どうしてここにいて、どうしてそばにいないんだろう。
目覚めた彼女を悩ませたのは不満と疑問の両方だった。寝転がったからだごと、誰もいない隣へ傾ける。外から彼女を閉じ込める、カーテンの隙間とおなじ幅のひかりが、均一な薄暗さに染まるシーツをまっぷたつに突き抜けていた。
手のひらに、ぬくもりをくれるのはそこだけだった。彼の温度をくれない彼のベッドに置いていかれるのははじめてで、無条件に寄せた眉間はけれど、ほどけるのも早かった。一緒になってほどけてしまいそうなくちびるから、鼻先まで、引き寄せた掛け布団のしたに隠す。
大きく息を吸い込んだ、拍子に、しみついたたばこのにおいにつられてとうとう、浮かべてしまった笑みを彼に、見られたくないきもちと見せつけてやりたいきもちも両方だった。会えなくても平気だったと、強がったってきっと彼にはバレてしまうんだろう。だからって何日も放っといて、挙げ句置き去りにしていった彼に、無邪気に喜んでやるのも悔しかった。
昨日の記憶は流し込んだビールの苦さで終わっていた。自分の記憶だけがないのか、意識ごとなかったのか、腫れぼったいまぶたの理由はむくんでるだけなのかそれとも泣いたせいなのか、聞かなきゃわからないことはあまり聞きたくないことばかりなのに、聞かなくてもわかる彼のきもちはどうしても、彼のことばで聞きたかった。
会えなくて寂しかったと、彼はちゃんと言ってくれるだろうか。言ってくれれば素直に、自分もだと白状してやるんだけれど。

「さっさと帰ってこねーかな」

ひでー声。カサカサになったこえと喉に、つぶやいてみてはじめて彼女は気がついた。まずはなにか飲もうと、からだを起こしたとたん彼女が顔を赤くした原因は、布団のしたから出てきた彼女自身の格好にあった。
着古したパジャマに、まとめ買いしたヘンな柄の靴下なんて、彼は見てなんておもっただろう。彼に会うときはいつも、たとえ家に遊びに行くだけだって不自然じゃない程度に身なりを整えてきたいままでが、これじゃあ台無しだ。当たりどころのない後悔を苛立ちに変えて、かきあげた髪はごわついていた。首すじは汗でなんとなくべとついていて、チクショー、とつぶやいた合間の吐息からも、パジャマの裾からも、酒のにおいがした。ひさしぶりに彼の目が見て、ひさしぶりに彼の手がさわる髪や、からだや、くちびるがこのままだなんて、耐えられなかった。
彼が帰ってくるまでいったい、どれくらいの時間が残ってるんだろう。喉の乾きよりも手がかり欲しさに、彼女は勢いよくベッドから立ち上がった。
ドアを開けたとたん、むき出しの窓から差しこむ日に細めた目は、それでもテーブルのうえの紙切れ一枚を見逃さなかった。昼過ぎには戻る、と、雑な一行を片手に、テレビのうえの時計を見る。二つの針は十一よりすこし手前で並んでいた。
着替えを取りにいこう。寝覚めのいい彼女のあたまが結論を出すのはあっという間だった。シャツくらいならいつもみたいに彼のものを借りればいいけれど、下着からなにからぜんぶ取り替えたいいまは家に戻るしかない。いちばんお気に入りのショーツとブラに、彼の好きそうな服を準備して、彼の家で風呂に入れば、行き違いになることもないはずだ。
髪は、彼が帰ってくるまで乾かさないでおこう。濡れっぱなしで迎えてやればきっと、当たり前の顔で彼がやってくれる。すぐそばに待ってるはずの未来をおもって、緩んだ目じりをそのままに外へと駆け出した彼女は、けれど、家の脇に寄りかかるベスパを見てはじめて、家の鍵を持っていない自分と中にいるはずのふたりのことをおもいだした。
飲みはじめたらさいご、酔いつぶれて寝てしまうまでやめないふたりに飽きれながら、戸締まりをするのはいつも彼女の役目だ。鍵が開きっぱなしの可能性はだから高いんだけれど、律儀な彼女の兄が閉め忘れない可能性もゼロじゃない。そのときはふたりを起こしてでも中に入ろうと、おもえないだけ、ふたりの時間を邪魔してきた自覚もあった。
開いてますよーに。願いをこめて握りしめたドアノブが、おとを立てないようそっと、まわしてみる。あっけないほど簡単に開いたドアに彼女は、こっそり息を吐いた。
彼女と、リビングのドアまでをつなぐ短い廊下には彼女の予想どおり、寝静まったままの静けさと薄暗さがあった。つまさきから慎重に、足を踏み出していく。ドアを開ければ、すぐ左側が彼女の兄の部屋だった。
起きてるときは憎まれ口ばかり吐きだすくせに、子供みたいに恋人にすり寄って眠る彼女の兄と、自分の恋人をまるでいろんなものから守ろうとするみたいに、両腕で抱えこんで眠る銀髪を、ほんのすこし覗き見してこっそり吹き出すのは、彼女だけの特権だった。彼女はいままで開けたどのドアよりもそっと、ふたりが眠る部屋のドアにすきまをつくった。
狭いシングルベッドのうえでふたりがまとっていたのは、腰からしたの薄い毛布一枚だけだった。
闇のまじった日のひかりのしたで、おおいかぶさる銀髪の色素のうすい首すじに、すこし日に焼けた腕を隙間なく絡みつけた彼女の兄の、薄く開いたくちびるは、銀髪がからだを揺らすたびに、こえとため息のあいだみたいなおとをこぼしていた。もどかしそうに寄った、彼女とおなじかたちの眉に、落としたくちびるを銀髪が、耳まですべらせた。胸に胸をぴったりと寄せながら、銀髪がなにかをささやく。
瞳孔の開いた目が笑みを浮かべた。まるで悪戯でもおもいついたような笑みを、浮かべたまま銀髪の耳もとになにかをささやきかえしたら今度は、銀髪が笑った。ひどく挑戦的に笑った顔で、下敷きにした恋人の顔を覗き込みながら銀髪が、いままでよりおおきく腰をゆすった。彼女とおなじ顔が、おどろいたようにゆがんだのは一瞬だった。うすいくちびるはひどくかすれた、すすり泣きみたいなこえを、なんの躊躇いもなく吐き出した。
甘ったれたこえだった。銀髪が嬉しそうに笑う。笑いながら、そのこえを飲み込んだくちびるのかたちも、横顔も、筋の浮いた腕の長さも、太さも、白い手もゆびだって、なにもかもが彼とはすこしも似ていなかった。なのに彼女は、彼女を抱く彼のことばかりおもいだした。
うらやましいとおもう自分がいた。そうおもうことはひどくいけないことだと、彼女の理性と羞恥心がどんなに訴えたって、止められなかった。彼にさわってほしかった。意地が悪くて優しい彼の手が、銀髪に負けないくらいたくさんさわってくれたらきっと、兄に負けないくらい甘えたこえで啼いてみせるのに。
からだじゅうがまるごと心臓になったみたいだった。脈打つ血と熱で取り囲まれて、震えるからだが、つまづかないようゆっくり、ふたりの部屋を離れる。着替えのことなんて忘れていた。玄関を出るころには、おとを立てないようにすることさえ忘れていた。
ビニール製のサンダルを引きずりながら、彼の家に逃げこんだところで彼女は、立ち尽くすことしかできなかった。くちびるを噛む。泣きたくなった。ひとりじゃどうすることもできないのに、どうにかしてくれるはずの彼がたとえ、帰ってきたところでさわってほしいと、自分から言い出す自信なんてこれっぽっちもなかった。言い出していいことなのかもわからなかった。
だって彼は、めんどくさいのが好きだと言ってたじゃないか。自分から喜んで足を開くような女は嫌だと言った彼に、抱かれたいなんて、言ったらきっと飽きれられてしまう。

「…ふろ」

ぼうっとするあたまが、おもいついたのはうわごとみたいなそのことばだけだった。熱いシャワーを浴びれば、すこしはマシになってくれるかもしれない。後づけの理由をはげみに彼女は、おぼつかない足を脱衣所へ向けた。
酒くさいパジャマを、下着ごと乱暴に脱ぎ捨てる。髪をくくっていたゴムはそのうえに放り投げた。
クリームいろのタイルのうえに、足を踏み入れる間際、いちど閉め切ってしまった廊下へと続くドアを彼女は、ほんのすこしだけ開けておいた。風呂場のドアもおなじにしておいた。彼が帰ってきたおとを、聞き漏らさないためだ。すこしでもはやく会いたいことに変わりはなかったし、それに、ずっとくっついていればいつもよりはやく、彼がそういう気になってくれるかもしれないと、計算する自分が彼女はひどくあさましくおもえた。
彼のせいだ。さわってもらえるのが気持ちのいいことだと、このからだに教え込んだ彼が、ぜんぶ悪い。いっぱいに降り積もるシャワーを、頭からかぶりながら彼女は、自分のからだを見下ろす。色気がないと、昔好きだった男がバカにした細いばっかりのからだも、ちいさい胸も、彼に何度もかわいいと言われるうちに、そんなに嫌いじゃなくなった。
骨っぽい彼の手が、簡単に隠してしまえる胸を片方、彼がするのとおなじように手のひらで、包み込んでみる。彼よりずっとちいさい彼女の手には、隠れてくれなかった。どうしたって足りないんだと、目の前に見せつけられて余計に、彼の手がほしくなった。ふわふわと熱っぽいあたまに、霧雨みたいなシャワーのおとが響く。聞こえるのはもう、それだけだけだった。ためらうこえは遠くに消えた。
淡くいろづいた胸のさきを、彼のゆびをおもいだしてゆびで、こすってみる。

「っ、ん」

ただでさえ不確かだった足が、崩れそうになるのを、片手を壁について支えた。それでも不安定で、肩ごともたれかかった。
つぎは、なにをすればいいんだろう。彼はいつもどうしてくれただろう。目をつむって思い浮かべながら、ふたつのゆびでそこを、ゆるくつねった。

「んンっ」

ぴんととがってきたそこを、くにくにといじってやるごとに呼吸が、乱れていく。
腹の奥のほうで、きゅうっ、とうずくもどかしさを、どうすればなぐさめてやれるか教えてくれたのも、彼だ。からだを支えるためだけに使っていた腕を、自由にしたくて彼女は、背中をぴったりと壁につけた。すこしずつ、しゃがみこんでいく。
流しっぱなしのシャワーの温度を吸って、ぬくもったタイルに、両ひざを立てて座り込んだ彼女は空いた手を、足のあいだにすべらせた。いつか彼が、薄いよな、とつぶやいたおかげで、誰と比べてんだと言い争うことになった、しげみの奥に、隠れたそこからは、水とは違うものがとろとろとこぼれていた。
自分でさわるのははじめてだった。ゆびとゆびのあいだに、絡みつくような蜜をいつもわざと、おとを立ててかきまわす彼をおもいだしたら、からだの熱がまた上がった。震えだすゆびを、ひとつだけ、うるんだそこに押し当てる。ひざとひざが、勝手にすり寄る。

「っぁ、あ…っ」

いちどにはいってしまわないよう、ゆっくりとちからを込めたつもりだった。なのに信じられないほど熱くてやわらかいそこがゆびを、つけ根まですぐに飲み込んでしまったものだから彼女は、怖くなった。彼のゆびよりほそい自分のゆびが怖くて、怖いのに、もっとほしいと蜜をこぼす自分のからだが怖かった。
どうして彼じゃないんだろう。彼のゆびなら、彼をほしがるからだなら、なにも怖くなんかないのに。受け入れる方法を彼にちゃんと、教えてもらったのに。

「…んすけ、しんすけ…っ」

吐きだす息に合わせて、きゅうきゅうとうごめくそこを、かきわけるゆびが彼のものだと思いこむために彼女は、彼がしてくれるときとおなじように彼を呼んだ。
湯気と、熱と、にじんだなみだで、たいして役にも立たない目に、明かりひとつ映らないよう強くつむったのは、彼を思い浮かべるためだ。楽しそうにぎらついた目と、黒い文字に塗りつぶされた目で、意地悪くささやく彼のこえならいくらでも浮かぶのに、彼女が泣きだすまで彼のゆびが、なでてくれる場所には、届かなかった。彼女は胸から離した手を、やわらかいあわせ目のあいだに隠れた、ちいさなとがりに這わせた。彼にだって、なだめてもらわなきゃ逃げ出してしまう、そこしか、どうしようもないもどかしさをすこしでも満たしてくれるような場所はおもいつかなかった。
まぶたが引きつりそうなほどしっかり、目をつむりなおして彼女が、いちばん先端にそっと、こすりつけようとしたゆびは強いちからに引きはがされた。

「やーらしくなっちまったなァ、おまえ」

聞き慣れてるよりこもったこえをさいしょは、まぼろしの続きだと彼女はおもった。
おもいたかったのは、ぜんぶの感情をくつがえすほどの勢いで舞い戻った、羞恥のせいだ。おどろいたからだが彼女のなかにはいりこんだゆびをぎゅうっ、と締めつけた、そのせいで、自分がしたことを突きつけられた。それでも消えないもどかしさに、上乗せして脈打つ心臓が、爆発しそうにうなりたてる。すり寄ったままのひざが震えだす。目を、開けたくなかった。ほしがりな自分を彼に見られてしまったと、信じたくなかったのに、ずっとほしかった手に、頬をなでられたら、彼に会いたいきもちがたやすく勝った。

「ずっとそーやってひとりで遊んでやがったのか?」

髪も、服も、眼帯も、水浸しのまましゃがみこんだ彼の笑う片目はひどく、ぎらついていた。
飽きれてる目なんかじゃなかった。彼女を、抱くときの目だと、知ったとたん彼女のからだじゅうが訴えたのは、期待だった。
ほしがってもいいんだと、確信したって、恥ずかしさが完全に消えてくれるわけじゃなかった。ただいまならほしいと、ことばにできる気がした。彼のことばをゆるく振ったくびで否定しながら彼女は、なかに入りこんだままだったゆびを引き抜いた。その手で、もう片方の彼女の手をつかまえる、彼の手にふれた。

「足んねーんだ」

この手にやっと、さわってもらえる。ちいさな胸を包み込んでもらえる。届かなかった場所もなでてもらえる。震える彼女のこえも、手も、理性と羞恥と期待の、そのどれもが理由だった。

「俺のじゃぜんぜん足んねーのに、アンタが、放っとくから」

骨のつなぎめがわかる彼の、手の甲を、つかみとる彼女の手にちからがこもる。
くすぶり続けるもどかしさが、はやくこれをほしいと、ねだるのに、どうやってことばにしていいのかわからなかった。焦れったさを、楽しむような彼の目に彼女は、腹が立った。彼女に負けないくらいほしがる目をしておきながら、彼女ばっかりが追いつめられてるような言いかたをする彼を、打ち負かしてやりたかった。にじんだままの目を彼女は、彼に向かっておもいきりとがらせた。

「っ覗き見してるヒマあンなら、さっさと抱きに来りゃいーだろ!この甲斐性なし!」

一瞬だけ見開いた彼の目に彼女が勝った気になった、そのときにはもう、彼のするどい片目は笑みを取り戻していた。
どこかで見たことのあるその笑みが、どこで見た笑みなのかを彼女が、おもいだすまえに彼が、彼女の両肩を強く引き寄せる。

「甲斐性見せりゃいーんだな?」

だったらまかせとけ、と、ささやく彼の目が、ほかになにも見えなくなるほどちかくにせまった。彼女は知らずに息を止めた。

「おまえが気ィ失うまで抱いてやるよ」

さっき見た銀髪とおなじ目なんだと、気がついた背筋をぞわっ、と一気に突き抜けたものが恐怖なのか、期待なのかは、わからなかった。


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これで3トラップです。あと2トラップ、でおさまるのかどーか。
次は初のたかすぎ目線でえろをいってみよーとおもいます。たのしーな!たのしーな!


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