突然の夕立ちがガラス越しの世界を濡らしていた。
灰色がかった青い空から降り注ぐ水滴の束は、乾いたコンクリートにぶつかって土煙を上げる。そこから生まれる生臭い雨の日のにおいを、体中にまとわりつくような湿った夏の風と一緒に細く開けた窓から受け取って、俺はなんとなく顔を潜めた。
あくびをしながら窓を閉め、すぐそばにあっただけで誰の場所かも知らない席に座る。体を机に伏せ、顔だけ横向けてみれば、カッターで彫り込んだ誰かの名前や落書きがぼんやりと読み取れた。読むだけ読んで、飽きて、目を閉じる。
忘れ物を取りに戻った途端この雨だ。傘はもちろんない。迎えに来てもらえるあてもないし、濡れて帰るのもめんどくさい。だから俺は止むまで寝てやり過ごすことにした。
誰もいない教室は怖いくらいに静かだった。窓の外から時たま聞こえる女の甲高い声や、パチャパチャと水を跳ね上げて走る誰かの足音が、まるで今この場に起こってることみたいにうすぼんやりし始めた頭の中をこだまする。
やっぱ、来なきゃよかった。俺は眠りに吸い込まれる寸前に、数日前の自分の決断を少しだけ恨んだ。
高三の夏休みを予備校なんかに費やそうと思ったのは、別に親にせっつかれたわけじゃないし自分の学力に不安を感じたからなんて立派な動機があったわけでもない。ただなんとなく、行ってみようかと思っただけだ。
受験だとか推薦だとか就職だとか将来だとか。そんな言葉を飛び交わせては喜んだりヘコんだりしてる同級生たちを、俺はどこか一歩引いた場所から毎日眺めていた。学歴だけがすべてじゃないだろうなんて反発するほど甘っちょろいつもりはないけれど、奴らの仲間に入る気にもならなかったのは、そうすることがひどく、つまらなそうだと思ったからだ。
毎日がつまらなかった。
将来になにか目的や夢でもあれば少しは違うんだろう。でも生憎そんなものはなにもなかったし、だからって焦りを感じてるわけでもなかった。
ただ、何もしないまま通り過ぎていくつまらない日々に、なんとなくうっ滞した気持ちを引きずっていたのは確かだ。それをどうしたらいいのかわからないくらいには、ガキだってことなんだろう。
今まで考えたこともなかったまるで興味のないこんな場所に来ようと思ったのは、この鬱陶しい気持ちとつまらない毎日を少しはマシにしてくれる何かがもしかしたらあるかもしれない、なんていう、ガキなりの期待からだった。

「いてぇ!」

どのくらい眠ってたんだろう。母親に頭をしばかれる夢を見て俺は飛び起きた。ら、なぜか目の前には懐中電灯。それから、真っ暗闇を丸く切り取って光るそれを手に持って、金髪の男が立っていた。

「やっと起きたかこのクソガキ」

眉間に皺を寄せた男の不機嫌そうに潜められたその目は蒼かった。典型的な外人だなぁと寝ぼけた頭で俺は思う。
電灯を持ってないほうの手には教科書らしきものが見えて、わざわざ縦に構えているところを見ると、目が覚めてもまだ頭が鈍く痛むのはきっとこの外人にそれでほんとに殴られたからに違いない。
まぁそれはいいとして。

「アンタ、誰だ」

外人は一瞬バカみたいに目を丸めて驚いた顔をした。そして漫画のように大げさにハァっと溜め息をついてみせた。
これがウワサに言うオーバーアクションってやつか、なんて俺が感心していると、やたら流暢な日本語で外人は言った。

「テメェ、オリエンテーション出てねぇのかよ」
「出たけど寝てた」
「…何年生だよテメェ」
「高三」

さすがに二回やられると本気でムカツくな。さっきよりさらにレベルアップしたわざとらしさを見せる外人に、無表情を取り繕ったまま心の中でさっさと国に帰っちまえと唾を吐く。
きっと、英語講師かなんかだろう。俺は適当に当たりをつけた。どうせ外人ってだけで高い金積まれてどっかから引っ張ってこられた能無しのくせに威張ってんじゃねぇよ。腹の中でそうやって目一杯こき下ろしてやるために。
けれどそれだけじゃ気が済まないようなことを外人は言ってみせた。

「たまに居んだよな。テメェみてぇにやる気もねぇくせしてまわりに迎合して偉そうに来るやつ」
「…んだと?」

今度は露骨に顔が歪んだ。

「おーおーほんとのこと言われて腹立ったか」

思わず立ち上がった俺の目が、バカにしたように薄笑いを浮かべる蒼い目とほとんど同じ高さでかち合う。俺は何か言い返そうとして、けれど何も言えないことに気がついた。
迎合する以外は、実際、ほんとのことじゃねぇか。
ムカムカする気持ちをなんとか腹にとどめて、俺はほんの少しだけ、頭を下げた。

「…悪かった」

何に対して悪いと言ってるのかは自分でも良く分からなかった。けれど少なくとも、この何者かもわからないヘンな外人に対しては思ってない。強いて言うなら金を出してくれた親に対してだ。
きっとほら見ろって顔してるんだろう。思ってまたムカムカしながら顔を上げたら、外人は、最初よりもっとバカみたいな顔をして俺を凝視していた。逆に焦った。予想外の反応だ。
なんか変なこと言っちまったんだろうか。それとももしかして言葉が通じなかったんだろうか。俺が、悪かったってのは英語でなんて言うんだろうと慌てて考えていたら、ふいに、頭の上に何か大きなものがふわりと乗っかるのを感じた。

「なかなか根性座ってんじゃねぇかクソガキ」

それは外人の手だったらしい。
ワシャワシャと俺の髪をかき混ぜながら、外人はにんまりと笑っている。何がなんだかいまいちよくわからなかったけれど、その骨張った手とほのかに漂うタバコのにおいを、そんなに悪いもんじゃないと思ったことだけは、確かだった。
外人はサンジと名乗った。
なんで日本名なんだろうと思いながら英語講師か?と聞いたら、たちまち不機嫌そうな顔に戻って、オレは数学だとドスの聞いた声とともに蹴られた。笑ったり怒ったり忙しいやつだなと思いながら、訊ね返された名前を言おうとしたら、俺の腹が思いきり鳴り響いたものだから、気恥ずかしくなって眼をそらしてしまって、そしたら外人はやけに真剣な声でこう言ったのだ。

「オレんち来い。メシ食わしてやる」

ほんとに、わけが分からねぇ。





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「うまいか」
「うめぇ」

ヘンなもん、拾っちまったなぁ。
箸を持つ手を一端止めて、律儀にオレのほうを見ながらガキはもう一度うまいと言った。その顔があんまり真剣なものだから、なんだか照れくさくなって目を反らす。そりゃよかった、なんてごまかすように呟きながら、オレは、ワンルームの自分の部屋を久しぶりに狭いと感じていた。
今日は朝からサイテーな気分だった。
別れたはずの元恋人がいきなり押し掛けてくるし、そのせいで遅刻して予備校の社長には怒られるし、罰として当番じゃなかったはずの見回りを担当させられるし、朝急ぎ過ぎたばっかりに駐輪場に入れそこねてたバイクは夕立ちで水浸しになるしで、誰かがオレに呪いでもかけたんじゃねぇかと思うくらいに運が悪かった。
生徒に八つ当りでもすれば少しはマシだったのかもしれないけど、生憎、一部は除いて真面目に勉強しに来るガキどもに平気で自分の都合を押しつけられるほど恥知らずじゃない。ので、ムカつく気分を大人の笑みで隠して、あくまでいつも通りの爽やか講師を演じきった。と思う。少なくともオレとしては。自分じゃわかんねぇとこでボロ出てたかもしんねぇけど。
とにかく、そうやってなんとか午後を乗り切って、生徒が帰って他の講師も帰ってからも見回りの時間まで授業用のプリントをコツコツ作って過ごしたりして、ぐったり疲れた最後の仕上げに、いい加減業者呼びやがれこのクソケチ社長、なんて毒を吐きながら懐中電灯片手にクーラーもストップした蒸し暑い構内を歩き回っていたら、居たわけだ。このデカいガキが。
オレは呆然とした。

(何時間寝てんだこのガキ…!)

そのとき、午前0時。最後の授業が終わったのは午後六時で、自習室が閉まったのは午後九時だ。ということは、最低でも三時間はこの状態で寝続けてたことになる。
そのうえ、蛍光灯もとっくに消えた真っ暗な教室で、緑色のイカれた頭を机に突っ伏して寝こけるこのクソガキは、頭を小突いても耳を引っ張ってもちっとも起きる気配がなかった。ただでさえイライラしてるオレはいっそ殺意さえ覚えて、それこそ殺す気持ちで教科書の角で殴ってやったのだけれど、起きたガキはこれまたオレの機嫌を大いに損ねる態度をとりやがる。
だから頭に来て思いきり意地の悪いことを言ってやった。どうせプライドだけは一人前で、そのくせ一人じゃなんもできねぇよく居る類いのガキだろうと思って。これは八つ当たりじゃねぇ、人生の先輩としての教育的指導だ。たぶん。
そしたらこいつは、謝った。頭を下げて。驚いた。こんなガキは見たことがなかった。
自分を外から冷静に見つめることは、大人だって皆が皆できることじゃないだろう。二十六年生きてきたオレだって時と場合によってはそれに当てはまる。人に素直に頭を下げるなんて尚更だ。特に十七、八なんて、主観と理想とプライドでしかものを考えてないと思ってたのに。

「なかなか根性座ってんじゃねぇかクソガキ」

つまりオレは、このガキをちょっとだけ、気に入ってしまったんだ。
そして、名前を聞こうとしたオレをぐぅぅっと潔いほどでかい腹の音が邪魔した瞬間、積もり積もってたはずの不機嫌はふっ飛んでしまうことになる。
オレは、腹を減らした人間にはどうしようもなく弱かった。

「ごっそさんした」

鬼のような勢いで動いていた手をようやく止めて、ガキは言った。
テーブルに置かれた茶わんは米粒一つ残さず空っぽだ。思わず緩んだ顔を、慌ててタバコに火をつけるふりをしてオレは伏せた。

「そういやお前、名前は?」

気を取り直して顔を上げる。と、なんでかやけにぶすっくれた顔をしたガキと目があった。

「…ゾロ。ロロノア=ゾロだ」
「へぇ、ハーフか?」
「二番目の親父がイタリア人なだけでオレは一番目の親父から生まれた生っ粋の日本人だ」

ああ、あんまし名前でいい思いしてねぇんだろうな。
オレは自分も同じようなものだったせいか、いかにも言い飽きた調子で棒読みするそのゾロというガキの声を聞いて、なんとなくそう思う。

「じゃあオレと逆だな。オレは一番目の親父が北欧人で、二番目の親父が日本人だ。ちなみに今は五番目」
「五番目…すげぇな」

素直に驚くゾロに思わず笑った。こういう、変に気を使わないとこも悪くない。

「だろ?全員の名前言えっつわれてももう覚えてねぇし、名字もまたいつ変わるかわかんねぇから人には教えねぇことにしてんだ」
「じゃあその眉毛は母親似か?」
「調子に乗んじゃねぇ」

クルクルと指を回してみせるゾロの頭を灰皿で横から引っぱたいてやった。イテェっと言ってうずくまるガキをわざとバカにしたように笑えば、頭を摩りながら涙目でオレを睨む。その姿がひどく子供っぽくて、今度は自然に笑みが浮かんだ。
タバコを銜えたまま、流しに持って行こうと空いた皿を重ね始めたオレに、だらしなく足を崩して座りながらゾロは言う。

「にしても、アンタいっつもこんなことしてんのか?」
「こんなこと?」
「生徒家に連れて来てメシ食わせたり」

バカじゃねぇのこいつ。
オレは危うく持っていた皿を三枚まとめて取り落としそうになった。

「あのな、日付け変わるまで教室で居眠りこいたうえに初対面の人間前にしておもっきし腹鳴らすようなやつが他にいると思うか?」

皿を安全な位置にもう一度置き直してから、居てたまるか、という思いを込めて睨みつけた。ゾロはそれに一瞬怯んで、それからバツが悪そうに頭を掻く。

「…だからって、わざわざ家連れてくことねぇだろーがよ。ファミレスとかコンビニとか」

気づいたときには遅かった。

「育ち盛りのガキにあんな脂肪分と塩分ばっか高ぇメシ食わせてたまるか!」

ガチャンと食器が揺れる音と共にもの凄い剣幕で立ち上がったオレを見上げるびっくりした顔で我に返った。そのときにはもう、ゾロは腹を抱えて笑い出していた。
ちくしょう、またやっちまった。
恥ずかしさを紛らわすためにわざと乱暴な素振りで座り直せば、ヒーヒー言いながらゾロがこっちを見る。

「あんた、おもしれぇな」
「…うっせぇクソガキ」
どう聞いたって悔し紛れなのは自覚している。オレの言葉にまた大笑いを始めたゾロにそれでも精一杯睨みつけてやったら、悪ぃ悪ぃ、とちっとも悪くなさそうな声で謝り、それから、言った。

「でも、たしかにあんたの作ったメシのほうが全然うめぇ。」

やばい。
ドクン、と大きく打った心臓に、手のひらをぎゅっと握って耐えた。
憎たらしいくらい絶妙なバランスで出来上がった男だ。
体や行動はひどく大人で、なのに表情や言葉はひどく真っ直ぐで、幼くて。まるで成長の途中にあるすべての要素の、いいところだけ抜き取って出来上がったような。惚れずに、いられないような。
オレはゲイだ。
気の多い母親を見てそうなったのかどうかは知らないし知りたくもない。確かなことは、物心ついたときから男しか好きになれない事実だけだ。
そんなオレの前にこの男が現れたのは、けれど幸運でもなんでもない。ただの拷問だった。
だって、これはまだ、大人びてはいても子供だ。
声をかけなきゃよかったと今さら後悔しながら、揺れそうだった自分の気持ちを押さえ付けるように、オレはわざと単調な声で言った。

「そういやテメェ、親に連絡入れねぇでもいいのか」
「ああ、平気だ。どうせいねぇし」
「仲悪ぃのか」
「逆だ。仕事終わったら毎日デートしてやがるから滅多に家に居つかねぇ」
「さっすがイタリア人」
「十七にもなって親父にいってらっしゃいのキスされる身にもなってみろ。よく今までグレなかったと思うぜ俺は」
「アッハッハ!似っ合わねぇ!」

そうだ。これでいい。声を上げて笑いながら、うまく平静を取り戻した自分に心の中でホッとする。
もしゾロがちゃんとした大人だったら、ゲイであろうとなかろうとオレは迷わず好きになっただろう。怖いものも汚いものも知った上で、自分の進む道を用心深くしたたかに選ぶことができる大人だったら。それなら、安心して好きになれたはずだ。
でも、この男はまだ子供だ。先のことなんて気にもしないで、感情にまかせてどこまでも突っ走ることのできる怖いもの知らずなガキを、無理やりこっち側に引っぱり込む方法なんていくらでもある。あるからこそ、常識から外れた道にわざわざ引っ張り込もうとは思えない。
大人だからだ。
人一人の未来を変えてしまうことを、怖いと思うほどには。





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「おい、送ってやっから支度しろ」

洗い物が終わったんだろう。水の流れる音が止まって、テレビを見ながらうとうとしてた俺にサンジは振り返った。
俺はすぐに返事をしないで、ぐるりと部屋の中を見回してみた。それから、言った。

「泊まってっちゃダメなのか」

お世辞でも広いとは言えないワンルームにあるのは、小振りのテーブルとテレビ、冷蔵庫、ベッド。それ以外大きな家具は特にない。これなら、快適にとはいかないまでも、人一人寝かせてもらうくらいのスペースは十分にあるだろう。布団だってなくても別にかまわない。そう思って、俺は気楽な気持ちで言ったのだけれど、

「っ甘えてんじゃねぇこのタコ」

そんなにまずいことだったんだろうか。思わずそう考えてしまうくらい、サンジはやけに不機嫌そうな顔をしてみせた。テーブルにすたすたと近づいてきて、置いてあったバイクの鍵を乱暴に掴み上げる。

「一分以内に玄関出れねぇなら歩いて返すぞ」
「…なに怒ってんだよ」
「怒ってねぇよ!」

怒ってんじゃねぇか。心の中だけでそう呟いて、俺は放り投げてあったカバンを拾い上げた。さっさと玄関に向かうサンジの後を追う。
ドアが開いた瞬間、むわっとした熱気が体中を覆った。雨はここに来る前からすでに止んでいたけど、湿気だけはいやになるくらい空気の中を漂っている。吐きそうだと思いながら前を歩くサンジを見たら、その背中は場違いに涼しげだった。俺は少し驚いた。
実際には暑いと思ってるんだろう。けれど、この男がそれを感じさせないのはどうしてなんだろうか。
色素が薄いからか、それとも細いからか、と、闇の中でも浮いて見えるほどに白いその首をぼんやりと眺めていたら、ポツンと、赤い小さな痣のようなものが目についた。

「虫刺されか?」
「あ?」

それ、と、振り向いたサンジにその痣を指差してみせる。
途端、変なふうに顔を歪めて、それから吐き捨てるようにサンジは言った。

「ガキが見ていいもんじゃねぇよ」

ああ、キスマークってやつか。俺は生まれて初めて見たそれに素直な感動を覚えた。
俺はまだセックスなんてしたことがない。
それ自体に興味がないわけじゃもちろんなかったし、機会もそこそこ転がっていたと思う。ただ、そういう関係に持ち込むほど興味を持てる女がいなかっただけのことだ。
以前友達にそれを言ったらお前は理想が高過ぎると言われたけれど、まぁそれならそれで別にかまわない。自分で処理する方法も知ってるし、急ぐ必要は特に感じてなかった。
でも、例えば俺やその友達のような差はあるにしろ、セックスなんて誰だってそれなりに気に入った相手としかしないのは確かなはずだ。なのに、なんでこの男は、あんなに嫌そうな顔をしたんだろうか。

「…振られたのか?」

バイクの鍵を差し込むサンジの背中に向かって、俺は考えられる限りの発想を提示してみた。

「振ったんだよ」

エンジンをふかす音が響き始める。俺が何かを聞き返す暇もなく、相変わらず背中を向けたままサンジは、まくしたてるように早口で言葉を続けた。

「どうしようもねぇロクデナシで人の金せびろうとしやがるから、渡せるだけ渡して二度と顔見せんなっつったのに、今日いきなり来てもっかいやり直そうなんて泣きつきやがって、そんで、そのまま流されてヤッた」

慣れた素振りでバイクに跨がる。それからようやく、サンジは俺のほうを振り向いた。
一つしかないメットを俺に投げ渡しながら苦笑いを浮かべて言う。

「自分で自分にムカついてんだ。あんま聞くな」
「悪ぃ」
「謝んなハゲ。オレが惨めだろ?」

まだ、好きなんだろうか。聞くことができずに俺は、促されるままバックシートに跨がった。一度ブォンと大きな音を立てて、バイクが走り始める。
生温い風を頬に受けながら、エンジン音に負けないくらいでかい声で俺は叫んだ。

「また、メシ食わせろ!」

返事はなかったけれど、俺はそれを無理やり肯定に取ることにした。サンジの腹に回した腕に力を込める。そうしなきゃいけないような気がしたのはきっと、謝るなと言いながら浮かべた顔が、どこか淋しそうに見えたからだろう。
人や車の気配のまるでない夜の中を、俺たちの乗ったバイクは風のように走っていく。
暗くまっすぐな道を一気にスピードを上げて駆け抜けたその瞬間、俺は、世界が止まった気がした。

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