扉の向こうに、色と呼べるものは一つだけあった。
白い床に立つ白いパイプベッドの、足以外を隙間なく隠す白い遮光カーテンが、全開にされた窓から流れ込む乾いた風に揺れると、窓際の小さなその色は隠れてしまう。けれど、だからこそ、ほんの少し顔を出すたびに、それは輝きさえ伴ってゾロの目の前を染め上げた。空き缶から顔を出す小さな一輪のひまわりは、白い部屋に咲く黄色い太陽だった。
ゾロは、カーテンの向こうにいるはずの男が太陽みたいに笑うのを思い出した。けれどカーテンを開けた後にも同じように笑ってくれるかどうかは自信がなくて、代わりに見せられるかもしれない顔を見るには覚悟がいった。だからわざとカーテンを勢いよく開けて、そしてほっとした。
ウォークマンで体を揺らしながら、いつも持ち歩いているスケッチブックにいつもと同じようになにかを書き込む男は、ちっとも病人になんて見えなかったからだ。
まるで気づく気配がないのを確認して、ゾロは男の耳に繋がったイヤホンを引き抜いた。
「っおお！ゾロ！」
「元気そうじゃねぇか、ウソップ」
言葉の半分は嘘だった。小麦色の肌が、なんとなくくすんで見えた。細い束になって顔に垂れ落ちるくせの強い黒髪に、ゾロは疲れなんて言葉を簡単にイメージして、やっぱり入院させて良かったと思った。
ウソップの経営する建築事務所に、ゾロが勤めてもう三年になる。
建築士の資格を取ってすぐに前の仕事のつてで紹介されて、あって困らない程度の緊張と期待を持って言われた場所に足を運んで、辿り着いたのは図面とガラクタで埋まりきった古いマンションの一室だった。
場所を間違えたのかもしれないと扉を閉めかけたら、閉めきる前に目の下に隈をつくったウソップに否応なく引っ張り込まれて、数えきれないほどの図面の清書をやらされた。この男の名前と、自分より一つ年下だと知ったのは、全部の仕事が片づいてコンビニで買ってきたカップラーメンを二人で食べたときだった。
ウソップの事務所には、ウソップとゾロだけしかいない。
定期で会計士や税理士や、事務のバイトが来るけれど、建築の仕事に関わっているのは二人だけで、しかもゾロに回される仕事は全体の一割だ。残りの九割をウソップが全部一人でこなしている。こなせるはずがない量の依頼なのに無理やりこなすから、目の下の隈が消える日は一年の半分くらいしかない。
ゾロには経験なんてほとんどない自覚があったから、仕事が少ないのは当然だと思うけれど、同時にどうして経験のある人間を雇わないんだろうと疑問に思って、ウソップに聞いたことがあった。
そしたら、経験が無いって言えることが大事なんだ、とウソップは真剣な顔で言った。言えないヤツは大抵、依頼主の意見も無視して自分のアイディアを押し進めようとする人間だとも言った。ゾロが来るまでそういう人間ばかりを雇ってはクビにしていたんだと、他の事務所の建築士にゾロは後で聞いて知った。
ただでさえそうやって忙しいウソップが、もっと忙しくなったのはここ数か月のことだ。
仕事の量は変わらないのに、それをいつもの倍の早さで終わらせようとしたからだ。無理をするなとゾロが諌めても聞かないから、理由を聞いてみればどうしても時間をかけたい仕事が一つあるんだと言う。とても大切な仕事なのだと。けれどどんな仕事かは教えてくれないまま、やっぱり寝る間も惜しんで仕事をこなして、半年分をいっぺんに終わらせたところで、ウソップは事務所の床に吸い込まれるように倒れた。過労で、胃に穴が開いていたと医者は言った。
「悪ぃな。忙しいとこ呼び出しちまってよ」
中途半端にずり上げていた体を完全に引き起こして、ウソップが笑った。ゾロの予想してた通り、いつもの太陽みたいな笑い方じゃなかった。曇り空を無理やり吹き飛ばそうとしたような笑い方で、ゾロは自分も吹き飛ばすのを手伝ってやれたらと思って、できるだけ底抜けに笑ってみた。
「忙しくねぇよ。お前が一人でさっさと終わらせちまったせいで、やることなくて暇なくらいだ」
「そーいやそうだったな」
ウソップが満足そうに笑う。ゾロは、それを見てさっきよりは少しだけマシだと思った。
「で？話ってなんだ？」
「まぁ、とりあえず座れよ」
ゾロは言われたとおり緑色のちゃちな三脚椅子をベッドの足下から引き寄せて、枕元に置いて座った。ベージュのコットンパンツが尻に張りついたのがわかって、ポロシャツが湿っぽいことにも気づいた。ここに来るまでに自分がどれだけ歩いたのか今さら疑問に思って腕時計を見てみれば、職場を出てからもう一時間近く経っている。徒歩で十五分と言っていたあの事務のバイトの男はいったいどれだけ早歩きなんだろう、とゾロは感心した。
「実はな、今からお前に会わせたいヤツがここに来るはずなんだ」
「…仕事関係か？」
ウソップは、今まで色々な人間にゾロを紹介してくれた。同じ建築士仲間や馴染みの土木業者や、店鋪拡大のときは必ず依頼してくれるパチンコ店の社長や、馴染みの雀荘の主人まで、ほんとうに色々だ。
それだけ信頼や期待を受けていると思うと嬉しいけれど、今に限ってはあまり嬉しくなかった。自分のせいでウソップがこの場所に仕事を引き込んだら、入院させた意味が無くなってしまう。
「仕事っつうか…まぁ仕事だな」
つい眉をひそめてしまったゾロに、ウソップは困ったように笑った。
「けど、おれはこの仕事をやるために建築はじめたようなもんだ。そんくらい、大事な仕事なんだ」
ゾロは、最後のほうで伏せられたウソップの顔が、ひどく優しい目をしていたのを盗み見た。そんなに昔からやりたかった仕事なら、いくらでもやらせてやりたいと思ったけれど、体を治すまではやらせちゃいけないとも思った。夢中になって疲れを忘れて、入院どころじゃ済まなくなるまで忘れてしまう気がしたからだ。そしてきっと、自分もそれを許してしまうとわかっていた。
ウソップにとって大事な仕事なら、依頼した人間にとってもきっと大事な依頼のはずなんだから、少しは待てばいいのにとゾロは少し腹が立った。未完成のままウソップが死んでしまったりしたら、どちらも悲しい思いをするだけじゃないか。
「…退院するまでは手ェつけさせないからな」
「知ってるさ。退院まで手出さねぇよ。おれはな」
「他のとこに頼むのか？」
言ってることとやることがまるでバラバラだとゾロは思った。
そんなに大事な仕事を他人にまかせるなんて、普段のウソップなら考えられないことだ。やっぱり疲れてるんだろうか。疲れて気持ちが弱ってるんだろうか。
「アホか。お前以外に誰がいるっつうんだ」
「…は？」
目が点になるっていうのはこういうことを言うんだろうかとゾロは思った。そのくらい驚いた。
何かを言おうとして、けれどまず何から言えばいいのか決めかねていたゾロに、ウソップは少し照れくさそうに笑ってみせる。
「ほんとは誰にもやらせたくねぇんだけどよ。お前ならいいかと思ったんだ。お前なら…あいつも懐く気ィするしな」
「『あいつ』？」
「今から来るやつのことだ。オレの幼馴染みなんだけどよ、これがまた人見知りっつうかなんつうか、」
「ウソップ！」
扉の音に重なったゾロの聞いたことのない声は、とても必死な叫び声だった。反射的に目を向けたゾロは咄嗟に、ひまわりがもう一個だ、と思った。
そこに居たのは一人の男だった。それこそひまわりの茎みたくひょろっと細長い足を、ぴったりしたジーパンで包んでいて、水色のＴシャツの首まわりは汗が染みてそこだけ色が濃くなっていた。ひまわりよりももっと明るい金色の髪の毛はなんとなくぼさぼさで、呼吸も荒かったから、走ってきたんだろうなとゾロは思った。目には青空を抱えていたけれど、一つは長い前髪で隠れてしまっていた。 残りの一つは、青空なのに今にも雨が降り出しそうだった。
男はゾロと目が合ったにもかかわらず、ゾロのことなんて見えていなかった。間違いなくウソップにだけ向かってベッドに駆け寄ってきて、ゾロの隣からウソップを覗き込んだ。ゾロは自分が銅像かなにかにでもなった気分になった。
「お前が倒れたって聞いて…っオレ、すげぇビビってっ」
「単なる過労だとよ。余計な心配かけちまったな」
ウソップの顔が、とても優しくなったのがゾロはわかった。誰にでも優しい男だけれど、なんだかこれは特別だと思った。まわりに居る他の人間までが、この男に特別優しくしなきゃならない気になってしまいそうな、そんな顔だ。
「そっか…よかった」
男がようやく安心したように笑う。ゾロは、なんとなく、危なっかしい男だなと思った。
他人の生き死にで、自分の生き死にまで決めてしまいそうな笑い方だ。
「ゾロ、こいつがさっき言ってたやつ。サンジっつうんだ」
ゾロを振り返った男は、けれどすぐ視線を困ったようにウソップに戻す。それを見てゾロも少し戸惑った。もしかしてこの男も、ここに呼ばれた理由をまだ知らないんじゃないだろうか。
「サンジ。こいつ、オレの事務所の唯一の正社員。前に言ってたろ？」
「ああ」
思い出したような返事をウソップにしてから、サンジは、ゾロをもう一度振り返って小さく頭を下げた。ゾロも立ち上がろうとしたけれど、ウソップに腕を引っ張られて座りなおさせられた。
ウソップに促されて、サンジも扉の横にあった予備の椅子を持ってくるとゾロの隣に座る。座高があまり変わらないのを見て、自分と同じくらいの身長なんだろうとゾロは思った。でも年は、よくわからなかった。若いと言われたらひどく若い気がするし、年上だと言われてもそれはそれで納得してしまいそうだった。
「ゾロ、サンジはな、コックなんだ」
「へぇ」
サンジはほんの少しだけ笑ってみせた。ああ、確かに仕事をしてる人間だ、とゾロは思った。さっきウソップに見せたのよりはずっと薄っぺらな、誰だってできる社交辞令の笑い方だ。
「で、だ。ゾロ、お前に、こいつの店を作ってもらいたい」
次の瞬間、青空がこれ以上無いくらいいっぱいに広がった。
ひまわりじゃないな。ゾロは思った。ひまわりみたいな底抜けに明るい太陽じゃなく、これは、どちらかというと春だ。夏よりずっと柔らかくて、ひんやりしていて、でも冷たくはない光を持った、春の太陽だ。
ゾロは、もう一つの青空が隠れていて良かったとも思った。
こんなに悲しい色が二つもあったらきっと、息が止まってしまうだろう。
ゾロとサンジは無言のまま並んで歩いていた。話すことが思いつかなかったからだ。
人工的に整備された並木道はギラギラ照りつける太陽から影を作ってくれて、おかげで皮膚の焼かれるような暑さは感じない。それでも汗は止まらなかった。
他にすることがなくて、ゾロは時計を見る。午後ニ時。そういえば、昼メシを食ってないな、と思った途端、妙に腹が減ってきた。 こいつはどうなんだろうと思ってサンジを見たらサンジもゾロを見ていて、ゾロは少し驚いたけれど、二人して話すタイミングを探ってたのかと思うとなんだか滑稽で、思わず笑いがこぼれた。
『なら、待つよオレ！お前が退院するまで待つから！』
ゾロが仕事を任されると聞いていちばん最初に言ったサンジの言葉は、サンジがまたゾロの存在なんか忘れてるのだとゾロに教えてくれた。ゾロはそれを当然だと思った。
サンジとウソップがお互いを信頼しているのは見てて分かった。幼馴染みという枠だけでは括りきれないと思えるほど。きっと仕事ぶりだって知っているに違いない。男が自分の力で構える店なら大事じゃないわけがないとゾロだって思うし、だからウソップに依頼したんだんだろう。なのにいきなり、今まで会ったこともないゾロみたいな人間と交代するなんて言われたって、聞けるものじゃないのだ。
ゾロだって引き受けたくなかった。こんな大きな期待に応えられるほどの自信なんてまだ全然持っていなかった。
けれどウソップは、サンジの言葉をそんなゾロの気持ちごと厳しい声で拒んだ。
『駄目だ。おれは待てねぇ』
『っでもおれは、』
『いいからちょっと話聞け。今までおれがお前とした約束破ったことあったか？』
そしてウソップが取り出した、あのいつものスケッチブックの中身を見て、ゾロは初めてウソップの言った『大事』の重さが分かったのだ。
そこには、暇つぶしのいたずら描きなんてレベルじゃないスケッチがいっぱいに描かれてあった。
ひと目で職業用とわかる大きなキッチンスペースや、ウッドテラスや、小さな庭の風景。本来のウソップの分野じゃない椅子やテーブルまでが、細かい寸法や適切な材料や、おおよその予算の書き込みつきで丁寧に色づけされていた。忙しい仕事の合間にそのスケッチブックと向き合うウソップを今まで何度も見てきたゾロは、それがすべて、サンジというこの男のためだったとこのときはじめて知った。
『お前の店のことは、窓枠から玄関のドアから便所の床まで全部ここに描いてある。店の設計図だってもう何年も前にできあがってんだ。あとはお前が自分の店を持つ日が来るのを待つだけだった。まぁ…じいさんの命と引き換えだとは思わなかったけどよ』
そう言って苦笑いしたウソップから目を反らすサンジを見たとき、ゾロは、その青い目が涙を流す場面を簡単に想像することができた。
『でもな、だからこそ待てねぇんだ。もう何年も前からお前と言ってた夢を、早く現実にしたくてしょうがねぇ。じいさんだってあの世できっとイライラしてるさ。チビナスの店はまだできねぇのかってよ』
このときゾロは、サンジがペラペラとめくるスケッチブックを盗み見ながら、内心ほっとしていた。こんなに細かい所まで設計が済んでいるならあとは、任せた業者がちゃんと仕事をするかウソップの代わりに確認すればいいくらいだと思ったからだ。
スケッチブックを一枚一枚眺めては、嬉しそうに目を細めるサンジに、ゾロは、こいつもきっと俺の引き受けた仕事がたいしたものじゃないとわかって安心したんだろう、と思った。それが少し悔しい気がするのは、俺がまだ依頼を受けた相手にこんな顔をさせてやれる自信がないせいだ、とも思った。
ところがウソップは、柔らかかった表情を途端に引き締めて言った。
『ただ、問題が一つある。どう頑張っても予算が全然足りねぇ』
『金なら借りれば、』
『それだけは絶対ダメだ。お前にローンなんか組ませたらそれこそじいさんに呪い殺されちまう。銀行なんざ信用ならねぇって耳にタコできるくらい言ってたじゃねぇか』
『っでも、』
『まぁ聞けって。最初は、おれが援助することも考えたんだけどよ、それでもやっぱし足りねぇ。そこで、だ』
ウソップが、枕元から今度は一枚のポスターを取り出してみせた。
それは、どこか南国の砂浜の風景だった。真っ白な壁と、青い屋根の、一階建ての小さなログハウスが夕日に染まって建っていて、海に向いたテラスでは、白人の老夫婦が、穏やかな笑顔を浮かべて抱き合っていた。見ているだけで海の音が聞こえてきそうなそれを食い入るように見つめるサンジに、ゾロは、なんとなくその景色がサンジと似合っているような気がした。
『このログハウスはな、組み立て式なんだ。土台からなにから部品ができあがってて、あとは輸入して組み立てるだけでいい。他にもいろいろタイプはあんだけどよ、これがおれの作った設計図にいちばん近かったし、お前の理想にもいちばん近いと思った』
ウソップは、芝居がかった仕種でポスターを指の先でトン、と叩いて言った。
『これなら一月もありゃ出来上がるうえにメチャクチャ安い。予算内どころか余りが出せる。その代わり外装も内装も全部手作りだから、余った分は全部そっちに回したい。余計な人件費はかけたくない』
つまりウソップは、ゾロに手足になってほしいと頼みたかったのだ。
ウソップの作ったデザインを現実のものにするために動いてほしいと、そう言っているのだと分かったとき、ゾロは思わずサンジを見た。これから一緒に仕事をする人間として、受け入れてもらえるのかどうかが気になった。
『もちろん退院したらおれも参加するけど、それまではこいつがお前にできねぇこと全部やってくれる。こんなヤクザみたいな人相してるわりには器用だし、そのうえ元ドカチンだ』
ウソップが、ゾロを指差してそう言ったとき、ゾロははじめてサンジに真正面からじっと見られた。まっすぐな青い目がゾロという 人間を読み取ろうとしているのがわかって、ゾロはひどく落ち着かなくなった。
『あぶねぇと思う仕事も全部こいつに回せよ。お前の手に怪我なんかさせたら元も子もねぇからな』
『わかってるって』
そう言ってサンジが笑うのを見て、ああ、そういえばこいつはコックだったな、とゾロはそこで今さらのように思い出しながら、こんなに不敵に笑える男だったのかと思って驚いた。
その顔が再びゾロを向いたときにはもう、薄っぺらいものに変わっていたのだけれど。
「なぁ」
サンジの片手には今、ウソップのスケッチブックが大事そうに抱えられている。
ゾロの声に振り向いた拍子に、サンジの首筋を汗が伝うのが見えて、ゾロは、サンジの肌がやたらと白いことにはじめて気づいた。これだけ色素が薄いなら、きっと夏の日ざしはきついだろう。
「どっか店入ろうぜ。腹減っちまった」
途端に、サンジがゾロを凝視したまま立ち止まった。ゾロも思わずつられて立ち止まりながら、サンジの眉毛が巻いているのに気づいて危うく吹き出しそうになる。
「昼メシ、食ってないのか？」
「あ、ああ」
青い目が鋭く細められるのを見て、ゾロは内心ひどく焦った。確かに、眉毛を笑いそうにはなったけど笑ってはいないのだ。なのに、いったいなにがこいつの勘に触ったんだろう。まだ話題を探すのにも苦労する相手の地雷を踏むなんてある意味すごい確率だな、と自分でもよくわからない感心をしてみる。
「…オレのうちに来い。メシ作ってやるから」
「…あ？」
「下手な店入るよりオレが作ったほうが絶対うまい」
太陽の光をキラキラと髪に反射させながら、そう言ったサンジの顔は少しも薄っぺらくない、あの不敵な笑顔だった。
ゾロは、今度こそ絶対に、こいつがコックだと忘れないようにしようと思った。
招かれたのはどこにでもあるマンションのありきたりの１ＤＫだった。キッチンと連続している八畳程度のリビングには、二人がけのソファ、テレビ、小さな本棚。ソファの前に敷かれた白いラグマットの上には長方形の低いテーブルがあって、ゾロは、ソファに座ったら飯を食べにくいだろうなと思った。だからマットの上に直に座り込んだら、キッチンに立っていたサンジがゾロを振り返って笑った。
「最初っからそこ座るやつなんて初めて見た」
「そうか？」
「なんか食う気満々って感じ。よっぽど腹減ってんだな」
言われて改めて自覚して、ゾロは少し気恥ずかしかったけれど、おかげでずいぶんサンジが打ち解けてくれたように見えたから、かえっていい判断だったんだと思うことにする。
「テレビつけてもいいぜ？」
「いや、あんま見ないからいい」
それよりは、こいつの料理をするところを見てみたいとゾロは思った。さっき、サンジがコックだとつい忘れてしまったのは、料理のことと関わっている光景を見たことがないせいだと思ったからだ。 それに、男が料理する姿というのをゾロはこんなに間近で見たことがなかった。単純に興味があった。
「なんか食いたいもんとかあるか？」
「あーなんでもいい」
足下の棚から包丁を出すサンジをぼんやりと見ていたゾロは、その動きがピタっと止まったことを不信に思った。
片手に包丁を抱えたまま、サンジが飽きれたような顔でゾロを振り返る。
「あのな、もっと真剣に考えろ。サイコーに腹減ってるときにいちばん食いたいもん食わしてやるって言ってんだぜ？オレは。せめて濃いのがいいとかあっさりしたのがいいとか、そのくらい言え」
「…じゃあ、濃くて腹に溜まるやつ」
「了解」
満足そうににやっと笑って、サンジが背を向けた。その背中を呆然と見つめながら、ゾロは、なんなんだろうこいつは、と思う。さっきの危なっかしさが嘘のようだ。むしろ偉そうだ。なのに、悪い気はしなかった。どころか、なんだか可笑しくなって、ゾロは声を出さずに笑った。さすがウソップの幼馴染みだ、とゾロは思う。一筋縄じゃいかない。
サンジが、軽い足取りで脇にある冷蔵庫に向かう。ゾロにはよくわからないものを色々取り出してまたもとの位置に戻ると、ゾロにはただの葉っぱにしか見えないものを洗って、それから包丁を手に取った。わざとリズムでも取っているようにタンタンタンっと早いテンポを響かせるのを、ゾロは自分でも気がつかないうちに真剣になって眺めていた。
「なんか、楽しそうだな」
「そりゃ楽しいさ。好きなことだからな。お前も仕事してるときは楽しいだろ？」
「ああ、まぁな」
でも、こいつほど楽しそうにするやつはいないんじゃないだろうか。ゾロは、邪魔をするのがなんだか悪い気がして、あえてなにも話かけないことにする。サンジも特になにか言い出したりはしなかったから、それでいいんだろうと思った。そしてその楽しそうな背中が動くのを見ているうちに、だんだん眠くなってきた。
ジャアっ、となにかを炒める音や、まな板を叩く音が、子守唄のように耳を撫でる。流れてくるいい匂いまでが空腹じゃなく眠気を誘うのはどういうことだろう。
さすがに初めて会った人間の家で寝るのはやばいだろうと、ゾロが垂れ落ちそうになるまぶたと必死で闘っていたら、サンジが両手に皿を持って振り返った。
「お前、なに寝てんだよ」
「や、寝てねぇ。食う。腹減った」
ゾロが頭をニ、三度振り回していたら、目の前に湯気の立った皿が置かれた。けれどその中身を見る間もなく背中を蹴り飛ばされた。
ゾロが驚いて顔をあげたときには、サンジはソファに座り込みながらゾロを睨みつけていた。
「全部食う前に寝やがったら承知しねぇからな」
「っ蹴るこたねぇだろうが！」
「寝てるほうが悪い。いいからさっさと食え」
平然とした顔で煙草を取り出すサンジに、ゾロはなにか言ってやりたいのをぐっと堪えた。確かに、せっかく飯を作ってくれてた人間を前に寝た俺が悪いと、自分に言い聞かせながら箸を取り上げる。
「おい、いただきますくらい言えよ。常識だろそんくらい」
「っいただきます」
ゾロはものすごく腹が立った。なんでこいつはこんなに偉そうなんだと思った。だからって、こんなことくらいで切れてたらこの先やっていけない、となんとか怒りを抑え込んで、中身がなにかを確認する余裕もないまま目の前の皿に箸をつけて、
「…うまい」
気がついたらそう呟いていた。
驚いた顔をそのままサンジに向ければ、サンジは悪ガキのような顔で笑ってみせた。
「当然だ。ほら、冷めないうちに食えよ」
サンジが言い終わるのも聞かずに、ゾロは物凄い勢いで口にかき込みはじめた。
熱い白飯の上に、大きなハンバーグと目玉焼きが乗っていて、別々に食べるより全部一色汰にして食べたほうがうまいとサンジの声をどこかから拾ったから、ゾロはなにも考えずに言われた通りにした。サンジの言うことが絶対に正しいと確信していたからで、実際うまかった。もう一つの皿には山盛りの葉っぱの上に正方形の分厚いベーコンがたくさん転がっていて、食べてみたらベーコンだけ熱々で、カリカリのにんにくがまぶしてあるのがわかった。当然のようにうまかった。寝ないでよかった、とゾロは心底思った。
「ごちそうさまでした」
自分でも気がつかないうちに食べ終わったゾロは、今度は言われる前にそう言って箸を置いた。言ったほうが、気分がいいような気がしたからで、満足げに笑うサンジを見たとき、ゾロはそれが正しかったのだと知った。ひどく気分がよかった。
「すげぇ食いっぷりだったな。お前ふだん何食ってんだいったい」
煙草の煙を吐き出しながらサンジがゾロを見て笑う。
「あー、昼は事務所でコンビニ弁当食って、夜は外で食うか家で食うかだな」
「朝は？」
「食ってない」
「食えよ。体持たねぇだろうが。ただでさえ三十過ぎたら一気にクるってのに」
「…俺はまだ二十九だ」
「っマジかよ？！」
サンジが身を乗り出してゾロを凝視した。ゾロはまるで見せ物になったような気分になって思わずムッとしたけれど、サンジはそれに少しも気にする様子を見せずに、ソファの背に勢いよく体を投げ出す。
「そういうお前はいくつなんだよ」
「…お前とタメ」
「っはぁ？！」
「おい、まさかお前より老けて見えたとか言うんじゃねぇだろうな」
「いや…もっと若いかと思った」
「…ならいいけどよ」
それから、今後の簡単な予定となんだかんだくだらない話をしているうちに日が暮れて、ゾロはサンジの部屋を出た。マンションの外まで見送ってくれたサンジは、少し照れくさそうに「これからよろしく」とゾロに言って笑った。
電車に揺られながらゾロは、ずいぶん賑やかなやつだ、とサンジのことを考えた。最初の印象とはまるで違う、少し口は悪いけれど人懐っこい男だと思った。ついでに思い出し笑いをこぼしたり、また飯を作ってもらおうと考えているうちに、あっという間にマンションに着いて、ゾロは、オートロックを開けエレベーターに乗り込んだ。
部屋の前に立ってチャイムを鳴らすと、ぱたぱたとスリッパの音がした。ドアが開く。
「お帰りなさい。遅かったわね」
「ああ、ちょっと次の仕事先の相手と打ち合わせしてた」
中に入り、後ろ手でドアを閉めた。ゾロが靴を脱いでフローリングに上がったときには、彼女はドア一枚隔てた居間へ姿を消していた。
居間に入ると、ダイニングテーブルで何かを熱心に読む彼女の姿があった。テレビはつけたままだった。大騒ぎする声が耳に障って、ゾロはテーブルの上にあったリモコンを手に取った。うるさかった音は消えた。
「やだ、ちょっと、勝手に消さないでよ」
「本読んでんなら見ないだろ」
「あと十分くらいで見たいのが始まるの」
彼女はゾロからリモコンを取り上げると、テレビのスイッチを入れなおした。ゾロは一つだけ溜め息をついて、冷蔵庫に向かう。中から缶ビールを一本取り出しかけて、少しだけ腹が減っていることに気づいた。
彼女を振り返る。
「なぁ、なんか食うもんあるか？」
「お漬け物とごはんの残りなら冷蔵庫に入ってるわよ」
本から顔を上げないまま彼女が言った。ゾロは少しの間その姿を見てから、ビールだけ取り出して冷蔵庫を閉めた。プルタブを開けて一気に飲み干しながら、今度、あいつを飲みに誘ってみようと思った。途端に、部屋にいたときの馬鹿話と、サンジの怒ったり笑ったり忙しい顔を思い出して、顔が緩んだ。缶を持ったまま、寝室へ向かう。
「お風呂は？」
「朝入るからいい」
言いながら、寝室のドアを閉めた。明かりをつけないまま、缶をベッドサイドのテーブルに置いて、ベッドに寝転がった。
暗い天井を眺めながら、ゾロは、部屋の中をひどく、静かだと思った。
サンジの店が建つ予定の敷地は、大通りから道ニ本ほど奥の住宅街にあった。駅に近いわりには静かで緑が多くて、高所得者や著名人が隠れ家を持つので有名な場所だった。当然地価もものすごく高い。
場所の名前を聞いた時点ですでに驚いていたゾロは、実際にそこを見たとき想像以上に広さがあることにもっと驚いて、こんな場所を買うから肝心の店にまわす金が無くなるんだと思わずサンジを怒鳴りつけた。
そしたらサンジが、死んだジジィの知り合いがオレのためだって言って安く譲ってくれたんだ、と子供のように拗ねてみせたから、ゾロは、『ジジィ』がどんな人間でサンジとどういう関係なのかは知らなかったけれど、きっとサンジを大事に育てたんだろうと思った。
店本体が出来上がるまでの一か月は、必要な資材を集めるための期間になった。
そのためにゾロは、サンジと二人で毎日事務所に籠って、木材やタイルなんかのサンプルをひろげてはウソップのスケッチブックと照らし合わせながら、いちばんいいと思うものをサンジに選ばせた。 サンジの気に入るものが見つからないときは業者に他のものがないか問い合わせて、さらにそれでも無いときはウソップに相談しに行った。そうすればウソップが携帯で直接知り合いの業者に連絡して、特別に作るよう交渉してくれた。もちろん多少値が張ることにはなったけれど、店本体がとにかく安かったからそのくらいはカバーできた。
ウソップはゾロとサンジが顔を出すたびに、体をうずうずと動かしながらどんな様子か教えろとせがんでは、おれも早く参加したいとぼやいていた。ゾロはウソップに会うたびに、その顔色が良くなっていくのを見てほっとすると同時に、サンジのゾロに対する態度が少しずつ、ウソップに対するものと近づいていることにも気づいて、もしかしたらいつか、この二人の仲に俺も入れるのかもしれないと思った。それがなにかとても、素晴らしいことにゾロは思えた。
はじめの一週間くらいは朝から夕方までをそうやって過ごして、ゾロは毎日サンジの作ってくれる昼飯を食べた。けれどニ週間目には朝から夜になって、ゾロは夜飯も食べることになった。
三週間目になるとゾロは、特別やることがなくても事務所に泊まり込むようになった。朝はサンジに起こされて、サンジの作った飯を食べた。
「ゾロ！おい、見てみろこれ！すげーって！」
近所のホームセンターは平日の昼間だけに客がほとんどいなかった。だだっ広いフロアによく通るサンジの声に、ゾロは溜め息をつく。
注文するほどでもない細々としたものを買うつもりだった。別にサンジを連れてくる必要はなかったのだけれど、そういうとこには 一度も行ったことがないと言ってついてきたがるサンジに、断る理由も特にない。だからなにも考えずに連れてきたのだけれど。
「…今度はなんだよ」
「これ、電球に見えるだろ？でもな、いいか？」
サンジは脇にいつものスケッチブックを抱えて棚の前にしゃがみ込んだまま、小ぶりの豆電球をゾロに掲げると、そのガラス部分をネジの部分からパカっと取り外した。
「な？中がライターになってんだよ。すごくね？」
「あーあーすごいなほんとすごいよ」
「なんだよ、つっまんねーヤツ」
睨み上げてくるサンジを見て、ゾロは、『ジジィ』という人はちょっとこいつを大事にし過ぎたんじゃないだろうか、と思った。さっきからずっとこんな調子なのだ。変なものを見つけては飛びついて、自慢げにゾロに見せてくる。三十路目前のくせに、ゆるいにもほどがあるだろうとゾロは思う。
「ウソップなら絶対喜んでくれるのになー」
「…あいつと一緒にすんな」
ゾロは、事務所に転がっているガラクタのことを思い出した。もしかしてあのガラクタ集めにサンジも加わってるのかもしれない気がしたからだ。ゾロは、こいつがこんなふうになったのはウソップの責任もあるのかもしれないなと思った。ウソップがサンジに特別優しいのを、ゾロははじめてサンジに会った日からもう知っているのだ。
「ほら、買うもん買って帰るぞ」
「えー？せっかくおもしろいのに」
「…また連れてきてやるから」
途端、サンジがひどく無邪気な顔で笑ってみせた。それからすっと苦労なく立ち上がるのを眺めながら、ゾロは聞こえないように溜め息をついた。
きっと、『ジジィ』という人もウソップも、こいつのこの顔に弱いんだろう。
ゾロは懲りずにふらふらと関係のないコーナーに行こうとするサンジをたまに引っ張りながら、フロアを見てまわりはじめた。ネジや金具からドライバーやスパナやらの工具まで、次々と買い物かごに詰めていく。
そして、ノコギリは確か事務所にあったはずだ、なんて考えているときだった。しばらく大人しかったサンジにまた大きな声で「ゾロ！」と呼ばれて、反射的に立ち止まってしまった自分をゾロは後悔した。
そこは、布製品のコーナーだった。メートル単位で測り売りされているたくさんの布に囲まれた中央に、特売用の切れ端がワゴンにごちゃ混ぜに積んである。サンジはいつの間にかその前に立ってゾロを呼んでいた。もういっそ置いていこうかと考えたゾロは、けれど、サンジの顔が今までとは違ってやけに真剣なのを見て、これで最後だと思いながら近づいていく。
するとサンジは、直径半メートル程度の切れ端をゾロの前にひろげて見せた。くすんだクリームイエローに、小さなバラがところどころ散らばっていた。
「なぁ、これさ、ちっちゃいカーテンにできないかな」
「そんなことしてどうするんだ？」
「店の入り口のドアに窓つけて、そこにかけたいなって思ったんだ。ほら、アメリカ映画でよく見るだろ？田舎の一軒屋のさ、勝手口のドアにちっちゃい網戸貼った窓があって、上から花柄とかのかわいいカーテンつけてあるってゆう」
サンジは布をいったんワゴンに戻すと、スケッチブックをパラパラとめくってドアの絵を開く。それからもう一度布を手に取って、絵の上に乗せた。
「ほら、ウソップの作ってくれたドアの色にも合ってるしさ。…どうかな？」
不安そうに眉をへにゃんと下げるサンジに、ゾロは思わず笑いをこぼした。
「いいんじゃないか？」
「な！いいよな！よし！」
布とスケッチブックを抱えて楽しそうにサンジが歩き出した。その背中を追いながら、ゾロは、少しだけ自分の気持ちがモヤモヤとするのを感じた。サンジがウソップの絵を『描いた』と言わないで『作った』と言ったからだ。
きっとサンジの頭の中では、もう店ができあがってるんだろう。ウソップの手で。ゾロが関わろうと関わるまいと、まるで関係なく。
「でもさ、窓はゾロが作ってくれるからいいとして、カーテンどうしよう。オレ裁縫なんてできねぇしなー」
早足で追いついたゾロに、サンジが布を丁寧にたたみながら言う。
「どっかに頼めばいいだろ」
「んーでもさ、こんなちっちゃいもんに金かけるのも馬鹿らしくねぇ？」
「じゃあ、女房に頼んでみるよ」
突然、サンジは立ち止まった。そして同じように立ち止まったゾロを、青い目をこれ以上無いくらいにひろげて見つめた。
「お前、結婚してたのか…？」
「ああ、そういや言ってなかったか」
「マジかよ…」
一瞬ゾロは、サンジが泣くんだろうかと思った。そのくらい、深刻そうに歪んでいたサンジの顔が、ところが今度は見る間に怒りに変わっていって、なにがなんだかわからなかいままその様子を眺めていたゾロは、かごを持っていた手を思いきり掴まれて引っ張られた。
「謝りに行くぞ」
「…は？」
「お前、ほとんど家帰ってねぇだろうが。それ全部オレのせいだって今から謝りに行く」
「おい、なに言っ、」
「いいからさっさと歩け！」
ゾロの手を掴んだまますごい剣幕で歩き出したサンジは、ゾロがなにを言っても聞かなかった。会計を済ませて店を出ると、そのまま駅まで行ってロッカーに荷物をつめて、電車に乗って本当にゾロの家までやってきた。
部屋の前についてゾロより先にチャイムを鳴らす。いつものようにドアが開いた。
「おかえ、あら？お客さん？」
「すいませんでした！」
いきなり頭を下げてそう言ったサンジに、彼女が驚いて立ちすくんだ。ゾロも一緒になって目を見開いた。
「こいつがちっとも家帰らなかったのは全部オレのせいです。奥さんがいるなんて知らなくて好き勝手連れ回しちまって…ほんとすいません！」
これは、端から見たらどういう状況に見えるんだろう、ゾロは他人事のように思った。そのくらいどうしていいかわからなかった。
サンジは相変わらず頭を下げたままだ。きっと俺がなにを言ったって駄目なんだろう、と今までの経緯を思い起こせるくらい我に返ったところで、ゾロが彼女を見ると、彼女もはっとしたようにゾロを見て、それからようやく口を開いた。
「あの、とりあえず顔を上げてくれませんか？」
ゾロの思ったとおり、サンジは素直に顔を上げた。ひどく真剣なその顔を見た彼女は、少し余裕を取り戻したのか作り笑顔を浮かべてみせた。
「あたしは全然気にしてないからいいんですよ。どうせこの人、家に居たってちっとも喋らないんですから、居なくてもそんなに変わらないんです」
途端、サンジがゾロをすごい勢いで睨みつけた。ゾロはまた驚いた。
「お前、奥さんをなんだと思ってやがる」
「は？」
「こんな美人な奥さんと一緒に居て会話も楽しめねぇなんて男じゃねぇぞこのインポ野郎！」
「っな、」
「お前みたいなヤツに限ってなぁ、外出たら『俺のかみさんは俺のことちっともわかってくれねぇ』なんてほざきやがるんだよ。はっ、えらっそーに！わかってほしきゃ少しは努力しろっつうんだ！」
「おい、待、」
「それともなにか？お前は『家に帰った途端日本語を忘れてしまう病』か？脳みそに虫でも飼ってんのか？かわいそうになぁカビくせぇのは外だけじゃなかったんだなぁ一回バルサン焚いて殺虫してもらえよこのクソカビ頭！」
「っ…んだとこら！」
そのとき突然、彼女がはじけるように笑い出した。思わずサンジにつかみ掛かろうとしていたゾロは、サンジのシャツの襟を掴んだまま彼女を見た。サンジも彼女を呆然と見ていた。
彼女は、涙を浮かべながらサンジを見て言った。
「ねぇ、とりあえず中に入りません？お茶とケーキくらいならお出しできますから」
「…いや、あの、」
感情のままに怒鳴り散らしたことに、改めてバツが悪くなったんだろう、少し恥ずかしそうなサンジの腕を引いて、彼女は今度はゾロを見た。
「明日、バルサン買っておくわね」
「…っ」
自分で言ってまた笑い出した彼女に続いて、サンジまで吹き出す。ゾロはもうなにも言う気になれずに、なんとなく嫌な予感を抱えたままサンジの背中を押して部屋の中に押し込んだ。
そして、その予感は確実に当たった。
コーヒーとケーキを囲みながら、彼女とサンジはゾロをネタに大いに盛り上がった。ゾロが寝室に逃げ込もうとしても『負け犬』と言ってバカにされるから、悔しくてそれもできない。だからってなにも言わずにムスッとしていると『カビ頭』と言って笑われて、ゾロはものすごく居心地が悪い数時間を過ごすことになった。
だから、ようやくサンジが帰るとき、ゾロはマンションの下まで送っていきながら何を言ってやろうかとずっと考えていたのだ。
外はもう日が沈みかけていた。サラリーマンや学生がゾロとサンジの横をすり抜けて、マンションの中に入っていく。たまに見知った顔の人間が頭を下げるのにうわの空で返しながら、ゾロは、とにかく眉毛のことをバカにしてやろうと口を開きかけて、けれど思い出したように振り返ったサンジを見て何も言えなくなった。
サンジは、ひどく真剣な顔で言った。
「お前さ、あんないい奥さん大事にしないとバチ当たるぜ？」
「…余計なお世話だ」
「っいなくなってからじゃ間に合わねぇんだぞ！？」
突然叫んだサンジを、ゾロは驚いて凝視する。するとサンジははっとしたように俯いた。夕暮れが、その横顔をオレンジ色に染めあげた。
サンジは小さな声で呟きはじめた。
「オレさ、小さいころから両親居なくてジジィに育ててもらったんだけど、このジジィってのがまたすげぇ頑固で偏屈でさ。いっつも喧嘩ばっかしてたんだ。コックになろうって決めたのもジジィの影響だったんだけど、オレが何作ったってちっとも褒めてくんねぇし」
「じいさんもコックだったのか？」
サンジが、苦笑いを浮かべた顔を上げた。
「そう。ジジィに色々教わったんだ。なんかヘマやらかすと速攻で蹴り飛ばされてさ。オレはそのたびに、絶対いつか認めさせてやるって思ったね。なのに…その前に死んじまいやがった」
あのクソジジィ、と呟きながら顔を歪めたサンジに、今度こそ泣くんだろうか、とゾロは思った。
「ジジィが死んでからオレはメチャクチャ後悔したよ。ジジィが生きてるうちに、オレができたことはもっとあったんじゃないかって。オレがもっと頑張ってれば、クソジジィを黙らすくらいの料理を作ってやれたんじゃないかって」
けれどサンジは泣く代わりに、また真剣な顔でゾロを見た。
「お前のオヤジさんやおふくろさんが今どうしてるのかなんてオレは知らねぇけど、少なくとも奥さんはいるだろ？今のうちにちゃんと大事にしないと、後で絶対後悔するんだ。わかったか？」
「…努力する」
「よし」
途端、サンジはにかっと全開の笑みを浮かべて、それからわざとらしく溜め息をついた。
「あーオレも結婚しよっかなー」
「すればいいじゃねぇか」
「それがなーイイ子が多すぎて選びきれねぇんだよなー」
「アホか」
軽く頭をはたいてみせたゾロに、サンジは声を出して笑うと、そのまま「また明日な」と言ってゾロに背を向ける。ゾロはしばらくその後ろ姿を見つめてから、部屋に戻った。
ゾロはその日、彼女とサンジの話ばかりをして過ごした。ベッドに入ってからも、サンジのことを思い出した。
部屋の中を、静かだとは思わなかった。
店は本当に一か月で出来上がった。模型をそのまま巨大化させたような味気ない材木のかたまりだった。
サンジは、それを初めて見に行った日、目をキラキラさせながらそのかたまりの中や外を何度も歩き回った。庭には何を植えようとか、窓際には何を飾ろうなんて独りごとのように口走っては、そばに居るゾロなんかまるで無視して真剣に考え込むサンジを、ゾロはただ黙って眺めた。ゾロはそれを、つまらないとは思わなかった。
夏の日ざしは当たり前のようにきつい。
乾ききった空気に立ち籠めるペンキの臭いも加わって、ゾロは頭がクラクラした。
いろいろな虫のごちゃまぜになった鳴き声が、ひどく遠くに聞こえる気がする。ペンキのついたローラーを持つ手を壁から降ろすと、ゾロは空いた片手で頭に巻いたタオルをほどいた。その拍子に、汗でびしょびしょに湿ったタオルから雫が地面に落ちていく。乾ききってひび割れた土が、それを喜んで受け止めているように見えた。
タオルで額から流れる汗を拭き取りながら腕の時計を見ると、午後一時。数歩離れた隣を向けば、首にタオルを巻きつけたままローラーで一心に壁を塗るサンジが目に入った。汗が伝う赤く火照った肌がまるで火傷をしているようだった。
「おい、いったん休憩入れようぜ」
「え？」
驚いた顔でサンジが振り向いた。
「もうそんな時間か？」
「ああ、メシにしよう」
「わかった」
サンジはローラーを置くと、タオルで顔を拭ってから店の裏側に向かう。ゾロがその後についていくと、敷地の境目に植え込まれた松の木陰の下に、いつものクーラーボックスが置かれていた。
サンジはかがみ込んでその蓋を開けると、中から二人分の弁当とペットボトルを取り出す。ゾロはサンジから自分のぶんを受け取って、全身が木陰に隠れる位置で座り込んだ。
ゾロの隣に同じように座ったサンジが、大きく溜め息をついた。
「あっとゆう間に時間経っちまうなぁ。全然進まねぇ」
「二人きりでやってるわりには早いほうだろ」
弁当はサンジの作ったものだった。朝に直接現場へ集合して、こうやって休憩を入れながら日が沈んで手元が見えなくなるまで作業に打ち込む毎日に、ゾロは、なんだか前の仕事に戻ったようだ、と熱でぼうっとする頭で思う。
「そっかなー。あ、そういやお前元ドカチンだったんだっけ」
一瞬、考えていることが読まれたんだろうかとゾロは驚いた。弁当をかき込む手を止めて、けれどすぐにそんなわけはないと思いなおす。確認するように顔を向けると、箸より先に煙草を持って火をつけながら、ゾロと同じように少しぼうっとした顔のサンジと目があった。
「ああ。高卒でしばらく働いて、それから大学入りなおした」
「なんで建築やろうなんて思ったんだ？」
「土方の仕事やってるうちに、もっと根本のほうを自分でやってみたくなった」
するとサンジは、煙を吐き出しながら楽しそうに目を細めた。
「なんか、お前らしいなその理由。突き詰めるとこまで突き詰めたいってことだろ？」
「あー、まぁそうゆうことだろうな」
自分の気持ちがひどく立派に飾られた気がして、ゾロはなんとなく照れくさくなった。弁当に集中するふりをして目を反らす。けれど、「じゃあさ」というサンジの声にしょうがなく再び顔を上げた。
「結婚したのはいつごろ？」
「…聞いてどうすんだそんなこと」
思わず顔をしかめたゾロに、サンジはにや、と人の悪い笑みを浮かべてみせた。
「だってさ、気になるじゃねぇか。あんな綺麗な奥さんどこで捕まえやがった」
「…付き合い出したのは大学んときだよ」
「もしかして学生結婚とか？」
「いや、卒業してから」
「だよなー。お前ただでさえ甲斐性なさそうだもんなー」
「お前に言われたくねぇ」
「ばっか、オレは包容力のカタマリだぜ？可愛い奥さんのためならマグロ漁船にだって乗ってみせるね」
それから、サンジは延々と自分の理想の結婚像を語りだした。ゾロはそれをほとんど聞き流しながら、そんなに結婚したいならすればいいじゃないかと思った。俺よりよっぽどいい旦那になるだろうとも思った。優しくて、話すのも好きで、料理もできて。見栄えだっていい。
それとも、結婚できない理由がなにかあるんだろうか、とゾロが思ったときだった。サンジに太腿のあたりを思いきり蹴り飛ばされて、危うく箸を落としそうになった。
「いってぇな！」
「お前さ、人の話ぜんぜん聞いてないだろ」
「だったらどうした」
「…威張って言うことかよ」
サンジは銜え煙草のままハァッ、とわざとらしく溜め息をついて、ゾロを見た。
「今日は奥さん来るのかって聞いたんだよ、オレは」
「ああ」
サンジと仲良くなったせいか、彼女は差し入れ片手に何度か現場を訪れていた。
大抵は休憩時間を見計らって来て数十分もしたら帰ってしまうから、ゾロも、別に仕事に支障が出るわけでもないと彼女の好きにさせていた。それに、彼女が来るとサンジも喜ぶ。
ゾロは空になった弁当箱に、ごちそうさまでした、と呟きながら蓋を閉めて、それからサンジを見た。
「もう少しで今やってる仕事のケリがつくから、その後顔出すって言ってた」
「え？仕事って？」
「外国の絵本の翻訳やってる。下手したら俺よりいい給料貰ってるぜ」
「へー！すげぇな！美人なうえに頭もいいのか！」
サンジがふにゃふにゃと顔を崩しながら一人で盛り上がりはじめる。それを無視して、弁当箱をクーラーボックスに戻そうと体をねじりかけたゾロはふと、もしかして、サンジは彼女のことが好きなんだろうか、と思った。
彼女が来るたびに、サンジはほんとうに嬉しそうな顔で近寄っていくけれど、彼女を見るそのときの目は、そういえばひどく切なそうじゃなかったか？俺と話す彼女をそういえばこいつはいつまでもじっと見ていなかったか？俺の位置に、こいつが立ちたいと思っているのか？
ゾロは、得体の知れない焦りに襲われた。その波に飲まれたまま考える暇もなく言った。
「お前、あいつと結婚したいのか？」
「はぁ？！」
サンジは声が裏返りそうなほど素っ頓狂な声を出して、真ん丸に見開いた目でゾロを見た。
「だって、見てたじゃねぇか。あいつのことじっと」
「…っ」
サンジが苦しそうに顔をしかめた。それを見て、ああ、やっぱりそうなのか、と思ったゾロは、一気に競り上がった波を自分ではどうしていいかわからずに、ただサンジの言葉を待った。
するとサンジは、困ったような悲しいようなよく分からない顔をして言った。
「…オレさ、前に、小さい頃から親が居ないって話しただろ？」
それから、ふいに何かを思い出したように、サンジは小さく笑った。
「だから、お前と彼女が仲良くしてるの見ると、ああ、いいなぁって思ってさ、つい想像しちまうんだよ。オレの親もあんな感じだったのかなって。そうだったらいいなぁってさ」
サンジは俯いて、煙草を吸いこんだ。ゆっくりと吐き出しながら、へにゃんと眉を下げて上目遣いでゾロを見る。
「そんなヤツが、人の奥さんブン捕ろうなんて考えるわけねぇだろ？仲良くしてるのを見るのが好きなのに、なんでわざわざ自分でぶっ壊さなきゃなんないんだよ」
「…悪い」
「お前が謝ってどうするよ」
サンジはゾロの太腿を一度だけまた蹴ると、眉を下げたその顔をそのまま笑顔に置き替えた。
「紛らわしいことしたオレが悪かったんだ。ごめんな」
躊躇いがちにそう言ったサンジに、ゾロは何も応えずただ俯いた。
考えていた。サンジの言葉と共にあっという間に引いていった波を振り返りながら、考えて、けれど答えは出なかった。
サンジはそれから彼女を目で追わなくなった。
いったい何にあんなに焦ったのか、ゾロの答えは出ないままだった。
ウソップが退院したのは外壁をあらかた塗り終えたころだった。塗りはじめてから一週間経っていた。
病院から出たウソップは家に帰るよりも先にサンジの店を見たいと言った。ゾロとサンジの心配も他所に病み上がりとはとても思えない勢いで、明るいコバルトブルーの壁とクリーム色の屋根をした小さなその店に辿り着いた瞬間の、ウソップの顔を見て、ゾロは、同じだ、と思った。組み立て終わったばかりの店を見たときのサンジと、同じ目をしていると思った。
そしてその後の行動もまるきり同じだった。まだ茶色い土ばかりの店の周りを何度も回っては、何を植えようとか何を飾ろうとか大騒ぎして、サンジと二人で真剣に言葉を交わしていた。サンジのときと同じようにただ黙って眺めていたゾロは、今度は、つまらないと思った。
そのあと、三人でサンジの家に行って、退院祝いと今後のための壮行会なんて名目でサンジの料理をつまみに飲み明かした。サンジはほとんどウソップにばかり話し掛けて、ゾロはウソップのかけてくれる言葉に返事をするだけで、あとは二人の会話を聞いていた。 ゾロは、三人でやる作業も、きっとこんなふうになるんだろうと思った。酒に強い、酔えない自分が嫌だと思った。
空には月が照っていた。澄んだ濃紺の夜空によく映えて、道を照らす街灯よりよっぽど明るく見えた。
ゾロの隣では、ウソップがめずらしく煙草をふかしている。サンジの家を出たとき取り出すのを見てゾロが指摘したら、健康すぎる場所にいたから目一杯不健康なことをしたいんだと言って苦笑していたから、ゾロもつき合って一本だけ吸った。今ウソップが持っているのはニ本目だ。
フゥっ、と滅多に吸わないわりには慣れた仕種で煙を吐き出すと、ウソップはひどく真面目な顔でゾロを見た。
「ゾロ、お前あいつになんかやらかしたか？」
「…なんだよ、やらかしたって」
「だってよ、どう見たっておかしかっただろ今日。ちっともお前のほう見ねぇし」
あれは、おかしいことだったのか、とゾロはかえって驚いた。
「お前が帰ってきたからってわけじゃないのか？」
「…ほんとに心当たりねぇんだな」
そっか、と呟いたウソップがひどく辛そうに見えて、ゾロは覚えがないうちにあいつを怒らせたのかもしれない、と記憶を探り出す。 そして唯一引っ掛かったのが彼女のことだったから、できるだけ正確にそれを伝えたら、今度はウソップが驚いた顔をしてみせた。
「そっか…そんなことまで言ってたか」
そっか、と何度か呟きながら、ウソップが俯いてしばらく考え込む。短くなった煙草が下水溝に捨てられるのを、ゾロはなんとなく目で追った。そうすると、その小さなものが、アスファルトに跳ね返って、鉄の枠を通り抜け底に溜まった水に落ちる音まで、聞こえる気がした。
「わかった。おれが今度理由を聞いとく。あいつたまにワケわかんねぇことで悩んで一人で突っ走るから、今回もその類いかもしんねぇしな」
ウソップがアスファルトの地面を眺めたままそう呟く。ゾロに言っているというよりは、自分に言い聞かせているように見えた。
それからウソップはようやく顔を上げると、ゾロに向かってひどく楽しそうに笑ってみせた。
「にしても、あいつが親の話するなんてな。やっぱおれの予想は当たったな」
「なんだよ、予想って」
「言ったろ？お前には懐くはずだって。あいつ、よっぽど気ぃ許さねぇと他人に自分の話しねぇよ」
ゾロは、それでもお前にはかなわないよ、と言いそうになってやめた。まるでひがんでるようだと思った。今日のサンジの態度が、思っていたより堪えたんだろう。
何も言わないゾロを気にしたふうもなく、ウソップは空になった両手をポケットに突っ込んで、空を見上げた。
「おれな、ガキのころ施設に入っててよ、あいつともそこで会ったんだ」
「…お前、母親の話してなかったか？」
「ああ、居たよ。でも体弱くてけっこう早くに死んじまったから、施設に入れられたんだ。サンジは少し後に来たんだけど、これが妙に気が合っちまってなぁ。しょっちゅう二人で遊んでたぜ。しかもあいつメチャメチャ喧嘩強くてな、それまで威張り散らしてたガキ大将ぶっ潰しちまって、おかげでおれら二人ヒーロー扱いよ」
クックック、と忍び笑いを漏らすウソップに、ゾロも口の端を引き上げて笑った。二人の姿が目に浮かぶようだと思った。きっと、楽しいことばかりじゃなかったはずなのに、それでも精一杯楽しんだんだろう。
ウソップは、なにかを思い出したようにふと黙り込んで、悲しそうに眉を下げて笑った。
「でも、あいつさ、夜になると、必ず泣いたんだよ。置いてかないでっつってさ…親に、捨てられたんだと。どうせ捨てるなら顔わかんねぇうちに捨ててくれればいいのによ。そしたらあんな、思い出して泣かねぇで済んだのに」
そのときゾロは、たくさんのことを考えた。サンジがウソップを異常なほど信頼する理由だったり、ウソップがサンジに特別優しい理由だったりを、いっぺんに考えて、けれど一つも言葉にすることはしなかった。何を言ったって、薄っぺらくなるのはわかっていたからだ。
しばらく、二人でただ歩いた。
街にはなんの物音も響いていなかった。まだそんなに遅い時間じゃないはずなのに、どうしてだろうとゾロは思う。それとも、気づけないだけなんだろうか。
ウソップが足を止めた。ゾロも真似して立ち止まると、ウソップはゾロも見慣れているいつもの苦笑を浮かべて、ゾロを見た。
「おれが頼むのも変な話だけどよ、あいつと、仲良くしてやってくれや。なんせおれとじいさん以外で、他人に懐いたのなんざお前が初めてだからよ」
「なんで俺なんだ？」
「わかんねぇけど、たぶん、」
言いながら、ウソップはゾロから目を反らした。オレンジ色の街灯の明かりは、遠くに行くにしたがってぼんやりと大きなろうそくのように揺れている。ウソップはそれを、目を細めて眺めながら、また悲しそうに笑った。
「お前なら、捨てないでくれるって思ったんじゃねぇかな」
次の日、サンジは今までと同じようにゾロに話し掛けてきた。
ゾロはウソップが何か言ってくれたんだろうと思ったけれど、その中身がなんだったのか、ウソップは教えてくれなかったし、だからってわざわざ聞く必要も無いとゾロは思った。二人を三人にしてもらえたことだけで十分だった。
ゾロは彼女にもう来ないでほしいと言った。釘やノコギリをたくさん使って危ないからと彼女には言い訳をしたけれど、ほんとうは、邪魔をされたくないだけだった。
ウソップが来た途端作業のスピードは一気に上がった。隅から隅まで誰よりも出来上がりを把握しているのだから当然だ、と思うと同時にゾロは、正直ホッとしていた。
自分一人の技術だけじゃ対処しきれない状況を、ずっと気にしていたからだ。それを声にして感謝にかえることができなかったのは、なけなしの自尊心のせいだと自分でもわかっていた。ウソップはなにかと便利だからと言って事務所で寝起きしはじめた。本当はゾロもそうしたかったんだけれど、サンジに怒鳴られるから毎日家に帰った。
床板を打ちつけるのは、ゾロとウソップだけでやった。サンジがやるとどうしても釘が曲がってしまったからだ。拗ねて落ち込むサンジに、ウソップは、お前はもっと細かい作業が向いてるとか、コックの手にこんな危険な作業はさせられない、なんて巧いことおだててなだめすかした挙げ句、サンジに庭作りをあてがった。鼻歌混じりで土をいじるサンジを、まだガラスの嵌っていないテラス越しに盗み見て、ゾロはウソップと二人で笑いをかみ殺すのにひどく苦労した。ただ、スコップにへばりついたミミズにサンジが素っ頓狂な声を上げて店の中に駆け込んできたときは、我慢しきれずに大笑いしてしまったけれど。
作業の合間に部品や道具を買い足さなければいけないときは、ゾロが一人でホームセンターに行った。一度、三人で行ったら、サンジはもちろんウソップまで一緒になってフラフラするものだから、少しも先に進めなかったのだ。はしゃぎ回る二人のお守をしながら、 ゾロは、二度とこの二人を連れてくるのは止めようと思った。
床板が完成した日にウソップは、入り口を入って両サイドに一つずつある小さな窓を、もっと大きくしようと言い出した。そして寸法も計らずにノコギリ一つでその窓をひとまわり大きくしてみせた。 すごいすごいと無邪気にはしゃぐサンジと、得意げな顔のウソップを眺めて、ゾロは、二人の子供のころの姿をそのままそこに重ね合わせて一人でこっそり笑った。
天井の板に防腐剤を塗って窓枠も取りつけて、壁紙を貼る作業に移るころ、ウソップは、テーブルや椅子やデッキチェアから食器棚やワインセラーまで、とにかくありとあらゆる家具を一人で黙々と作りはじめた。業者にまかせるとばかり思っていたゾロは驚いたけれど、すごいスピードで何個も同じ物を完成させていくウソップを見て、ここは一人でまかせておくべきなんだろうと思いなおした。だからサンジと二人で壁紙にとりかかることにした。
ところがサンジはここでも思った以上に下手くそだった。何度か空気が入ってはでこぼこを作ってやり直す羽目になったから、ゾロは、サンジを一人で買い出しに行かせて、その間に意地で一人で終わらせた。どうせ帰ってくるのが必要以上に遅くなるのは分かっていたし、足手まといだと正直に言えばサンジは拗ねるに違いないからだ。ウソップならまたうまいことだまくらかせるのもゾロは分かっていたけれど、周りに人が居ることなんて忘れたように一心に作業をするウソップの、邪魔をしたくなかった。
窓ガラスを入れて、キッチンスペースの床にタイルを貼りつけて、それから、どこかの中古家具屋からウソップが探し出してきた、木製のプロペラのような換気扇を天井に取りつけて、ウソップ手作りの家具を並べたら、あとはキッチンとトイレ、それに照明だけになった。
これだけは業者にあらかじめ頼んでおいたものだった。ただし、知り合いの板金屋に頼んだキッチンは、サンジが相当注文をつけたせいで予算をかなり上回ったし、照明に関しては注文したガラス工房にウソップが直に出向いてほとんど自力で作ったらしく、逆に予算をものすごく下回った。ゾロは後で、納品に訪れた両方の担当者の愚痴をひたすら聞く羽目になった。最も、半分以上眠っていたけれど。
ウソップから仕事を任されてから、今日で半年が経っていた。ウソップは一度家に帰ると言って出て行って、店にはゾロとサンジだけが残っていた。
まだ電気の通っていない店内はそれでも夏の日ざしでキラキラと明るくて、テラス越しにはサンジの植えた色々な草花が、まだ根づききっていない作り物じみた姿で並んでいる。元からそこにあったように繁るためには、まだ何年か必要だろう。
テラスには三つ席があった。長方形の店内には、四隅に四人がけのテーブルがあって、少し背の低い濃い茶のソファが備えつけてある。中央には二人がけのテーブルが一直線上に四つ並んでいた。右側の脇にはワインセラー、左側の脇には飾り棚。たいして広くもないはずなのに、その置いてあるどれもが空っぽなせいで、店の中はやけに閑散として広く見えた。
早くいっぱいになればいいとゾロは思った。人の姿や話し声や料理の匂いでいっぱいになって、少し狭いと感じるくらいのほうが似合う、そんな店にしたかったんだろうと、出来上がった店を見回してゾロは、サンジに聞かなくても分かった。
外に出て、わざと不揃いな木を打ちつけて作った三段だけの階段を降りると、歩道に出るまでの短い距離に赤土で道が作ってある以外は、全て芝生を植えてあって、そこにサンジが居た。太陽の光に目を細めながら、まるで夢を見るような顔でぼうっと店を眺めていた。ゾロが出てきたことにも気づいていないようだったから、ゾロは黙って隣に並んだ。
「すごいよな」
呟くようなサンジの言葉に、なんだ、気づいてたのか、とゾロは思った。
「これ、オレの店なんだよな」
「まぁな」
サンジがゆっくりとしたはやさで俯いた。その青い目が少し潤んでいるのを、見ないふりをするためにゾロが、店のほうへ顔を向けていたら、少しだけ震えた声で名前を呼ばれたから振り向いた。
サンジは、泣きたいのか笑いたいのかよくわからないクシャクシャな顔で笑って、ゾロを見ていた。
「ありがとな。お前が手伝ってくれたおかげで、こんなに早く出来上がった」
「…ウソップがいなきゃなんも役に立てなかったけどな」
「そんなの、オレだってそうだよ」
今度は、ただ可笑しそうにサンジは笑った。ゾロもつられて少し笑う。
「にしてもお前、一回中入って休んどけよ。直射日光浴びっぱなしじゃそのうちぶっ倒れるだろ」
「…そうだな」
そう言ったサンジが、妙に辛そうな顔をしてみせたから、ゾロは不思議に思った。まだ見ていたいというだけならこんな顔はしないだろうと思ったけれど、だからって思い当たるふしがあるわけでもないから、黙って先に歩き出す。サンジが一歩離れて後をついてきた。
店のドアを開けて、サンジが中に入るのを待ってから閉める。キッチンのほうに飲み物を置いていたはずだと、ゾロが歩き出したとき、背後からまた名前を呼ばれて振り返った。
ドアに寄り掛かるサンジの顔は、伏せられていた。
「オレさ、お前に、言っておきたいことがあって」
さっきの辛そうな顔とぴったり合うような、そんな声でサンジは言った。
「オレ、お前のこと好きなんだ」
ゾロは、自分の心臓が一瞬浮き上がったような気がした。
「ほんとはさ、ずっと言わないでおこうって思ったし、隠せる自信もあったんだ。どうせ振られて気まずくなるんだったら、このままうまいこと仲良くやってけるほうがいいし。けど…ウソップが退院してから一気に気が抜けたっつうか、お前のことまともに見れなくなっちまってさ」
サンジが、なにかに追い立てられるように早口で言葉を続ける。
「三人で飲んだとき、オレおかしかったろ？ウソップも気づいてたみたいでさ、夜に電話かかってきて問いつめられて、そんで言っちまったんだ。そしたら、一回スパンとコクって振られて、そんでけじめつけちまえって言われたんだよ。オレに好きって言われたからって、よそよそしくなるような薄情なヤツじゃねぇからって」
ゾロは、酷く混乱していた。ただの仲間だと思ってた男に好きだと言われて、それでどうして混乱しているのかが分からなかった。気まずい思いを抱えるだけで済むはずだ。サンジをできるだけ傷つけないような断り方をして、なるべく早くもとの関係に戻ることを願うだけのはずなのに、なにを混乱することがあるんだろう。どうして、冷静になれないんだろう。
「あいつが今いないのもさ、オレがお前と二人っきりになれるようにわざと仕組んでくれたんだ。店が出来てから好きだって言えば、もしお前に…避けられるどころか思いっきり罵倒されたりしても、二度と、会わないで済ませられるからって。あいつ、頭いいよな」
投げやりに笑うサンジに、そんなのは駄目だ、とゾロは咄嗟に怒鳴りそうになった。サンジと二度と会わないだなんて、考えられない。下手に気まずくなるならそれもいいだろうと、頭のどこかでは正論を吐くのに、感情はそれをまるで聞こうとしなかった。
「お前に、お前の奥さんのことじっと見てるだろって言われたときは、マジでビビった。お前、変なとこで鋭いよな。一瞬、バレたのかと思ったよ。お前の奥さんのこと、羨ましいって思ってるって。…そりゃ、親の話もまるきり嘘じゃねぇけどさ、お前ら二人に限っては嘘だよ。お前と仲良さそうにしてる彼女見て、すげー羨ましいって…それしか、考えてなかった」
そうだ、あの時と同じだ。サンジの言葉に、ゾロはひどく焦ったときのことを思い出した。今のこの、グチャグチャとまとまらない、 やたら熱を持った衝動じみた感情は、あの時と同じだ。
けれど、あの時は答えが出ないままっだった。だから今出さなきゃいけない。あの時の答えがすべての答えだと、ゾロは確信に近く思った。
サンジはしばらく言葉を切って、それからはじめて顔を上げた。ただ呆然と突っ立っていただけのゾロを見て、サンジは無理やりな笑みを浮かべてみせた。
「心配しなくてもさ、オレ、もう二度とお前に会わねぇから。ウソップはさ、オレが好きだって言ってもお前は変わったりしないって言ってくれたけど、それじゃあオレがダメなんだ。今までと同じゃオレが耐えられないって、分かってんだよ。だから、」
「っ冗談じゃねぇ！」
突然のゾロの怒鳴り声にサンジが驚いて固まった。その隙にゾロは早足で歩み寄ってサンジの両腕を強く掴んだ。
「一人で勝手に決めてんじゃねぇよ！俺がそう簡単にお前のこと忘れられるとでも思ってんのか！」
とられるのが怖かったからだ。それが答えだ。
サンジが彼女のことを好きだと思い込んだあの時、俺は、彼女にこいつをとられると思って焦ったんじゃないのか？二度と会わないだなんて、俺からこいつを取り上げるだなんて。そんなこと、受け入れられるわけがないだろう？危なっかしくて偉そうで、大人のくせに子供みたいに笑う、捨てられるのが怖くて心を開くこともできない男を、俺は———こんなに、大切に思ってるじゃないか。
目を見開いて凝視するサンジに、ゾロは、額のくっつきそうなほど距離を縮めて凄んだ。
「俺がお前を振るなんて誰が決めた。俺がどれだけお前のこと好きかなんて知りもしねぇくせして！」
サンジの体から、力が抜けるのがわかった。
「…う、そだろ」
ドアを背にずるずるとすべり落ちていこうとするサンジを、ゾロは腕を引っ張って防ぎ止める。
「嘘じゃねぇ」
「オレは…お前がちゃんと、彼女のこと好きだって思ったから、」
「あいつとは別れる」
「なに言ってんだよ！」
サンジはゾロの腕を振り払うと、涙の膜を張ったままの目でゾロを睨みつけた。
「そんなことしたら許さねぇ！彼女を捨てるなんてそんなこと、」
「俺にあいつを騙せって言うのか？」
「っオレのことなんかさっさと忘れちまえよ！」
そんな泣きそうな顔して何言ってやがる。ゾロはカッとなってサンジの後ろ頭を力づくで引き寄せると乱暴に唇を塞いだ。サンジは一瞬だけ体を強張らせて、けれどすぐに逃げようと暴れ出す。ゾロが片手でサンジの背中を押さえつけようとした途端、膝で腹を思いきり蹴られて息が止まった。
反射的に蹲ったゾロを、手の甲で唇を拭いながらサンジは見下ろした。蹴られたゾロよりよっぽど痛そうな顔だった。
「二度と、オレに顔見せんじゃねぇ」
ドアが、強く音を立てて閉められた。
ゾロは、痛みが引いた後もまだその場に蹲ったまま、これからしなければならないことを考えて、それからゆっくりと立ち上がった。ドアノブに手をかける。
ドアの上についた小さな窓には、小さなカーテンがかけてあった。ゾロはそれをしばらく眺めて、目を反らした。ドアを開けて外に出た。振り返ることはなかった。
いつものように家のドアを開けた彼女に、ゾロは話があるとだけ言って中に入った。彼女がついてくるのを足音だけで確かめながら、居間へ続くドアを開ける。
遅れて中に入った彼女がドアを閉めてから、ゾロは、彼女の目を真っ直ぐに見て言った。
「別れてほしい」
彼女はほんの少しだけ目を見開くと、次には目を細めて、静かに笑みを浮かべたまま俯いた。
「好きな人でもできた？」
「…ああ」
「でしょうね。そうじゃなきゃあなた、自分から別れるなんてめんどうなこと、言うわけないもの」
彼女は黙った。ゾロも黙って次の言葉を待っていると、彼女は、相変わらず微笑んだ顔をゾロに向けて言った。
「あなたってほんと、自分勝手よね」
その言葉も彼女の唇も、微かに震えていた。
「どうせ、嘘をついたままでいるのは卑怯だとでも思ったんでしょ？自分が綺麗じゃなきゃ許せないんでしょ？そんなの、あなたの自己満足よ。…嘘だってなんだっていいから、一緒に居てほしい人間だっているのに」
噛み締めた唇を隠すように、彼女がふたたび俯く。そこにはもう、微笑みなんてなかった。
彼女はふ、と細く息を吐き出すと、ゾロをすり抜けてダイニングテーブルに向かった。ゾロがゆっくりと振り向いたとき、彼女はちょうど椅子に座るところだった。両肘をテーブルにつくと、彼女は掌で顔を覆い隠した。
「いいわよ、別れてあげる。あなたのことだから、今さら何言ったって聞かないもの」
ゾロは、何かを言おうと口を開きかけた。けれどなにも言葉が思いつかずに目を伏せた。
「細かいことはまたこっちから連絡するわ。慰謝料ももらうわよ。でも、この家はいらない。あなたの好きにしてちょうだい。それから…二、三日は、事務所に泊まって」
彼女は背筋を伸ばして、真っ直ぐにゾロを見た。相変わらず震えた唇を無理やり引き上げて、微笑む彼女の目からは、涙が溢れていた。
「少しくらい、独りで泣かせてって言ってるの」
ゾロは家を出てすぐにサンジの部屋に向かった。チャイムを押して、いないのが分かると、その場に座り込んだ。サンジが帰ってくるまで待つつもりだった。
サンジは、ウソップに会いに行ったんだろう。ゾロは思った。今日のことを言うのか、言わないのかはわからない。けれど、会いに行ったことだけは確かだし、もしかしたらそのまま泊まってくるかもしれない。今日ここに帰ってくる確証はない。でも、それでよかった。待ちたかった。誰かを待っている間は、ひとりじゃなかった。
それから、何時間経ったかわからない、サンジが帰って来た。サンジはひどく酔っぱらっていて、けれどゾロを見つけた途端、うつろだった目を一気に見開いて逃げ出そうとした。
ゾロが追いかけて捕まえて、別れた、と一言だけ言うと、サンジは、呆然とその場に突っ立ったまま、声も出さずにただ、ぼろぼろと涙を落としはじめた。
ゾロは、その泣き顔にも痛々しい空気にも耐えられなかった。サンジの部屋までサンジを引っ張って連れていって、ソファに座らせて、けれど、少しも泣き止まないサンジを、慰める言葉も方法もゾロにはなかった。ゾロは、どうしたらいいのかわからない焦りにまかせてサンジを抱いた。抱いたことのない男の体に違和感を持つ暇も、気づかう余裕もなかった。ただ抱けば手に入るような錯覚だけが全てで、それだけで昂った体を一方的に受け入れさせた。サンジは、人形のようにされるがままだった。苦しそうに小さな嗚咽をもらすだけで、拒む言葉も、ゾロの背中に腕を回すこともなかった。
次の日、ゾロが目覚めたときには、サンジはもういなかった。
ゾロは、二日間ほとんど外にも出ないで待ち続けた。探しに行こうとは思わなかった。待っている間はサンジが自分から帰って来てくれることを夢見ていられた。自分から会いに行って、今度こそひとかけらの隙もなく拒絶されるのがゾロは怖かった。
そして三日目、電話越しに、ウソップの、事務所に来いと言うひどく低い声を聞いて、ゾロは、サンジの部屋を出た。
事務所のドアを開けて、見慣れたはずの散らかり具合をゾロはひどく懐かしいと思った。
明かりのついていない部屋の中は薄暗くて、おかげで、たくさんのガラクタがひどく不気味に見えた。ただでさえ変な模様をした絨毯もますます正体不明で、その上に、ウソップが座っていた。ゾロを真っ直ぐに見るその顔が、ひどく無表情だとゾロには思えた。靴を脱いでウソップに近づいていく。いつもはうるさいくらいいろんな国の音楽が鳴り響いているのに、今日はなにも音がしなかった。
ゾロが目の前で立ち止まったとき、ウソップは、顔を伏せてゆっくり片手と片足を立てると体を起こしはじめた。そして、立ち上がりざまゾロを力いっぱい殴った。
避ける気もなく受け入れた衝撃は想像以上に強かった。ゾロは口の中が切れたのに気づきながら、初めて見るような冷たい目を細めたウソップを、じっと見た。
「おれはな、正直お前がどうなろうと、お前の奥さんがどうなろうと知ったこっちゃねぇ。けど、サンジが泣くのだけはダメだ。それだけは許せねぇ」
ウソップの声は恐ろしいほど静かだった。底に潜んでいる怒りがどれくらいなのか、ゾロには想像もつかなかった。
「あいつが目ェ真っ赤にしておれんち来たとき、おれは、お前に振られてへこんでんだろうって思ってた。だからなんも聞かねぇで放っといたし、お前が事務所来ねぇのも放っといた。お前はお前で悩んでると思ったからな。でも今日、いい加減店の準備もしなきゃなんねぇんだし、帰れっつったんだ。そしたらあいつ、なんつったと思う？…『どうしよう』っつって。ガキみてぇに怯えて泣きやがって」
ウソップは、ゾロから目を反らしながら、ひどく辛そうに顔を歪めた。それから、感情を抑え込むようにいったん言葉を途切れさせて、けれど再び出した声はそれでも、感情的に震えていた。
「言ったはずだよな？おれは。あいつが親に捨てられたって」
肯定の代わりにゾロが目を伏せた、次の瞬間、ウソップはゾロの襟首に掴みかかった。
「だったらなんであいつに好きだなんて言うんだよ！嘘でもいいから拒めよ！それが思いやりってやつだろ？！自分のせいでお前の奥さんが捨てられちまったって、お前の家庭ぶっ壊しちまったってなったら、あいつがどんだけ罪悪感感じるかなんて考えねぇでもわかることだろうが！」
「っ好きなんだからしょうがねぇだろ！」
ウソップはゾロをまた殴った。最初よりもっと強い衝撃と痛みにバランスを崩して床にしりもちをつきながら、ゾロは、ああ、子供みたいだ、と自分の言葉に自分で思った。
欲しいものを欲しいと言うことしかできないで、大切な人間を困らせて泣かせて。なのに、少しも後悔なんてものを感じないのだ。
罵られても殴られても、サンジが欲しくて、そればっかり考えて。
ウソップが、怒りで唇を震わせながらゾロを見下ろす。
「おれはお前の、そうやって自分の目指すもんに突っ走るとこは嫌いじゃねぇよ。でも今は…腹が立ってしょうがねぇ。コクっちまえなんてあいつをけしかけた自分自身にもだ」
言い終わるとウソップは、体の力が抜けたようにその場に座り込んだ。
ゾロのほうを見もせずに、力無く言う。
「…さっさと迎えに行けよ。あいつ、店にいるはずだから」
それから、ハァ、と、ひどく弱いため息をひとつ吐いて、ウソップは呟いた。
「おれじゃもう、あいつのこと泣き止ませてやれねぇんだよ。ムカつくけどな」
ゾロは、少しも躊躇うことなく部屋を出た。
夕暮れ前の柔らかいオレンジ色は、乾いた空気の熱をそのまま色にしているようだった。サンジの店はあのポスターと同じように照らされていて、ゾロは、まるであのポスターの中に紛れ込んでしまったような気になりながら、芝生に囲まれた小道を歩く。自分にはひどく似合わない光景なんじゃないだろうかと思って、少し笑った。
ドアには相変わらず小さなカーテンがついていた。これを見るたびに、彼女のことを思い出すんだろうとゾロは思った。自分だけじゃなく、サンジも。ノブを掴む手に、必要以上に力が籠る。
ドアを開けると、テラスのそばから外を眺めて突っ立っているサンジが目に入った。少しも気づきそうにないサンジのために、ゾロはわざと音を立ててドアを閉める。それでようやく振り向いたサンジは、ゾロを見てほんの少しだけ驚いたように目を見開いて、それから苦笑いを浮かべてみせた。ゾロが近づいていっても、逃げたりはしなかった。
「それ、ウソップがやったのか？」
「ああ」
サンジに言われてはじめて、ゾロは殴られたことを思い出した。掌で口の端を軽く擦ってみた途端、鈍い痛みに思わず顔をしかめる。
「あいつ、キレるとオレより見境ねぇからなぁ」
サンジはそれを見てまた少し笑いながら、ジーパンのポケットに手を突っ込んで俯いた。窓から差し込むオレンジ色で、金色の髪が鈍く光るのを見て、ゾロはなんとなく目を細めた。
「お前ってさ、ほんと、勝手だよな」
ゾロは、サンジと同じことを言ったときの、彼女の顔を思い出した。サンジも、あの時の彼女と同じように泣くのかと思った。
「別れたいと思ったら別れて、抱きたいと思ったら抱いてさ。オレや彼女の気持ちなんてちっとも考えちゃいねぇ。なんでも自分の思いどおりになる気でいやがる」
そんなことはない、と、言いきれない自分にゾロは今さら気がついた。そういえば俺は、自分のことばかり考えていると、気づいたところで今さらどうしようもないことにも同時に気づいた。
「なにがムカつくって、結局全部、そのとおりになってるんだよな。彼女はほんとにお前と別れたし、オレは…泣かされてばっかだしひどい抱き方はされるしで、いいことなんてひとつもねぇのに、それでもまだ、お前のこと好きなんだからさ」
サンジが、長い前髪を片手でかきあげた。滅多に見れないもう一つの青い目が一瞬だけ現れて、けれどその目も、いつもの目も、揃って床を見つめていた。ゾロはそれがひどくもったいないことに思えた。
「お前に好きだって言われたときはほんとに嬉しかったし、一緒に居たっていいじゃねぇかって、開き直ろうともしたよ。でも…やっぱり、オレには無理だ。耐えられねぇ」
サンジが、小さなため息を一つ吐く。それから、ポケットに潜り込んでいた手を出して、右手で左の手首を掴んだ。震えてしまうのを押しとどめているように、ゾロには見えた。
「きっと、お前の顔見るたびに彼女のこと思い出すんだぜ？耐えられねぇよ、そんなの。オレのせいで彼女をひとりぼっちにさせたって、そのたびに思い出してさ」
「俺ならいいって言うのか？」
やけに硬い声だな、とゾロは他人事のように思った。
サンジが、不意をつかれたように顔を上げた。なのにせっかく真正面から見れるはずだったその表情は、背中から降りかかる夕日が影を作ったせいで薄暗くぼやけていた。ゾロは、見逃さないように目を凝らした。
「あいつがひとりなのは駄目で俺はいいのか？俺があいつを捨てたのは責めるくせして、お前は俺のこと捨てるのか？勝手なのはどっちだよ」
なだれのように言葉を積み重ねるごとに、サンジの目が可哀想なくらい怯えていくのがゾロにはわかった。だからって、止まらなかった。ゾロだって怖かったのだ。サンジの居ない毎日や、一人で取り残される自分や、誰も居ない家を、口を閉じた途端頭の中に明確な像として結んでしまいそうで、ゾロは怖くてしかたなかった。
「お前に捨てられたら俺だってひとりになるんだ。それでもお前は俺を捨てるのか？」
これじゃあまるで脅しだ。ゾロは思った。
自分から彼女を捨てておいて、自分からひとりになっておいて、それを全部サンジになすりつけて追いつめて。彼女を思い出して辛いと聞いたばかりなのに、優しい言葉一つ考えてやることもしないで、自分の望みばかり押しつけて。サンジの抱く罪悪感も、時間が立てば少しくらいは薄れていくだろう、少しくらいは楽になるだろうと思うのに、それを待ってやることもできない。最低だ、とゾロは思った。
後悔だとか苦しみだとか、そんなものを引きずったままでも、自分のそばに居ればいいと思うなんて。
サンジの顔が、くしゃくしゃに歪んだ。きっと泣くんだろうと、ゾロが思ってすぐに、青空色の目から雨が降り出す。同じ空に、晴れきった笑顔が浮かんでいたのは、いったいどのくらい前のことだろうとゾロは思った。
窓の外から降り注ぐ明かりはいつの間にか、オレンジ色から日も沈みかけの赤紫色に変わっていた。床に伸びた長い影は近づいてくる夜に半分がもう紛れていて、だからゾロはさっきよりずっと目を凝らしてサンジを見つめてみる。
そしたらサンジが、ゾロから隠すようにぎこちなく目を伏せると同時に、ゆっくりとまばたきをするのが見えた。その拍子にしずくが頬へ向かってこぼれ落ちるのも見えた。まばたきが繰り返されるたびにこぼれるそのしずくを黙って見ていられなくなって、ゾロは思わず手を伸ばした。
けれど、指先がようやく頬に触れたときだった。震える唇を薄く開いてみせたサンジが、その端を歪んだ笑みになるまで引き上げるなんて予想もしていなかったゾロは、驚いて手を引っ込めた。
そこから掠れた声が出るまでには、少し時間がかかった。
「ひどい奴だよな、お前って」
死にかけのような弱いため息が、言葉の間に紛れ込む。
「人の弱味につけ込みやがってさ。…ひとりで悩んでる暇もありゃしねぇ」
聞き取りにくいほど小さな声で最後の言葉を呟くと、サンジは、ゾロとの間にあった半歩もない距離をさらに縮めて、ゾロの肩に、額をすり寄せるように頭を乗せた。
「なんで…こんなひどい奴、好きになっちまったんだろ」
独りごとのように呟くサンジを、ゾロは、そっと腕をまわして抱き寄せた。そしたら、少しの間を置いて、サンジの腕も同じようにゾロを抱いた。
服越しに触れるサンジの指先は、ゾロの背中で小さく震えていた。
ゾロが彼女に呼び出されたのはそれから一週間後のことだった。ウソップに断って事務所を出たゾロが、待ち合わせの場所に向かうと、別れてからはほとんど使わなくなった、二人の家にいちばん近い駅のそばにある騒がしい喫茶店の角の席に、彼女は座って待っていた。
待ち合わせの時間より三十分近く遅れてついたことを、一言謝りながらゾロが向かいの席に座ると、彼女は、いつものことじゃないの、と言って笑った。その顔が、前より少しだけ疲れているようにゾロには見えた。
たくさんの話し声とＢＧＭに囲まれて、事務的な話は淡々と進んでいった。そして、すべて片づいたところで、彼女は離婚届をゾロの前に差し出した。彼女の書く欄はすでに埋まっていた。
ゾロは渡されたペンで自分のぶんを書きこんで判を押すと、黙って彼女に渡した。そしたら彼女も黙ってそれをたたんでバックの中に戻した。それは、たった数分のことだった。これだけのことか、とゾロは思った。
すべての書類をバックにしまい込むと、彼女は言った。
「で？サンジさんとはうまくいったの？」
「は？」
「あら、だってあなたの好きな人って彼のことでしょう？」
驚いて凝視したゾロに、彼女は、ひどくきまりの悪そうな笑みを浮かべてみせた。
「ほんとはね、けっこう前から気づいてたの。でもあなたはまだ自覚してないみたいだったし、わざわざ教えてあげるのも悔しいから黙ってたのよね」
「…そんなにわかりやすかったか？」
「わかりやすいどころの騒ぎじゃないわよ」
なんとなく分が悪い気がして顔をしかめたゾロに、彼女は一度、わざとらしく溜め息をつくと、困ったような顔で笑った。
「いいわ、教えてあげる。ほんとはおもしろいから言わないでおこうと思ったんだけど」
「…なんだよ、おもしろいって」
無意識に出たのはひどくぶすくれた声だった。ゾロがしまったと思う間もなく、彼女は思いきり吹き出した。
腹を押さえて笑い転げる彼女をただ見ていることしかできなかったゾロは、腹いせにちらっと視線を寄越した隣の若い男を睨みつけた。けれどそれに気づいた彼女がさらに笑い声を弾ませたから、居心地は余計に悪くなるばかりだ。
ゾロがやけくそな気分で彼女のことも睨みつけると、彼女は涙目を指で拭いながら、心底可笑しそうにゾロを見返した。
「ほんっと、あなたって、いつまでたってもそういうところ変わらないわね」
「うるせぇ。いいから早く教えろよ」
「はいはい、わかったわよもう」
そう言って彼女は、氷の溶けきったアイスコーヒーを一口飲むと、ゾロに向き直って言った。
「あなたね、好きな人ができると、その人の名前呼べなくなるのよ」
ゾロは、再び彼女を凝視していた。けれどそれはほんの一瞬のことで、すぐにゾロは、彼女が言ったことがほんとうかどうか記憶を遡ろうとした。
ところが彼女はそうする暇をくれなかった。満足そうに目を細めると、彼女は、テーブルに両肘をついてゾロのほうに顔を近づけて言った。
「で？うまくいったの？」
「…どうだろうな」
ゾロは、情けない声だな、と自分で思って苦笑しながら、考えるふりをして、彼女の目から顔を反らした。きっと、声に負けないくらい情けない顔をしてるだろう。
ゾロは彼女と別れてから事務所に寝泊まりしていた。
サンジは店の開店準備の合間を縫っては、以前より頻繁に事務所に顔を出すようになったけれど、それがゾロのためじゃないことは、ゾロが誰よりもよく知っていた。
ウソップに会うためだ。ウソップを見つけた途端、なにかに解放されたようにほっとした顔をして、それから晴れやかに笑うサンジをみるたびに、ゾロは、ひどく苛立った。
サンジはゾロに、あのはじめて会ったころの、薄っぺらい顔しかみせてくれなくなった。青空だったはずの目を、青空のふりをした安っぽいガラス玉みたいに嘘くさく細めて、笑うのだ。ガラス玉の奥に、怯えさえ潜めて。
そうやって、まるで知らない人間のようにゾロのことは突き放すくせして、ウソップには相変わらず無邪気に笑ってみせるのが、ゾロは嫌でしょうがなかった。自分で招いた結果だ、不満を持つ権利なんてどこにもないし、そう簡単に柔らかい関係を作れるわけがないとも、作るためにはなんらかの方法や努力や、あるいはいくらかの時間が必要だとも、分かっていたはずなのに、覚悟していたはずなのに、耐えられなかった。こんなものが欲しかったんじゃないと、叫ぶ気持ちを、止めることができないまま、その苛立ちをぶつけるように乱暴にサンジを抱いて、そしてひどく後悔する夜を、ゾロはもう何度も繰り返していた。
サンジの寝顔を眺めながら、どうして優しくしてやれないんだろうと、いつも思って、それから少しだけ、疲れた。
「もしかして、振られたの？」
黙り込んだゾロに、彼女は眉をひそめて言う。
「…好きだとは言ってくれたよ。けど、言わなきゃよかったってあいつは後悔してる」
「それって、あたしのせい？」
「いや、俺のせいだ。一人で突っ走ってあいつのこと追い詰めた」
「でも、半分はあたしのせいでしょ？あの人のことだから、自分のせいであなたがあたしと別れたって気にしてるんじゃないの？」
真剣な顔でそう言った彼女に、ゾロは驚いて目を見開いた。
「お前、頭いいな」
「バカっ、ふざけてる場合じゃないでしょ！」
彼女は慌てたようにバックの中を探りはじめた。携帯を取り出すと、ゾロを鋭い目で睨みつけながらテーブルの上に置く。
「そこにサンジさんの番号入れてちょうだい。あなたじゃ埒があかないから、あたしが直接話すわ」
「話すって、」
「いいからさっさとして」
有無を言わせない強い声に、ゾロはしょうがなく自分の携帯を取り出してサンジの番号を表示させた。彼女の携帯にそれを移しながら、ゾロは、そういえば彼女と出会ったばかりのころは、いつもこんな調子だったなと思い出す。いつも怒られてからかわれて、そのたびにムキになるゾロに彼女は笑い転げていた。最後にはつられて笑っていたはずだ。
ゾロは、サンジが初めて彼女と会った日のことを思い出した。あのときも彼女は昔のように笑い転げていたけれど、その前がいつだったか、ゾロは少しも思い出せなかった。思い出せないからいけなかったんだろう、とゾロは思った。今さらもう、遅いけれど。
彼女はゾロから携帯を受け取ると、残ったコーヒーを一気に飲み干して勢いよく立ち上がった。レシートとバックを掴んでさっさと立ち去ろうとする彼女を、ゾロは慌てて呼び止めた。
彼女が面倒そうに振り返る。
「なによ、もう用なんてないでしょ？」
「お前、あいつに何話すつもりだ？」
「あなたみたいな気のきかない自己中男には、絶対思いつかないようなこと」
彼女はふん、と鼻を鳴らすと、ゾロに見下すような目を向けて言った。
「言っとくけど、あなたのためじゃなくてサンジさんのためなんだからね。勘違いしないでちょうだい」
その夜、なんとなく落ち着かない気持ちのままサンジの家に向かったゾロは、リビングのラグマットでふぬけのように座り込むサンジを見つけた。その目は泣き腫らして赤かった。
ゾロはすぐに彼女と結びつけて、ひどく疑問に思った。はじめて会わせたときから彼女はサンジを気に入っていたからだ。サンジがゾロの新しい恋人と知ってもそれは変わらないことなんだと、つい何時間か前にゾロは彼女自身から示してもらったばかりだし、裏表をつくるような女じゃないはずだから、ゾロがいない場所でサンジに冷たい言葉を浴びせるような真似はしないはずだ。
じゃあなんで、サンジはこんないかにも泣いた目をしているんだろう。彼女はなにを言ったんだろう。ゾロには決してできないこととは、いったいなんだったんだろう。ゾロはたくさんの疑問を一遍に抱え込んだ。
ただ、ゾロにとってはその答えをみつけるよりも目の前のサンジを放っておかないことのほうが先だった。ゾロに焦点を合わせたとたん、ただでさえ水っぽかった青をもっと水っぽくさせるサンジを見たらそれは余計だった。
ゾロはたいして広くもない距離を大股で一気に縮めると、サンジと同じ高さまでしゃがみ込んでサンジを抱き寄せた。あやすようにサンジの背中をさすってやったのは、ゾロ自身が安心するためでもあった。
されるがままゾロにぴったりくっついていたサンジは、ゾロが確認するまでもなく、彼女から電話がきたとゾロに教えてくれた。だからゾロが、二人でどんな話をしたんだとなるべくなんでもないことのように静かに聞くと、サンジは、少しの沈黙の後に、ひみつだ、と言ってゾロを見た。
すごく素敵な話だよ。すごく。すごく素敵な話。でもお前にはもったいないから、言わないでおこうって彼女と約束したんだ。だから教えてやらない。
サンジは、いつでも泣く準備の整った顔に、もうニ度と、見ることはできないかもしれないとゾロが思っていた、無邪気な笑顔を重ねて、ゾロを見ていた。答えなんて、ゾロにはそれで十分だった。
ゾロははじめて、後悔のいらないやり方でサンジを抱くことができた。
勢いまかせじゃないセックスにゾロはバカみたいに緊張して興奮して、サンジの肌の感触や、匂いや、体のかたちや、声や、表情や、そういうものを今さら知った。終わってから妙に照れくさくて、二人で、顔を見合わせて笑った。
唯一の明かりはベッドサイドのテーブルに立つスタンドだった。
黄色い光に照らされたゾロの寝顔は年のわりにあどけなくて、サンジは、火のついていない煙草を唇で揺らしながら目を細めた。
そういえば、寝顔なんてはじめて見たなと、思ったらゾロにはじめて抱かれた日のことまで思い出して、抵抗する気力もなかったあのときの腹いせのつもりで、寝ているゾロの頭を適当に殴った。けれどゾロは低い声で唸るだけで、起きることも、サンジの首の下に敷いた腕を引き抜くこともなかった。
「へたくそ」
呟いた言葉に、けれど心の中は嘘だな、と返事をしてしまう。だって、今日はあんなに気持ち良かったと、思い出したら、さすがに照れくさくなって、サンジはもう一度ゾロの頭を殴ってみた。ゾロはほんの少しだけ眉をひそめて、でもやっぱり起きなかった。起きないでくれてよかった、とサンジは思ったけれど、起きてほしいような気もした。
サンジは体をひねってゾロの体越しに片手をテーブルまで伸ばすと、ライターを取りあげた。煙草に火をつけてからまた同じ場所に戻して、空いた手で代わりに灰皿を持った。煙がゾロにかからないように、中途半端に横を向いていた体をちゃんと起こして、シーツ一枚隔てた太腿の上にその灰皿を乗せる。
慣れたにおいの煙が、薄暗がりをぼんやりと漂っていくのを同じようにぼんやり眺めながら、サンジは、彼女のくれた言葉を拾い集めた。
一つずつ、丁寧に拾って、そのたびに笑ったり、ハの字眉をつくってみたりしてから、最後に、小さな声でありがとう、と呟いてみた。でもそれくらいじゃとても足りなかったから、サンジは、彼女を店に招待するときのことを考えた。
どんな料理がいいだろう。どんなものが彼女は好きなんだろう。今度、電話して聞いてみなきゃならない。ほんとはいちから全部自分で考えて、驚かしてやりたいけれど、彼女の嫌いなものなんて出したくないから我慢しよう。つまらない失敗なんてしたくない。
そうだ、同じ日にウソップも呼ぼう。サンジは、へへ、と小さく声を出して笑った。
いちばん最初のお客さんが大好きな二人だなんて、なんて素敵なことだろう。大好きな人たちのためだけに、大好きな料理を作れるなんて、なんて幸せなんだろう。頑張って、二人に最高に喜んでもらえる料理を作らなきゃ。優しくしてくれた二人に、オレがしてあげられることは、それしかないんだから。
サンジは、隣で大口開けて寝ているゾロの顔を眺めてみた。
仲間はずれにされたら、ゾロはきっと拗ねると彼女は言っていたけれど、もしほんとにそうなったら、自業自得だと言って蹴り飛ばしてやろう。大切な人たちとオレを、あんなに泣かせて困らせたんだから、そのくらい我慢して当然だ。
「晴れるといいなぁ」
二人を招待する日が、どこまでも青い空に満ちているといいとサンジは思った。
あの小さなカーテンが風に揺れるのを見て、彼女はきっと喜んでくれるだろう。そのときの彼女のきれいな笑顔も、一緒になって喜んでくれるに違いないウソップの、くしゃくしゃに顔を崩す笑顔も、きっと素晴らしく青空に似合うだろう。
だからそのときは、二人に負けないくらい、サンジは精一杯笑ってみせようと思った。
過去や、後悔や、罪悪感や、愛情や、なにもかもを引きずってそれでも、ちゃんと立っていられることを、そうする勇気をくれた二人に、伝えたかった。
『もしもし、サンジさん？』
『そうよ、久しぶり。すぐわかってくれて嬉しいわ』
『ええ、あたしは元気よ。サンジさんこそどうなの？』
『嘘ばっかり。あの人とうまくいってないくせに』
『わかるわよ。あの人があなたを好きなことくらい。何年一緒に暮らしてたと思ってるの』
『なんで謝るの？悪いのは全部、あの自己中男じゃない』
『ほんと、参っちゃうわよね、自分の都合だけで人のことひっかき回して』
『…そうね、確かに、別れるきっかけを作ったのはあなたかもしれないわ』
『けど、別れるって決めたのはあたし自身よ』
『諦めちゃったのよね。あの人のこと』
『泣いてすがりついたりとか、怒り狂ったりとか、そういうことする気になれなかったの』
『だって、そんなことしたら、あの人ぜったい鬱陶しいって思うもの。それが嫌だったの』
『…ええ、好きよ？』
『けど、サンジさんのことも好きだわ』
『あたしの好きな人たちが幸せになってくれるなら、あたしはそれでいいの』
『ありがとう。相変わらず優しいわね』
『でもあたし、ちっともひとりぼっちなんかじゃないわ。サンジさんがそうやって気にかけてくれてるし、それに、またあたしと一緒にお喋りしてくれるんでしょ？』
『え、ほんとに？』
『嬉しい。すごく光栄だわ。そういえばあたし、結局サンジさんのお料理食べたことないのよね。とっても楽しみ』
『あら、当然じゃない。誰が仲間に入れてやるもんですか』
、
『ふふ、きっとものすごく拗ねるわね』
『あら、そんなことないわ。あの人けっこう寂しがりだもの』
『でしょ？子供みたいよね。すぐムキになっちゃって。あんな怖い顔して笑っちゃうわ』
『でも、あの人のそういうところ、可愛いって思わない？』
『だったら、めいっぱい可愛がってあげて』
『馬鹿だしほんとに自分勝手だけど、あたしの好きな人だもの。幸せになってくれなきゃ許せないわ』
『あたしじゃ駄目なの。あなたじゃなきゃ』
『あたしのこと思ってくれるなら、あの人のこと幸せにしてあげて。別れなきゃよかったなんて、あたしに後悔させないで』
『やだ、泣かないでよ』
『言ったでしょ？あたしは、あたしの好きな人たちには幸せになってほしいの』
『大丈夫、あなたならできるわ。あたしが保証する』
『だから、ね？』
『二人で、幸せになって』
『幸せになって』
『お願いよ』