サンジの手には三枚の紙切れが握られていた。


薄っぺらいその紙が耐えきれる限界までデコラティブに装飾を施したのは間違いなくウソップだろう。小さな赤いハートをいくつも重ねて書き上げられた文字を一枚ずつめくっては読み、めくっては読み返しながら、サンジはラウンジの扉をなんとなく開けそびれている。


ーーーサンジくんが出てきた瞬間に始まるの。


昼食を食べ終わっても空っぽの皿と共に一人だけ居残っていた航海士が、差し出された紅茶と引き換えに三枚の紙をトランプのカードみたく掲げて可愛く笑った。

え?なにが?とつられてふにゃんと笑いながら問い返しても、出てくればわかるわともう一度笑うだけでサンジに紙を押しつけて颯爽と出ていってしまったものだから、サンジは立ち尽くしたままとりあえず渡された紙を一枚ずつ眺めてみたのだ。

今日はサンジの誕生日だ。

自分では当然覚えていたし、仲間達が知っているのも知っていたから、三枚ともに『HAPPY BIRTHDAY』と大きく書かれていたのはもちろんとても嬉しかったけれど驚きはしなかった。

問題はその下、『特別招待チケット』。そしてその更に下には『招待者』の名目で仲間の名前がそれぞれ二人ずつ書き添えられていた。

その『招待』という言葉の意味も並んだ二人の名前の共通点も、何度読み返してもやっぱりわからないままで、だからサンジは片づけが完璧に終わってから十分以上経った今もラウンジから出るのを躊躇っているのだ。

扉の向こうで待っているのはきっととてもいいことだろう。サンジにだってそのくらいはわかる。でも一体なにが待っているのかはわからないから、あらかじめ心構えをすることもできない。

いい意味でも悪い意味でも常識を越えたやつらのことだ。何をやらかすかわからない。とんでもなくびっくりさせられるかもしれないし、胸が痛くなるほど感動させられるかもしれないし、もしかしたら、嬉しすぎて、泣かされてしまうかもしれない。

まいったなぁ。レディの前でカッコワリィ真似したくねぇんだけど。紙切れを持ってないほうの手でタバコを取り出しながら、サンジは困ったように笑った。

これを吸い終わったら、覚悟を決めよう。

 

 

 







『船長と航海士』

 

 

「おっそーいサンジくん!」

 

頭の上から降りかかった声に条件反射でごめんなさいと叫びながら振り返ると、みかん畑の囲いに座った航海士がおいでおいでをしているのが見えた。青く晴れた空の下、綺麗に笑う彼女の隣にはめずらしく神妙な顔をした船長が足をぶらぶらさせて並んでいる。

なんであいつあんなに機嫌悪ぃんだ?事態がまるで読めなくてドキドキしながらサンジが二人のいる場所まで登ってみると、いつも通り出し惜しみされてない柔らかそうな太ももをポンポンと叩いて、航海士が言った。

 

「膝まくらしてあげる」

「……はい?」

 

ぽかんと口を開けたサンジに航海士は悪戯っぽく笑う。

 

「だから、膝枕してあげるって言ったの」

「ひざ…え?ぇええええ?!」

 

そりゃあもう驚いた。

だって、愛しい航海士の膝は、船長の特別席なのだ。

それはなにもすることがない午後だったり、夕暮れのきれいな日だったり。どこにいても大騒ぎな船長が、顔に麦わら帽子をのっけたままびっくりするくらい大人しく航海士の膝を枕にしている光景は、サンジも何度か見かけてはそのたびに、いいなぁと思っていたのだ。それはヨコシマな意味じゃなく、そこに流れるとても優しくてくすぐったいような空気への、純粋な憧れから。

初めて見つけたときはそれこそ不届きな船長を蹴り上げてやろうとしたのだけれど、普段はあまり見せてくれない、少女のようにはにかんだ顔をした航海士を見たら、とてもそんなことはできなくなって、以来、見なかったフリを貫いてきていた。大好きな航海士にそんな顔をさせてやれる船長に、なんとなく妬いたりしながら。

そうか、だからこいつこんなにぶーたれてんのか。チラっと隣の船長を覗いてみれば、相変わらず足をぶらつかせながら大人しく俯いている。

確かに嬉しい。とても嬉しいけれど、でもこれは受け取っていいものなんだろうか。サンジがどうすることもできずに突っ立っていると、しびれを切らした航海士がサンジの腕を引っ張って無理やり引き寄せた。

 

「言い出したのはこいつなんだから気にしないでいいの」

 

小さな声でおう、と返事をする船長は、それでもどう贔屓目に見たって後悔たっぷりだ。サンジはますます戸惑ってしまって、それとなく二人から体を離そうとする。

 

「あの、ナミさん、」

「いいからさっさとする!」

「は、はい!」

 

それでも愛しの航海士に歯向かうことなんてできやしないのだ。サンジは一度眼を瞑って深呼吸してから航海士の隣に座ると、できるだけそうっと、日々崇め奉っている伸びやかなその足に頭を乗せた。

 

「ねぇ、ちょっと。いくらなんでも緊張しすぎじゃない?」

 

あたしよりお兄ちゃんのくせに。クスクス笑うナミの顔をまともに見ることができなくて、サンジは視線を彷徨わせる。

そりゃあ、それ相応にもっとイカガワシイことをした経験がサンジにはあるし、年下の女の子にこんなふうに笑われるのは自分でもちょっとみっともないかもしれないとは思う。

でも、どんなに年下だって彼女は特別なのだ。優しくて、強くて、頭が良くて、悲しいことをたくさん乗り越えてそれでもほがらかに笑うことのできる、どんなに褒め讃えたって足りないくらい素敵な女性なのだ。年なんて関係ないくらいに。

そんな彼女を心から笑わせることができて、どころか独りよがりの犠牲精神に閉じこもってた自分を思いきり引っ張り上げてくれた我らが船長も、照れくさくて口には出せないけれど特別な人だ。

その二人の特別を、まさか自分が貰ってしまうなんて。

 

「ほら、ルフィ。そろそろあんたの出番じゃない?」

 

何も言えないサンジに気にした風もなく、航海士は楽しそうに言う。すると船長はすくっと立ち上がって、相変わらず真面目な顔をしてぶっきらぼうに叫んだ。

 

「サンジ!誕生日おめでとう!」

 

そして返事をする間もなく大声で歌い出したのだ。

 

「『世界一のコックのうた』っていうのよ。サンジくんに聞かせたいからってウソップと二人で一生懸命作ってたの」

 

毎日聞いてたもんだからあたしも覚えちゃったわ。呆然としてるサンジに苦笑してみせて、航海士はところどころ音の外れた船長の声に合わせて一緒に歌い出す。と思ったら今度はどこかから狙撃手の歌う声も聞こえてきた。そしたらいつの間にかトナカイの声も混じって四人で大合唱だ。

メロディなんてあってないような調子っぱずれの音と、やたら壮大なスケールの歌詞は、協調性とはまるで無縁の人間離れした仲間達をそのまま表してるようで、ある意味名曲だな、なんて思ってたら、いよいよクライマックスらしい。耳が痛くなるくらいの船長の大声が見事に裏返った。

 

「世界一のコックを連れてぇ〜オ〜ルブルーぅ〜に〜」

 

サンジは笑い転げた。

だって、そうでもしなきゃ、滲んできた涙を誤摩化すことができやしなかったのだ。

 










『狙撃手と考古学者』

 

「おーやっと来たか」

 

歌の終了と同時に船長のゴム手に引っぺがされて投げ飛ばされたサンジが、くるん、と一回転して片足で甲板に着地した目の前には、狙撃手が居た。

 

「…おうよ」

 

ぶっきらぼうを繕う自分が、ちょっと情けなかったりする。

実は、さっきまで宙を飛びながら、どうせならもうちょっと堪能しとけばよかったな、なんて後悔していて、それはあの場を離れたからこそできる強がりついでに、次へのドキドキを少しでも誤摩化すためだったのだ。なのにちっとも役に立たなかった。やっぱり今ドキドキしているからだ。

でもそれをこの年の近い狙撃手にバレるのは癪で、だからって繕う手立てがこれしかないのも悔しくて、とにかく無意味な葛藤を抱えながらまぁとりあえず座れよ、とあらかじめ用意されていたらしい樽に促されるまま腰掛けたら、途端にふわぁ、と真っ白なシーツが目の前に広がった。

そのシーツの裏側に肘から先だけの二本の腕が横切ったとき、サンジの目が反射的にキョロキョロと動く。そしたら、一メートルくらい離れた斜め前でサンジと同じように樽に座って、考古学者が微笑んでいた。

相変わらず気配を消すのが上手だなぁ。サンジは違う意味で悔しくなった。レディにはどこに居たって気づけなきゃいけないのに、彼女はいつもそれを許してくれないのだ。

シーツが、子供の前掛けみたいにサンジの首に括りつけられる。さっきの名曲を鼻歌にしながら狙撃手が背後にまわるのを見て、これから起きることになんとなく予想がつく。

おかげで薄らいでくれたドキドキにホッとしながら、それにしてもそれでなんでこの二人なんだろう、なんて不思議に思っていたら、考古学者がそれを見計らったように口を開いた。

 

「わたしの髪型って毛先がまっすぐ揃っているでしょう?」

「君のミステリアスな美貌にぴったりなスタイルだよ!」

 

両手を大きく広げてみせたら、その拍子に手のひらが狙撃手の顔を引っぱたいたらしい。アホっ、とゲンコツで返されて、アホじゃねぇっ、と後ろを振り向きかけたところで、考古学者のクスクス笑う声に我に返った。

 

「ふふ、ありがとう。でもよかったら話を続けさせてくれるかしら?」

「…ごめん」

 

ぶっ、と背中で吹き出す音が聞こえた。笑うなっ、と怒鳴りながらまた振り向きかけたら今度は、あぶねぇから動くな、とハサミ片手に真面目に怒られてしまって、居たたまれないまますごすごと前を向く。

悔し紛れに、明日からキノコづくしにしてやる、と呟いたら、髪を握る手がびくっと動揺したのがわかったから、それでようやくほんの少し気が晴れた。

 

「あら、どこまで話したか忘れちゃったわ」

 

笑いを含んだ声に、サク、とハサミの噛み合う音が重なる。

 

「髪が揃ってるってとこまで」

「そう。揃ってるとね、ちょっと伸びただけでもとても目立つのよ。だから狙撃手さんにこまめに切ってもらってるの」

「で、おれは駄賃代わりに色々話を聞かせてもらうわけだ。おとぎ話とか伝記とか」

「お金じゃなくてごめんなさいね」

「いんだよ。おれは十分楽しませてもらってるし。それに、下手に持ってたら借金取りに追われるからな」

「あら、海の上なのに?」

「船の上であるかぎりな」

 

シャクン、シャクン、と軽快なハサミの音に合わせて、二人分の声が歌うように響き合う。

サンジは驚いた。だってこれは、間違いなく気心の知れた者同士にしか作れないリズムだ。彼女とこんなふうに喋れるのは航海士だけだと思っていたのに。

他の男連中はともかく、誰よりも話し掛けることの多い自分だって、まだ彼女の言葉の隅に一瞬のためらいなんかを感じてしまうことがあって、だから女の子同士のほうが慣れるのはきっと早いんだろう、でもきっと野郎の中でいちばんはオレだ、なんて自分を納得させながら自信を持っていたのだ。

それがまさか、この男にその座を奪われてしまうだなんて。

 

「へぇ…全然知らなかった」

 

おもしろくない。なんだかものすごくおもしろくない。

 

「だろうな。おめぇがキッチン籠ってるときが多いし」

「そうね、いっつもおやつの時間の前だものね」

 

ぶすくれるサンジにちっとも気づく様子もなく、二人の会話は和気あいあいと続く。オレが主役なのに、なんて思わず呟いてみても、考古学者はもちろん狙撃手にもまったく聞こえてないみたいで、これじゃあまるで邪魔者だ。

終わったら速攻でヤキ入れてやるこの長ッパナヤロウ。心の中で毒づいてみても負け惜しみくらいにしかなりやしなくて、タバコでもなきゃやってられないとシーツの下に手を潜らせポケットを探り始めたところで、ようやく主役の存在を思い出してくれたらしい。サンジの前髪を掴みながら狙撃手が言った。

 

「そういや、今日はなんの話してやるんだ?」

「話?」

 

サンジが、首が動かせないならせめて視線だけでもと向けた先で、考古学者は眼を伏せて微笑んでいた。

 

「そうね…じゃあ、一人の女の話をしましょう」

 

もしかして、悲しい話なんじゃないだろうか。せっかく薄れかけてたドキドキがサンジに再び襲いかかる。

だって、ただでさえその手の話には弱いのに、女性の話だなんて言われたら余計に危ないのだ。せっかくさっきは我慢できたのに、今度こそ泣いてしまう。

そわそわと眼を彷徨わせたり足を上げたり降ろしたり、落ち着かないサンジにだから動くなってと狙撃手からの小言が飛んだところで、考古学者がゆるやかに顔を上げた。

 

「その女は、小さな海賊船に乗って旅をすることになったの。仲間もできたわ。船長と、航海士と、剣士と、医者と、それから…狙撃手に料理人」

 

一瞬ぽかんとしたサンジに、考古学者はめずらしくいたずらっ子みたいに笑ってみせる。そりゃいい、と背後からは口笛を吹く音がした。

 

「ある日、料理人が女に向かってこう言ったの。『好きなものはなんだい?なんでも作ってあげるからさ』。女はとても困ってしまったわ。だって、今まで好きなものなんて聞かれたことなかったもの」

 

ハサミの音が止まった。

その理由をサンジが知っていたのは、自分が狙撃手と同じことを思って同じ言葉を我慢している確信があったからだ。

そんな当たり前なことみたいに言わないで、なんて。言ったって彼女を困らせてしまうだけだ。

考古学者の話は続く。

 

「女は彼を困らせたくなかったから、特に嫌いなものはないわって答えをはぐらかしたの。だけど、彼は『そうじゃなくて、好きなものを教えてよ』ってきかなくて、しょうがないから正直に謝ったわ。『ごめんなさい。聞かれたことがないからわからないわ』って」

 

『聞かれなきゃわからないことじゃないだろう?』

 

咄嗟に言いかけて飲み込んだ言葉を、そういえばあのときも同じように飲み込んだのをサンジは思い出した。

彼女に言わせたくなかったからだ。好きなものを心に想い留める暇もないような、出会えた喜びに浸る暇もないような世界に生きてきたんだと、わざわざ思い出させたくなかったからだ。そんな野暮な真似をするようじゃ、男前コックの名が廃る。

でも、じゃあ、あのときオレはなんて言ったんだっけ。

ついさっき怒られたのも忘れてサンジが思いきり首を考古学者のほうへ向けてみると、記憶を楽しむように瞳を細めて、考古学者は笑った。

 

「そしたら、料理人はとっても誇らしげに笑って言ったの。『じゃあ、今度から好きなものはって聞かれたら、オレが作ったもの全部って答えるといいよ』。女は思わず笑ったわ。ほんと、すごく自信家な料理人よね」

 

背中で、フッ、と小さく息を吐く音が聞こえた。ハサミが動きを取り戻す。自分の髪が目の前をぱらぱらと落ちていくのを眺めながら、サンジが小さな声でカッコイイだろ、オレ、と呟くと、同じくらい小さな声でアホか、それよりおめぇ顔戻せ、やりにくいとサンジの頭を掴んで無理やり前に向け直すものだから、首が変な音を立てて軋んで、サンジは顔を潜めた。

 

「でね、つい言い忘れちゃったのよ」

 

直されたばかりの顔をやっぱり懲りずに向けてきたサンジを真っ直ぐに見つめて、考古学者はほんの少しだけはにかんで笑った。

その顔が『特別』を過ごすときの航海士の笑顔とちっとも変わらなくて、なんだ、オレだってさせてやれるんじゃないか、なんてちょっと誇らしく思っていたら、考古学者は一瞬ためらうように眼を伏せて、それからまたゆっくりと顔を上げた。

 

「ありがとう」

「え?」

「だから動くなっての!」

 

怒って髪を引っ張りあげる狙撃手をまるきり無視してにこにこ笑うサンジに、考古学者はふわ、と軽やかに笑み返す。

 

「わたしに好きなものをくれて、ありがとう」

 

違うよロビンちゃん。違うんだ。

笑ったままサンジは奥歯をぎり、と噛み締めた。

ありがとうなんていらないんだ。オレのはただのその場しのぎで、押し付けで、好きなものなんてほんとは人からもらうものじゃなくて勝手に増えてくもので、たくさんの場所と時間と人に囲まれて勝手に見つかるもので、だからそんな、ありがとうなんて言葉、誰にも言う必要なんてないんだ。

サンジはさっきよりもっとたくさんの言葉を飲み込んで、代わりにもっとにこにこと笑ってみせた。そしたら考古学者も微笑んで、その顔が見たことないくらい無邪気だったものだから、サンジは心がぎゅうっと痛くなって、シーツの端をその痛みに負けないくらい強く握りしめた。

髪を握る狙撃手の手にもぎゅう、と力が籠る。サンジはそれが少し痛かったけれど、その痛みがまるで、思っていることは同じだからと頷き返してくれてるような気がして止めることができなかった。

大丈夫、好きなものなんてこれからいくらでも増える。覚えきれないくらい増えていって、それが当たり前になる日がきっと来る。サンジにはやっぱり確信があった。

だって、好きなものを手に入れるためなら、守るためなら、命だってかけてしまうバカな仲間たちが、きっと彼女を、そんなふうに変えてくれるに違いないのだ。

 

 

 

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