしまったのだ。
箸を置いた彼女は、恥ずかしすぎて目を合わせられないまま、彼に向かってごめん、とちいさく呟いた。

「あ?なにに謝ってんだ?」
「だって…みっともねェだろ、こんながつがつ食って」

自分が人よりよく食べるほうだとか、はじめての外食でがっつく女なんて引かれるに違いないだとか、なんで気づかなかったんだろう。
消えてしまいそうな語尾を言い切るか言い切れないかのところで、ところが唐突に額をパチンっ、とはたかれた。
おもわず顔をあげたさきには、アホか、とため息まじりで言う彼が居た。

「残すだけ残して『もー食べれなーい』とか言ってやがる女のほうがよっぽどみっともねェよ」
「…なら、引いてねェ?」
「引くどころか、むしろ感動してるぜ俺ァ。おまえそのほっせェからだのどこにそんだけの量詰め込んでんだ?」

よかった、引かれてねェ。安心した彼女がようやくまっすぐ見た彼の顔は、ひどく楽しげに笑っていた。

「しょうがねぇだろ、食っても太んねェんだよ」
「家系か?」
「たぶん。兄さんもすげェ食うけど、全然肉つかねェってよくぼやいてるし。まえ銀ちゃんにメシ連れてってもらったときも、晋助とおんなじこと聞かれてさ。『なにそれイヤミ?』って拗ねられた」
「ははっ、あいつァ放っといたらすぐ太るからなァ」
「…マジで?」
「あいつの小学校んときの写真見てみろよ。コロッコロだぜコロッコロ。頭も白ェし顔も白ェから雪だるまみてェでなァ、爆笑もんだぜありゃあ」

言いながら彼が含み笑いをもらす。やっぱお菓子つくってやんのやめたほうがいいかな、なんておもいながら、つられて笑っているときだった。背中に置いてあるバッグがブルブルふるえるのがわかった。
兄さんかな。出かけることを、肯定はしなかったけれど否定もしないでくれた兄をおもって余計に笑みを浮かべてしまいながら、取り出した携帯のメールを開いたところで、けれど、いままでの楽しい気分がぜんぶぶち壊しになったような気がした。

「…どうした?」

勝手にゆがんでしまった顔に、気がついたらしい。まだ火のついてないタバコをくわえながらそう聞いてきた彼に、言おうかどうしようか一瞬迷った。余計な心配をかけたくなかった。同時に、くだらないと言ってもらいたい気持ちもあった。
嫌な気持ちを彼ならきっと、はじめて会ったときとおなじように払い飛ばしてくれる気がして、だから彼女は口をひらいた。

「まえ、告って笑われたって話しただろ?」

彼がタバコの火をつける。煙を吐き出すだけで、けれど返事がないことに、かえって落ち着くことができた。あのときとおなじだとおもった。きっと、このあともおなじようにくだらないと言ってくれる。

「あんとき俺が告ったヤツと一緒に笑ってたヤツらってのが、女だったんだけどさ。そいつらがオトコ紹介してやるってしつこくて。あんましつこいから…言っちまったんだ、彼氏ならもういるからいいって。そしたら今度は、紹介しろって」
「おもしれーじゃねぇか」

予想外の言葉だった。おもわず顔をあげた彼女は、ニヤ、と口の端を上げて笑う彼の、ちっとも笑ってない目に、やばいとおもった。
はじめて会ったときに感じたやばさと、比較にならないくらいやばい。

「そいつらいまから呼び出せ。他人の色恋沙汰笑いモンにするくれェヒマなガキ共なんだろ。おまえのカレシがタダで酒飲ましてやるっつってるって言やァ飛びついてくるさ」
「っしん、」
「ああ、ダチのオトコ紹介したがってるでもいい。なんでもいいからとにかく引っ張りだせ」

うすいくちびるから彼が煙を吐き出す。名前を呼ぶ隙も与えられないまま呆然とそれを見ていた彼女に、彼は、ひどく楽しそうに言った。

「仕返ししてやろうぜ」

それは、ささやくような低い声だった。


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たかすぎはキザでなんぼだとおもいます。
なんかだんだん路線がずれてきたな。
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