「それちょうだい」
「だめ」
「ケチ」

けち、けーち、と呟くかわいい小言を背中にもらって、コックはやかんに火をかけながら吹き出しそうになるのをこらえていた。
夜も更けて月はない。波は静かだ。寝静まった船で唯一いっぱいに明かりがついたキッチンには、タバコと紅茶、それから作りたてのカスタードクリームの甘いにおい。
明日のおやつはシュークリームだ。生地は冷凍庫いっぱいの作り置きを全部焼いてしまおうと思っているけれど、それでもきっと足りないだろう。
まぁそれならそれで、と、諦めて、コックは航海士に出す紅茶のことだけ考えることにする。次の上陸まであと三日前後、食料事情にはかなり余裕なしだ。

「あたしの言うことならなんだって聞いてくれるって言ったくせに」
「だめだよ、こればっかりは。おれが怒られちまうし」

あ、やばかったかな。黙り込んだ航海士に彼は少しだけ自分の言葉を後悔したけれど、のんびり、次はなんのお茶を入れてあげようか、なんて考えてタバコの先っぽをフリフリ揺らせるくらいの余裕は残しておいた、それもまた彼女の気に入らなかったんだろう。ふんだ、とひとり言を呟く声がかろうじて聞こえてきた。

「みんなしてあいつの味方ばっかり」

コックの役目は精神安定剤だ。不定期にやってくるこの二人の時間に、誇り高い彼女がそうあり続けるために必要な場所を提供する。
理屈も正論もへったくれもない、ひたすら彼女を甘やかして優しくできる無条件の味方。そういうものがほしいときに、自分を選んだ彼女の目は確かだ、と誇りを持って彼は思うのだ。
考古学者は優しいけれど甘くはないし、狙撃手はちょっとばかり説教くさいし、トナカイは幼すぎる。剣士は優しいけれどあくまで同等の立場でものを言うし、船長に至ってはーーーあの男に面と向かって言えるなら、彼女はきっと今日ここには来ていないのだ。

「や、別にルフィに味方してるわけじゃなくてさ、みんなに怒られちまうから」
「言わなきゃバレないわよ。だからちょうだい」
「だーめ。女の子がタバコなんて吸ったら肌荒れるって」
「なにそれ、男女差別よ。サンジくんたら頭かたーい」
「いーよ別に、かたくても」

おっさんよ、おっさん。バカみたい。サンジくんのバーカ。立て続けに飛び出る文句は歌うようになめらかだった。可愛いやら可笑しいやら、こらえた笑いがやかんを持ち上げる彼の手を震わせる。
それに負けじと背中で平静を装っていると、今度は文句の代わりに紙のこすれる音が聞こえてきた。ティーポットにお湯を注ぎながらコックがほんの少し振り返ってみれば、彼女は味見用に出したシュークリームを包んでいた紙ナフキンを、やけに生真面目な顔できれいに伸ばしているところだ。
テーブルのうえを舞い散る真っ白な粉砂糖と、彼女のパステルピンクに塗られた爪と、それにいじくりまわされている真っ白な紙ナフキンのロマンチックなコントラストに、コックはポットに向かって微笑んで心の中であーあ、と呟きながら、お茶の葉を蒸らしてる間に余ったお湯をボールに入れて冷ますことにした。
おしぼりを作ってあげるつもりだ。ミニチュアの雪景色を一掃できて、彼女の指をあたためることもできて、おまけにこの空間を定義づけるような柔らかさを持ったやつを、ちょっと熱い紅茶と一緒に差し出そう、と、鼻歌をこらえながら張り切っていた彼を邪魔したのは、唐突に開いたドアの音だった。

「酒くれ」

偉そうに登場した今夜の見張り番は、彼女を見て一瞬だけ、眠そうな目をほんの少し見開いてみせた。

「めずらしーなお前。なにやってんだ?」

あくびを噛み殺しながらコック目がけてのこのこ近づいてくる剣士に彼は、めずらしいのはお前のほうだよと言ってやりたくなる。
第三者がこの空間に混ざるのははじめてだからだ。別に秘密にしているわけじゃないけれど、タイミングがいいのかそれとも航海士がそのタイミングを計算しているのか、『二人きり』は今までずっと守られてきたことだった。
二杯目の紅茶はいらなくなるかな。許可されたとおりの酒瓶を剣士が手にするかどうか確認するついでに、答えを求めて彼女の様子を伺ってみると、彼女は、粉砂糖がついたままの手で頬を支えてテーブルに肘をつきながら、酒を物色してる男の背中に向かって大げさにため息をついた。それから気だるげに言った。

「いいわよねーあんたは」
「んあ?」

剣士の関心はあくまで酒だった。そのぶんいかにも適当な間抜けた返事をしながら酒瓶片手に振り返った剣士に向かって、目を細めてみせた彼女に、あーあ、と、コックは心でもう一度呟いた。
どうやら、紅茶どころか、新しいお茶菓子とそれに、酒瓶ももう一本追加の必要があるようだ。わざと喧嘩をふっかける気満々に違いない航海士と、サシの勝負では手を抜かないのが自慢の我らが剣士さまを、少しでもなだめるために。
この先の食料計画と、それから今日の就寝時間の短縮にほんの少し変更が出そうな予感に、思わずこぼれかけたコックのため息を、ところが二人は食い止めた。

「サンジくん、なんだかんだ言ってあんたにかかりっきりだもんね」
「っえ?」

裏返りそうな声で驚いてみせたコックをちらっと横目に、剣士は航海士の向かいにどっかりと腰をすえた。
彼は喉を鳴らしながら酒を一口飲むと、満足げにため息を一つ、それから相変わらず眠そうな目で彼女を見た。

「そーでもねぇよ。ほとんどほったらかしだぜ?」
「ウソばっかり。あたし知ってるもの。サンジくんがキッチンから出たら最後、あんた独り占めじゃない」
「おまえな、こいつが一日にどんだけここに籠ってると思ってんだよ。しかもその間はどんだけちょっかいかけたってぜってーかまってくんねぇし。な?」

と言いながら振り返ってみせた剣士に、コックはうなり声一つ出せないほどただ突っ立っていた。そのくらい彼は驚いていた。
まず彼女が剣士も巻き込んだことに驚いた。『めんどくせぇ』の一言で終わらせる相手なのは彼女だって知ってるはずで、ただ、そんなやつにもこぼしたくなるくらい鬱憤が溜まってたんだろうとは思えないこともない。だからこそ素直に巻き込まれた剣士に余計びっくりだ。
返事はもらえそうもないと見切ったのか剣士は、彼に向かってつまらなそうに心持ち片眉をあげてみせてから、納得しきれてなさそうな顔の彼女に向き直った。

「だから一日分の時間合計したら、たぶんおまえがルフィと二人でいる時間のほうが長いんじゃねーの」
「っでも、ちょっかい出したときには必ず相手してくれるじゃない」
「そりゃ、相手してくれそうなタイミング狙って行くからな」

今度は彼女もコックとお揃いの顔をしてみせた。
すると剣士は、マスカラの乗ったまつげを最大限に見せつけるように目を見開いた彼女を見て、その次に同じくらいいっぱいに開いた真っ青な目を視界に焼きつけてから、どこか得意げな顔でまた酒を煽ってみせた。

「まぁ、ルフィくらいの年なら女といるよりダチと遊んでるほうが楽しいって時期だしな、ある程度はお前も諦めるしかねぇよ。けど、そのぶん一回人肌恋しくなるとなかなかおさまんねーんだよな。現に今も、」

二人はもう剣士の手のひらの上だった。指差されたとおりにドアのほうを振り向く。

「寝れねぇっつって船首でうだうだやってるぜ?」
「っえ?」

航海士が首をドアの方に向けたまま勢い良く立ち上がった、と思ったらあらためて他の二人の存在に気づいたようだった。はっとしたようにほんの少し顔を赤らめると、彼女は、俯きがちになりながらそれでも、ほんとに小さな声で、行ってくる、と呟いてドアのほうへ、そしてドアの向こうの船首へと小走りに消えていった。それは、あっという間のことだった。

「…もしかして、ルフィに頼まれたとか?」

ドアの閉まる音、そのあと何秒かの沈黙を待ってから呟いたコックは、けれど自分で言った言葉に自分でありえないなと思った。あの船長なら自分から堂々と彼女を探しにくるはずだ。
でも、なら、いったいどういうわけでこの剣士はこんな世話を焼く気になったんだろう、半分ばかり冷静さを取り戻した彼は、ついでにほとんどフィルターしか残っていなかったタバコに唇が焼かれそうだったことにも気づいた。
慌ててシンクの上の灰皿に放り投げてから、ようやくまともに向き合った剣士の顔に、ところが答えは全部書いてあったのだ。笑えるほど分かりやすく。

「タイミング狙ってるだけじゃ足りねぇからに決まってんだろ」

わかれよ、そんくらい。残りの酒を一気に飲み干し空き瓶をテーブルに押しつけながら、ぼそっとそう呟いた剣士に、コックは声を出して笑った。
夜も更けて月はない。波は静かだ。寝静まった船で唯一いっぱいに明かりがついたキッチンと、暗闇にもめげず前を見据える船首に、流れる時間は、作りたてのカスタードクリームよりも甘いのかもしれない。








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