近所の珈琲屋で高杉と別れを告げた次の日、彼女は久し振りに家から学校まで、一人で通学した。いつものように朝から携帯に呼び出しのコールが届くこともなく、同じ学校の生徒で賑わう駅から学校までの道のりを一人で歩くのは本当に久しぶりだった。
 クラスメイトに「高杉さんは?」と問われたので素直に分かれたと告げた瞬間、その日の休み時間全てが質問の嵐に襲われることが決定した。興味深々といった様子でしかし席まで訪ねてくる女子も入れば、廊下ですれ違い様に見知らぬ男子から彼氏と別れたのかとだけ不躾に言葉を投げてくる者もいた。
 みんな最悪だ。
 別れるときに一悶着あっただけではない。一目惚れした男に、まさに暴言を吐いた瞬間を見られ、しかも鋭いナイフのような言葉で切りつけられた。
『……自惚れすぎだよ、お前』
 自分が大好きで自惚れているわけじゃない。俺が自惚れるようになったのは誰のせいだよ!
 夜の帳が降りた真っ暗な自分の部屋で、彼女は昨夜何度もそう叫びたかった。
 毎日蝶よ花よと育てられ、周囲の人間からは挨拶のように「可愛いね」と言われ続けてきた幼少時代。けれど、彼女はそんな自分の容姿を誇ることはできなかった。逆に、この顔のせいで、何度そう思ったことが知れなかったくらいに、自分のことが好きではないのに。
 なのに、あの喫茶店で男が言葉にしなかった唇の動きで呼んだ「可愛い」という言葉だけは。あの言葉だけは、心の底からうれしかったのだ。
 胸にじわじわと浸っていく言葉はまるでぬるま湯のようで、いつまでも浸っていられる気がした。初めて、本当にかわいいと言われたと思った。
 嬉しくて、幸せで、なのにあっさりとその恋は砕けてしまった。
 悲しみに暮れ、高杉に対する罪悪に泣き、夜が明けてやっとの思いで一日の学校生活を終え疲れ果てた彼女を、まさに今正門を出ようとした瞬間に引きとめた男は言ってはいけない言葉で彼女に己の想いを告げた。
 入学した時からずっと可愛いな、って思ってて。
 俗っぽい言葉だ。なんて、安い。
 初めて見た男を一瞥した彼女は、何も言葉を零すことなくゆっくりと駅に向かって歩き出した。
 地元の駅までの十数分間はあっという間だった。
 何も考えたくないと願った彼女に舞い降りた睡魔が一瞬で彼女を彼女の家がある駅まで運んだのだ。
 改札に定期を翳し、開かれた道を俯いて歩く。
 駅から自宅までの道には、あの珈琲屋がある。そしてその店の中には、甘い言葉で彼女を翻弄し、冷たい言葉で突き放したあの白髪の男がいるのだ。
「あ、いた」
 走って通り過ぎよう、そう思った矢先、覚えがありすぎる声で彼女は引きとめられた。
「な、に」
 目の前には、初めて彼を見たときと同じジーンズにスニーカーを履いた男だった。相変わらず、白い髪はふわふわと風に揺れている。
 また何かを言われるかもしれない。……これ以上傷つきたくないという自己防衛本能が、早くこの場を立ち去らないといけないと警鐘を鳴らしていた。早く、帰らないと。
「昨日のお金。多すぎ」
「え?」
「お釣り、返すからちょっとおいで」
 有無を言わさない、声色だった。
 自分に逃げる場所は無いのだと思い知らされたのは、彼がただそう告げて一人歩き始めたことで見えた背中のせいだ。一度も振り返ることなく、彼はただ立ちすくむ自分を残してどんどん歩を進めていく。
 ここでついて行かなくても、別に何かがあるというわけじゃないかもしれない。
 けれど、ついて行ったら何かがあるかもしれないじゃないか。
 黙って立っていた彼女の頭の中でそんな悪魔のささやきが響く。警鐘はまだ鳴ったまま。けれど彼女は、気付いた時には誘われるようにゆっくりと右足を踏み出していた。


「はいお釣り。800円ね」
 レシートいる?
 にっこりと笑いながら尋ねられ彼女は小さく首を横に振った。
 他に客のいない店内の、カウンターの中にいた白髪の店主の傍までやってきた彼女は手のひらで小銭を転がしながらどうするべきなのかわからない。
 このまま帰っていいのか、それとも、昨日のことを謝罪するべきなのか。
「座ったら?」
 そんな彼女の心を読んだかのように、香りが芳しい珈琲豆をさらさらと量りに乗せながら彼は穏やかに言った。素直に椅子に腰を下ろす彼女の心臓は、ドクドクと強く脈を打ちつける。
 そっと見上げた彼の顔が穏やかなことに安心する。
 とろん、と蕩けそうな赤い瞳を白い睫毛で覆い、眉毛は緩やかな孤を描いていて、一つずつそれを認識するのが恥ずかしくて俯いた。
「学校、どうだった?」
 しばらくしてそっと差し出された白いカップには、珈琲がなみなみと注がれている。見上げた先の彼が、どうぞ、と言うので素直に口をつけながら、何故そんなことを聞いてくるのだろうと思う。
 久し振りに、面倒な一日だった。
 そう答えれば良かったのだろうか。
「元彼には、会ったの?」
「会ってない」
 いつものように昼休みは逃げるように中庭に出ていったけれど、彼は現れることは無かった。姿を現した黒猫には、彼の代りに彼女が食パンを一枚千切って差し出した。
 久し振りに過ごした静かな昼休みだった。
 少しだけ寂しくて、でも、仕方が無いと思う。高杉を振ったのは他の誰でもない、自分なのだから。
「へぇ…じゃぁなんで、そんなに疲れた顔してんの?」
「……え?」
「え? じゃなくてさ。なんかすげー憔悴してんじゃん。ふらふらしてたし。飯くった?」
「……くった…?」
「いやいや、聞かれても。…しょうがねぇなぁ、銀さんお手製のスコーン食うか?」
 そういえば、鞄が重いのは弁当箱の中には母親が作ってくれた昼食が残っているせいなのだと思い至った。昼休みは、黒猫と戯れた後、数件の呼び出しに応えていたら終わっていた。

「……すみません」
 クロテッド・クリームを塗って食べるスコーンはとても美味しかった。
 普通は紅茶に合わせるもんなんだけど、と断って出されたこの焼き菓子は空腹を静かに訴えていた彼女の心をも満たしていく。
 小さく割ってゆっくりと咀嚼しながら、彼の人の良さに疑問が浮かんだ。
 まるで、もう二度と来るなというように告げておきながら、こうしてコーヒーと菓子まで出してくれる。カウンターの向こう側で椅子に座った男は、甘い香りを漂わせるココアを啜っていた。
「小さいころから、ずっと可愛い可愛いって育てられてきたんだろ?」
 ソーサーにカップを置いた店主は吐き捨てるように言った。苦笑を滲ませてそんなことを言われて、彼女はゆっくりと頷いた。
「まぁ確かに……可愛いけどねぇ」
 赤い目と視線が交錯したのは一瞬で、その目はまるで品定めでもするように彼女の頭のてっぺんから、カップを持つ指先までを見つめる。
 見られているというところから、熱を持っていくような気がした。
 白い頬が熱で朱に染まり、指先も赤くなる。
「でもっ……!」
 熱を持った指先で、温かいカップを掴むのは落ち付かなかった。行き場を失った手をスカートのプリーツに乗せて、彼女は小さく零し始める。
 カップの中の黒い液体に映る自分の顔を見つめながら、自分がどう思っているのかを。
 この、憂鬱ばかりを生み出す容姿について抱える自分の想いを。


「……モテるってのぁ、大変だなぁ、オイ」
「……」
 こんなことを言ったのは、生まれて初めてだった。
 親になんてとてもではないが言えない。両親は二人ともとても端正な顔をしていたから、心の弱い母が聞いたら卒倒してしまうかもしれなかったから。
「良かったー俺モテなくて。…いや、でも少しはモテたいかなぁ…」
 いつの間にか空になっていたカップの中に、コーヒーを注ぎながら店主が言う言葉を彼女は信じられないと言う表情で聞いていた。
「そんな! モテてたでしょう、すごく、かっこいいです」
 だって、一目惚れしてしまうくらい、こんなにも格好いいのに。
「ぶっ…」
 思わずカウンターに手をついて勢い良く言うと向かい側で横を向いてココアを啜っていた店主が勢いよくココアを噴き出した。
 突然の反応に彼女の肩が大きく揺れるのと同時、店主はゲホゲホと噎せていた。 「だ、大丈夫ですか…?」
「大丈夫…だけ、ど…ちょ、君、目大丈夫?」
「大丈夫ですよ?」
「……眼科紹介してあげようか」
「いりません! 俺、ちょっと前に喫茶店でアンタに一目惚れしたんだ!」
 完全に勢いだった。
 激しくかわされる口論の間で、彼女はぽろっとポケットから何かを落とすように言ってしまった。言った後にしまったと口を手でふさいでも、何もかもが遅かった。少し熱いだけで済んでいた頬が氷を求めるほどに熱くなり、きっと誤魔化せないくらい赤くなっているのだろう。
 し、しにたい……!
 彼女が時を戻せないことを激しく恨みながら固まっていた間、白髪の男は大きく目を見開いて何度も瞬きを繰り返していた。

「えーっと……俺、もう今年で三十だけど…?」

 混乱を来している店主が言えたのはたったこの一言だけだった。
 思わぬ発言に目を白黒させている彼女がその言葉の意味を把握できるようになったころ、乾いた音とともに一人の老人が店内に入ってきた。



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