「だから俺、お前と別れたいんだけど」
「……は?」
 家の近くにこんなに美味い珈琲屋があるなんて知らなかった。
 小さなカップの中で揺れている黒い液体を眺めながら、ぽつりと彼女は呟いた。ゆらゆらと揺れる水面には彼女の恋人、もとい元恋人である隻眼の男の顔が斜めにゆらめいている。その黒い液体に映る顔では、彼の表情までは伺えなかった。
 彼女が何度も告げている言葉をもう一度音にしたとき、彼女の向い側に座っている男はただじっとしていた。身動きもせず瞬きも止めて、呼吸をすることも止めて、ただじっと。
      面倒だなぁ。
 彼女は、この男と付き合い始めた瞬間と同じことを思い浮かべて小さくため息をついた。

 入学してから一か月、彼女に言い寄る男の数は学校に通った数を軽く超えた。新しくできた友達は皆口を揃えてかわいいと彼女に言ったが、それは彼女にとっては当たり前のことでしか無く、高校に入っても変わらないのか、そう思うだけで、彼女はただ静かに人知れぬ場所で何度も溜息を零していた。
 それは彼女にとっては当たり前で、幼いころから変わらない日常だった。
 鬱陶しくてたまらない日常を彼女はため息をつくことでやり過ごしていたけれど、ある日友人から、1回溜息つくと1つ幸せが逃げるんだって、という言葉を聞いて、いったい自分はいくつ幸せを逃がしているんだろうと数えようとしてやめた。
 数え始めたらキリがない。それくらい数を重ねている溜息の回数を思い、だからいつまでたっても幸せになれないんだと結論付けるくらいには、彼女の日常生活には嫌気が差していた。
 変わらないはずであった憂鬱な毎日がある一つの噂によって彼女の生活を楽なものへと変えていくことになったのは、彼女が告白してくる幾人の男を振り続けた頃だった。
 クラス一、否、学校一と言われる美しさを持った彼女は、実は男に興味が無いんじゃないか。
 そんな下世話な噂が学内を走り抜けた。
 彼女は動揺すらしなかった。逆に手を煩わせるばかりの告白の山が無くなったことを思えば、こんな根拠のないくだらない噂を流した奴に感謝さえしてもいいと思うくらいで、次第に彼女の溜息の回数は少なくなっていく。

 そして、下駄箱の中の手紙も、昼の呼び出しも、放課後の誘いも全てが無くなった頃、この男は燦然と彼女の前に現れた。
 一つ年上の、有名な男。
 長い前髪で隠された下には幾重にも重ねられた包帯がある。
 唯一見える片方の切れ長の瞳は凶悪で、だるそうに緩く締められている派手な柄のネクタイは明らかに校則指定のものではないのに、逆に校則指定のものなのかどうか尋ねたくなる程燦然とその首元に輝いていた。
 彼女が静けさを求めてやってきた校舎裏。
 後からやってきた彼は手に持っていた食パンをそっと木の下に置いて姿を消した。代わりに現れたのは黒い猫。くんくんとパンの匂いに鼻をならした彼、か彼女かわからない黒猫は口をあけてそのパンに齧りついた。
 顔に似合わねぇことしやがる。
 それから毎日、彼と顔を合わせるようになった彼女が彼からの告白を快く受け入れたのは、面倒だと思いながらも中々面白いことがあるかもしれないと、ただそう思ったからだった。

 それからの毎日も、緩やかに過ぎていった。
 彼の告白を受け入れてから変わったのは、朝と帰り、家と学校を往復する時間が一人では無く二人になったことだった。朝は最寄の駅まで彼が迎えに来て、帰りは家の前までついてくる。
 たまには一人になりたい時だってあると彼女が言ったところで、過保護なまでに彼は一人で帰宅することを許してくれなかった。
 滅多にねぇくらいの別嬪が何言ってやがる。
 そんなことを言う彼に、彼女はいつも言葉を返すことは無かった。

 夏が終わり、秋がきた。
 制服の上に着たセーター一枚では肌寒く、かといってコートを着込むにはまだ早すぎる。
 一際温度の低い朝。いつものように家まで迎えに来た高杉と歩く通学中、ぽつりと寒いと彼女が呟いた。
 その直後、ふわりと肩にかかった生ぬるさ。
 少し前を歩く男の着ているはずのブレザーが、自分の肩にかかっていた。
 そっと手でそれを確かめてから男を見ると、彼はなんでもなさそうな顔をして口を閉ざす。
 やっぱりだめだ、こいつ。
 その瞬間。彼女は数日前の奇跡のような邂逅を想い浮かべ、するりと言葉を紡いだ。
「高杉、俺と別れろ」

 別れろと告げた次の日から、まるで空気を読んだように試験期間に入った。
 試験前は、さすがの高杉も家まで土方の送迎に現れることはなくなる。
 素行不良でも成績はそれなりに良いらしい彼は学校からの帰り道だと土方よりも数駅先に住んでいるので、試験期間の二週間だけが、彼女が一人で過ごせる唯一の時間になっていた。
 だからか、先日の彼女の言葉は有耶無耶のまま流されてしまっているようだった。昼休みには変わらず共に昼食をとるし、彼女が下りる駅までは一緒に通学する毎日だ。
 けれど、別に焦って別れることもないと彼女は思っていた。
 どうせこの男と別れればまたしばらくは告白三昧の毎日が続くのだろうし、だとしたら、せめて試験が終わるまでは今のままでもいい、と。
 しかしそう思うと同時に、小さな罪悪が彼女の胸に生まれるのだ。だから彼女は心の中で高杉に向けて言葉を紡ぐ。利用して悪い、と。

 自宅で勉強するとどうしても集中できなから、彼女はいつも地元駅の近くにある喫茶店で勉強してから帰宅するのを好んでいた。いつも座る二階の窓際のカウンターには若い女性の姿。見まわしたどの席も自分と同じように音楽を聴きながら勉学に励む高校生や大学生で一杯で、仕方なく登ってきた階段を下り、出入り口の横に並ぶカウンターの一番出口よりの場所に荷物を下ろしノートを広げた。
 当たり前だが、客の出入りの度に開く扉のすぐそばでは集中力も途切れやすく外気にさらされれば、寒い。しかし混雑した店内で、この席を立った後に他の席に座れる保証は無い。仕方がないと諦めて、彼女は懸命に数字とにらみ合いを始めていた。
 数字を追えば自然と集中は強くなる。
 何度も開いては客を招き入れ、もしくは排出しているはずの出入り口も、彼女にとっては何の障害にもならなかった。けれど、寒さだけは違う。
 シャーペンを握る手がかじかんで、思うように数式を並べることが難しくなったとき、ようやく彼女は異変に気がついた。
 自分と反対側に立つ男が、脚を組みかえる度に自動で開く扉が外の冷たい空気を招き入れるのだ。
 視界に入るジーンズにスニーカー。
 他人の迷惑考えやがれ、近頃の若い男は…。
 彼女が久方ぶりに大きなため息をつきながら視線を上げた先、思わずその瞳は大きく見開かれることになる。
 白髪だ。ふわふわと乱雑に跳ねる白髪の量は半端が無い。こんなに髪がふさふさな老人も珍しい、そう思った後に見た顔には、予想していた皺が無かった。
 そりゃそうだ、老人がジーンズにスニーカーなんて、若ぶるかよ。いや、でも待てよ白髪だぜ。おいおい、人生に疲れたタイプか?マリーなのか?
 彼女はただその顔をしばらく見つめていた。
 赤い瞳が、透明なガラスの向こう側で夜の闇に色を変えていく空を眺めながら白く縁取られた睫毛に隠れるのを数度みた頃に、その赤い瞳と彼女の瞳が交錯する。
 緑色のストローを銜えてていた唇が、ゆっくりと動く。
 音は無かった。けれど、たぶん、彼は「可愛い」と、そう言ったのだと思った。
 何度も言われ慣れているはずのセリフなのに、寒さでかじかんでいたはずの手はじんわりと熱を持っていた。頬も熱くて、彼と繋がった視線を切るように店内に入ってくる客が連れてきた冷気が気持ちいい。
 ドクリと鼓動が高鳴った。今まで普通に座っていたはずのカウンターが、急に居心地悪く感じられて、もじもじと座り直してはスカートの裾を、綺麗にプリーツの折り目に合わせて伸ばしてみる。
 顔を動かしてあの男を見るなんてそんなことはできなかったから、横目でちらりと男が立っていた場所を盗み見るとそこはもぬけの殻だった。
 向かいの透明なガラスの向こうの冷たい世界に視線を巡らせても、どこにも空気に踊るふわふわな白い毛を見つけることは叶わなかった。
 一瞬で落ちて、一瞬で終わった恋だ。
 どくどくと小さく、けれど確実に打ち続けている心臓を落ち着かせるために、ぬるくなってしまったコーヒーを嚥下する。
 そして彼女は決めたのだ、あの男とはちゃんと別れよう、と。


「何度も言わせんな」
 向き合って座っている男の隻眼は、いつもと変わりないようで漆黒の瞳の奥底は困惑に揺れているようだった。ずっと引き結ばれたままの唇の向こう側で、男が何を考えているのだろうと彼女は思考を巡らせる。
 どうせ、何が悪かったんだろうとか、いろいろ考えてんだろ?
 言葉にはならなかったが知らずうちに小さく傾いた彼女の頭。さらさらと黒髪が重力に従って流れるのを男はただ眺めることしかできなかった。
「ぁあ? ンでだよ」
 時折掠れている男の言葉から、彼がいかに緊張しているかを彼女は初めて知った。そこに気づいて、彼女は一層別れなければという思いを強くする。
「別に。俺が、もうお前のことを特別に見れなくなっただけで」
 見た目や口調こそ凶悪なものの、心根は優しい男だ。
 滅多にいないくらいには、誠実な男だとも彼女は思っていた。
 だからこそ、気持ちの無い相手を恋人とするよりも、他にもっと彼を好いている女と結ばれる方が彼は幸せだろうと思うから。だから、別れなければいけない。
「……嫌だ」
 彼の幸せを願ったのも事実だったが、彼女が別れることを望む理由は、そんな綺麗なものだけじゃなかった。数日前に、一瞬で心を攫っていったあの男を、彼女は探さなくてはいけない。
 そのためには、目の前に座る男は彼女にとって障害でしか無くなってしまっていた。
「……どうせ、お前も俺の顔目当てだったんだろ?」
 いつまでも頑なに今の関係を守ろうとする男に、面倒くさいという思いばかりが募っていく。そうだ、そう言えば自分はこの男のしつこさにも多少辟易していたのでは無かったか?
「面倒くさいんだよ…、毎日毎日、俺のナイト様気取りかよ?」
「……土方」
「別れよう。お前の顔、当分見たくないんだ」

 一度も手が付けられないままの白いカップを残して、男は何も言わずに席を立った。机の横には一枚の紙幣が置かれていたが、彼がこの店を出てしばらくしても彼女はその紙幣に触れることができなかった。
 最後に見た黒い瞳が、傷ついていることなど彼女には見なくても分かっていた。それだけのことを自分は言ってしまったのだ。
 今まで数十人と告白を受けてきた自分だから分かる。
 あの男は、ちゃんとこの顔だけでなく、性格も全て愛してくれていた。
 どんな我儘で振りまわしても、それを楽しんでくれていた。逆に向こうもとんでもない我儘を振りかけてくることもあって、確かに、共に過ごした日々は楽しさに満ちていた。
 なのに終わりはこんなにも呆気なく訪れてしまう。しかも、最悪な形で。
 ゆっくりと息を吐き出して、コーヒーを流しこむ。
 ブラックコーヒーなど常に飲んでいるはずなのにとても苦く感じられた。
 自分で告げた言葉に傷ついて、なんとも本末転倒な今の状況が何故か笑えてしまう。家に帰って少しだけ泣いて、それで明日から普通に過ごせればいい。
 机の隅にひっそりと寝ている伝票と、あの男が置いていった紙幣を掴んで席を立つ。出入り口近くのレジに伝票を置くと、斜め上から低くだるそうな言葉が降ってきた。
「彼…あぁ、元彼か? かーわいそ」
 見上げた先は、白かった。
 くるくるとした髪は自由奔放に跳ねている。オレンジ色の明かりを金色に反射するその髪の色は、見間違うはずのない、求めていた色。白だ。
「あんたどんだけ自分が可愛いと思ってんの? ……自惚れすぎだよ、お前」
 気分悪いから、二度とああいうのうちの店でやんないでね。
 にっこりと笑われた顔と視線を絡ませ合って、ようやく彼女は状況を把握した。
 まさか。こんな近くにこの男がいただなんて。
 震える唇が言葉を紡げぬまま、机に置かれていた紙幣と自分の財布から取り出した一枚の紙幣を重ねて黒革の小さなトレイに押し付けた。
 自分の指が震えているのを目に見ると、足が勝手に動き始め、カラン、という乾いた音を響かせて開いた扉を飛び出し彼女は自宅まで走りだした。
 最悪だ、最悪だ……!
 冷たい空気を切って、彼女はひた走る。頬を滑り落ちる涙が何故溢れてくるのかが分からないまま、数分とかからない自宅へ滑り込み自室へかけこんだ。
 扉を閉めたと同時に崩れ落ちた彼女は、膝をかかえて蹲りながら嗚咽を噛み殺すことしか出来ない。
 浮かんでくるのは疑問と後悔ばかり。
 どうして自分はこんなについてないのだろう。

 最悪だ…!



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