「ゾロとサンジはセックスしてんのか?」

 

 ブハっと音を立てて吐き出されたのは二人分のコーヒーだ。

 テーブルの中央に向かって点々と雫を残す茶色い液体を、そうさせた張本人はきたねぇなぁ、と他人事のように眼で追っている。隣ではナミが心持ち眉を潜めながら、オレンジジュースのグラスに口をつけた。

 深夜のファミレスは賑やかを通り越していっそけたたましい。

テーブルごとに同じ年令層、同系統の服装の人間たちが、まるで違う話をまるで違う言葉遣いと笑い方ではしゃいでいる。共通点といえば、誰も彼もが他のテーブルのことになんて構っていられる暇もないことだけだろう。アップテンポのポップソングがそれをさらに煽り立てる。

 なのにキョロキョロと人の眼を確認するサンジを気配だけで感じ取りながら、ゾロはペーパーナフキンで黙々とテーブルを拭いていた。隣のその男の視線が、元の位置に戻る手前でむき出しになったどこかの女の肩に盗まれるのにも気づき、気づいたところでどうにもならないことにも腹立たしいが気づいていた。

 こいつのコレは病気だ、病気。自分へのフォローはほとんど条件反射だ。

 

「だって、つき合ってんなら普通だろ?おれとナミだってするし」

「っなん…?!」

「このバカっ!」

 

 バチンっ、と軽快な音が続けざまに響いた。

 めずらしい、動揺してやがる。クシャクシャになったナプキンをコーヒーの受け皿に置いて、ゾロは代わりにカップを取り上げた。 ほとんど残ってもいない中身をわざと時間をかけて飲み干したのは、思わず持ち上がった口の端をごまかすためだ。けれどもっと動揺してるはずのサンジの顔を想像すると途端に眉間に皺が寄った。

 てめぇは嫁入り前の娘の父親か、と、毒づいてやりたいのをそれでも耐えたのは、話題に巻き込まれたくなかったからだ。

 

「ナミさぁーん…なんでこんな猿とぉー…」

「猿なんて言わないでよ。あたしが可哀想じゃない」

「でもさぁー!」

「うるさい!それよりあんた達はどうだって聞いてんのよ!」

「そうそう!なぁ、男同士でもできるもんなのか?」

 

 タイミング悪いネタ振りやがって。誰にも聞こえないように、ゾロはこっそり舌打ちをした。

 サンジの拉致騒ぎから二週間が経った。

 見知らぬ男に好きにされるサンジを見て、ようやく自分の中にある巨大な執着に気づいたゾロは、けれどそれを伝えきれる言葉を知らなかった。だから代わりに何度も好きだと繰り返し、同じだけキスをした。

 それは今も続けている。二人して家でくつろいでいるときだったり、寝る前だったり、朝の起き抜けだったり、気がついたときにはとにかくいつも。

 その言葉と行動が世間一般でいう恋人同士のものだと、知ったところでゾロはどうでもよかった。

 サンジを引き止めておけるならなんでもよかったからだ。肩書きに興味はなかったし、自分の持つ感情が恋に近いものだという自覚もあった。もっと強くて狂暴であるにしろ。ほんの少しのぎこちなさと共に、同じ行為を自分からねだるようになったサンジに、その感情はひたすら膨らんでいくばかりだ。

 だから、好きという言葉は、ゾロにとって嘘にはならない。

 最初は確かに望まれたから言った。手に入れるためならなんだってするつもりだったからだ。けれど、いくら望まれたからといって嘘を吐けるほどの狡猾さは持っていない。その言葉が、たとえ自分の感情を表すには柔らかすぎるとしても、決して間違ってるわけでもないから声にしている。

 キスだって、したいからしているのだ。どうにかしてこの男を泣き止ませたくて、思いついた方法がそれまで何度も自分に向かって繰り返された行為だったのは、言葉と同じく望まれている自信があったからだ。

 それが今では、ただ望まれているからだけじゃなくなっている。 少しかさついた唇を薄く開けて眼を閉じるサンジは、いつもひどくあどけなくて頼りない。普段の気の強い態度からまるきり想像のつかないそんな姿を、見ることができるのが自分だけだという事実にゾロは安心するのだ。同時に、その唇をいくらでも満たして甘やかしてやりたいとも思う。だから、自分から仕掛ける回数のほうが増えるほどには、その行為をゾロ自身も望んでいた。

 でも、セックスは。

 

(…勃つのか?俺は)

 

 隣で質問攻めに会ってうろたえてる横顔を一瞬だけ盗み見ながら、もう何度も思い浮かべた疑問に立ち向かう。

 そばにいてほしい。できれば泣かないで笑っていてほしい。誰にも渡したくない。その思いは本当だし、そのためならなんだってできる確信があった。

 ところがその確信は所詮思い上がりでしかなかったと、気づかされたのはほんの一週間ほど前だ。

 いつものようにキスをした後で、思わせぶりな眼をしたサンジを見た。

 同じ男だ。それなりの場数も踏んでいる。相手が何を求めてるのかに気づくなんて簡単だった。控えめで、けれど熱っぽいその眼が指す意味をだからすぐに理解して、ゾロは戸惑った。

 それまで考えたこともなかったからだ。男を抱く自分を。ましてや抱かれる自分なんて。

 すぐに勘づいたんだろう、自分から両腕を突っぱねて体を離したサンジの、浮かべた苦笑に、後悔に紛れた物足りなさを見つけてそれでも踏み出せないまま、今日までどことなくぎこちない毎日を繰り返している。キスも減ったし会話も自然と上っ面になった。これじゃあ好きだと伝える前と同じじゃないかと、苛立ってもなにもできないのが不甲斐ない。

 望みを叶えてやれる確証がないからだ。

 なにを望まれているのかはわかるし、叶えてやりたいとも思う。けれど行き当たりばったりで踏み込んでもしうまくいかなかったら、サンジは傷つくだろう。ただでさえ、自分が男だからと気持ちを抑えてきた男に、そんなのは関係ないと言い切れない今の自分は、マイナス要素にしかならない。

 じゃあどうすればいいんだろうかと、答えを探していた矢先のことだ。

 

(こいつは、わかってんだかわかってねぇんだか核心つきやがる)

 頬杖をついて会話に感心のないふりをしながら、ゾロはこっそり視線を斜め上に向けてみた。間の悪い質問の持ち主を睨みつけようとしたその眼は、けれど誰より苦手な隣の少女とかち合う。

 しまった。にやり、と人の悪そうな笑みにゾロは思わず苦い顔をした。

 

「ルフィ、そろそろ時間じゃない?」

「お!そーだな!行くか!」

 

 お礼はあんたのおごりってことでいいわよ。あっさりと立ち上がったルフィの横で、ナミが片目を瞑りながらゾロの前にレシートを差し出す。溜め息をつきながらひったくると、隣でサンジもほっと溜め息をつくのが聞こえた。

 どんな顔をしているのか見れない自分が情けなくて、ゾロは腹いせに手に持ったレシートを握りつぶす。

 泣かせたくないはずなのに、傷つけたくもないはずなのに。

 どうして、うまくいかないんだろう。

 

 

 

 

::::::::

 

 

 

 

 

「けどよー、ウソップのやつほんとなんでもやるよなー」

 

 梅雨を抜けきっていない風は、中途半端に生温かった。

 空は、雨こそ降ってないものの不透明な重い灰色だ。街灯はすべて消えて、膜をはったようにぼやける三日月は道を照らすこともできずにいる。不気味なほど真っ暗闇のその中を、四人はダラダラと歩いていた。

 人が住んでるのかも怪しい木造平屋に囲まれた脇道はただでさえ狭い。なのに、時折端に停めてある自転車やバイクが余計に進む邪魔をする。おかげで四人はニ列に分かれて歩く羽目になっていた。

 なんだ、オレ達のもここに置けばよかったじゃねぇか。前の列にいるルフィとナミの話し声を右から左に聞き流しながら、道の三分の一近くを塞ぐビッグスクーターに、サンジは眉を顰めて呟く。二台も一遍に停める場所はないだろうと決め込んで、わざわざ歩いて五分近くかかる駅のそばに置いてきたのに、なんだかひどく損をした気分だ。

 それでも、酔っ払いに傷つけられねぇからいいだろ、と興味も無さそうな返事を隣から貰って、思わず笑った。

 傷つくどころじゃ済まねぇ乗り方したくせに。もっとも、そのおかげで助けられたのは自分だから、口に出してからかってやるのは我慢する。

 三人組の女たちが、向かいから近づいてきた。

 話しては笑いながら、香水と煙草の匂いを残して擦れ違っていく女たちを、振り返るのはサンジにとっての本能だ。

 右から二番目。や、左端の子のおっぱいも捨てがたいな。ビーズのキラキラ光るジーンズから覗く、半分むき出しのヒップに夢中になりかけた意識は、けれどルフィの声に無理やり引き戻された。

 

「お前らは知ってたのか?あいつがDJなんかやってるって」

「あーオレは知ってた」

 

 タバコの煙りを吐き出してから、おまえは?と隣の男に尋ねれば、予想通り無言で首を振って返される。

 だろうな、と、言いながら眼を反らした、その理由はサンジにとって知られたくないことだ。

 

(女の子引っ掻けるためにうろついてたら偶然知ったなんて、言ったらぜってー機嫌悪くなるし)

 

 子供みたいにぶすくれる男の顔を想像した途端、勝手に緩みかけた顔を、サンジは慌てて引き締めた。

 ゾロに好きだと言ったとき、サンジはすべてを捨てる覚悟でいた。

 気持ちを隠したまま傍に居ることが耐えられなくて、こうなったらなにもかも曝け出して消えてしまおうと決めていた心は、受け入れてもらえるかもしれない期待なんてこれっぽっちも持っていなかった。

 だから、ゾロに好きだと言われて泣いてしまったことは、みっともないけれどしょうがないと今では思う。それくらい信じられなかったからだ。

 今だって、たまに信じられないでいるくらいだ。当たり前のように好きだと言われたり、何気なくキスをされたり、抱き締めてもらえたり、髪をあやすように梳かれたり。嬉しすぎて信じられないことばかりだ。

 だからってそれ以上を、求めていなかったといえば嘘になる。

 まだ片想いのときから触りたいと思う気持ちはあった。抱かれたいとか抱きたいとか具体的な望みはないけれど、あのストイックな男が性的な欲を曝け出した瞬間を思うとひどく興奮するし、触ったり触られられたりしたらどれだけ気持ちいいだろうと、想像すると体が熱くなった。だから、好きだと自覚してからは同じベッドで寝ることも苦痛でしかなかったし、戯れに肩を組まれたりするだけで息がつまった。

 気持ちを受け入れられてしばらくは、その事実自体に夢中で忘れていたのだ。

 なのに、キスをされたり抱き締められたり。あんまり当たり前のように繰り返されるうちに、慣れてしまってたんだろう。気づけば、キスなんかじゃもの足りないと思う自分が居た。

 挙げ句、衝動に負けて欲を晒してしまった。

 

(…引いてたもんなー)

 

 煙を吐き出す振りをして、サンジはそっと溜め息をつく。

 ゾロがくれる好きだという言葉を、信じていないわけじゃなかった。

 ほとんど本能で生きているような男だ。好き嫌いはあからさまだし、興味のないことにはまるで無頓着で、そのくせ欲しいと思ったら驚くほどの執着を見せる。そんな男が口にする言葉が、下手な感情なんかよりもよっぽど強いものだということくらいわかっていた。

 それがたとえ子供の所有欲みたいなものだとしても、じゃれるようなキスや触れ合いがその延長線上にあるものだとしても、想いを頭から否定されることに比べれば奇跡みたいな現実だ。それに、ちゃんとわかっていたはずだった。

 同じ延長線上に、セックスなんてものがないことだって。

 

「サンジー、ウソップの副業ってあとなにがあったっけ?」

「っえ?」

 

 ぼうっとしてる暇はないらしい。勢いよく顔を上げた拍子に唇からこぼれ落ちそうになったタバコに、慌てたのはあくまで心の中だけだ。わざとダルそうに、中指と人さし指で支え直す。

 

「あいつの副業?」

「おう。パチプロとお絵描き教室の先生は知ってんだけどさー」

「えーとな、おもちゃの病院の助手だろ?」

 

 バレてなきゃいいんだけど。指折り数える拍子に隣をちらっと確認すれば、ゾロはめんどくさそうにあくびをしていた。サンジはほっとすると同時に、知らないうちに強張っていた体の力を抜いていく。

 

「車の修理工場のバイトに古着屋の店員、あと手作りアクセサリーの販売と、」

「盗聴器の開発」

「ぇえ?!」

「『上』から頼まれたみたいよ?」

「…それプラスDJだろ?」

「いつ寝てんだあいつ」

「その前にどれが本業なのかしら」

「本人もわかってねぇんじゃねぇか?」

 

 軽く溜め息をついたゾロに全員が賛成、と声を上げる、そのタイミングに紛れて、サンジはまるで違う理由に溜め息をついた。

 早く、うやむやになってくれればいい。

 物足りないと思う気持ちが無くなることはないだろうし、隠し続けるのはそれなりに辛いことだろう。だからって、それに耐えようと思えるだけのものはもらっているのだ。できないことじゃない。

 あとは、この男が忘れてくれるのを待つだけだ。そうしてまた、ぎこちなくなる前のキスや言葉をたくさんくれればいい。それでいい。それだけでいい。

 一度手に入れたものを無くすのは、はじめから無いよりずっと辛かった。

 

 

 

 

::::::::

 

 

 

 

 腹の底から響く重低音は、音を超えて振動に近かった。

 あっという間に耳が馬鹿になる大音量を、吐き出すのはダンスホールの両脇にそびえ立つ巨大な黒いスピーカーだ。そこから、フィルターのかかった女の声が、鼓動のように一定のリズムを刻むベースラインに乗って悲しげに流れている。籠ったピアノとシンセの浮き世離れした音がいっそ憎たらしいくらいに歌声を飾っていて、その音に飲まれた客たちは、どこか我を忘れたような真剣さで体を揺らしていた。

 収容人数は百人いくかいかないかだろう。それほど大きくないダンスホールは半分程度が人で埋まっていた。その狭い暗闇の中を、赤と白のライトが好き勝手に長く伸びていた。

 不規則に角度を変えるその光に断続的に照らされているのは、煙草の煙の淡いもやをかぶったたくさんの手や顔だ。目を瞑って両手を掲げている男の横顔や、ひらひらとスカートを翻しながらステップを踏む女の足や、そういうものが、まるで単体の生き物のようにスローモーションで動いている。

 気持ち良さそうに踊る客たちの、特に女の子に重点を置いて眺めながら、サンジは壁際に並ぶプラスチックの真っ赤な椅子にビール片手に座り込んだ。

 

「けっこう客入ってんじゃねぇか」

 

 足を組んで、ビールを一口飲む。味の薄いドイツ製のビールは、水のように体に染み込んで気持ちがよかった。口の端についた泡を舐めとってから、煙草を取り出し火をつける。

 ベニヤ板で囲まれたちゃちなつくりのDJブースには、サンジとたいして年の変わらなそうな男が立っていた。頭にかぶったヘッドフォンを片耳だけ後ろにずらして、レコードを指でくるくる回している。だからってそれでなにが変わるのかサンジにはわからなかったし、わかろうと思う気もなかった。

 ただ、今流れているような曲が女の子受けすることだけは、通っていたころの経験からなんとなくわかっていた。現に、ホールの中心で踊っているのは女の子が多い。華奢なヒールを履いた綺麗な足や、レトロ柄のビキニに覆われた柔らかそうな胸に顔を緩めながら、名前も知らないDJにサンジは少しだけ感謝する。

 ホールには、どこで焚かれているのかわからないお香のにおいに、酒と煙草と汗のにおいがごちゃ混ぜになって暑苦しく充満していた。  

 不必要に敏感な嗅覚は、その中から微かにハッパの燻る匂いまで嗅ぎ分けてしまう。サンジは無意識に溜め息をついて、対面の壁際に視線を移した。そして、煙草よりもずっと濃い煙に囲まれたジャンキー達を見て、思わず顔を潜めた。

 こんな場所で道徳観なんてものを出すのは不粋だとわかっているけれど、どうしても締め上げて『上』に突き出してやりたくなるのは、職業病だろう。つい最近まで腐るほど見てきた類いの連中だ。サンジは、フッと勢い良く煙草の煙を吐き出す。

 気分を改めようと新しい煙を吸い込みながら、斜め前方のDJブースに目を移したところで、危うくそのまま飲み込みそうになった。

 

「っぶ…っハハ!」

 

 ブースの中に、ウソップが現れた。

 顔の半分近くを覆う何十年も前に流行ったサングラスと、熱帯魚のような蛍光マーブルのタンクトップ。ショッキングピンクのバンダナとごつい木製のペンダントは、まるで呪術師のようなインチキくささだ。

 あいつ、気ぃ狂ったか?サンジは声も出せずに体を捻って背後の壁をバンバン叩きつける。ルフィ達が見にくるから気合いを入れたつもりなんだろうが、入れ方の方向性が間違ってるというか人並外れだ。だんだん笑い過ぎて腹筋が痛くなってきて、眉を寄せながらなんとか息を落ち着ける努力をする。

 交代するんだろう。今までプレイしていたDJになにか耳打ちしてから、ウソップは自前のヘッドフォンをミキサーにつなぎ始めた。片方だけ空になったターンテーブルに、どこかから取り出したレコードを乗せる。

 

「うそ———ぉっぷぅ!」

 

 ルフィがスピーカーよりもでかい声で叫びながら、最前列に駆け込んできた。

 ピョンピョン飛び跳ねているその横には、困ったように笑うナミがいる。チクショウ、やっぱナミさんはかわいいなぁ。サンジはルフィを極力視界に入れないようにする。

 いいやつだとはわかっているけれど、それにしても、サンジにとっての神聖なアイドルをモノにしたのが、あんな猿だなんて。ファミレスでの発言を思い出して、サンジは軽い目眩に襲われる。

 ルフィになにか言われたらしい。ウソップが視線をサンジのほうに寄越した。

 けれど軽く手を上げて笑い合っただけで、その目はすぐにレコードへと移された。格好とは不釣り合いに真剣な目だ。つられてサンジもその慎重な指の先を見つめてしまう。そして、針が落とされた。

 流れ出したのは『Loli PoP』だ。

 あからさまに古いひび割れたレコードの音に、ホールから笑い声と歓声が上がった。それまで壁際に突っ立っていた客も中央に集まりだすのを見て、サンジはニヤンと口の端を上げる。

 ウソップがセレクトする『掴み』は、いつもどのDJよりも盛り上がるのだ。何度見ても、そのたびにサンジをしてやったりな気分にさせてくれる。それから、次にどうでるつもりなのかまるで予測のつかない楽しみも。サンジは組んだ足に片肘をついて、じっとウソップのほうに集中する。

 何回目かのコーラスをその場の客全員で合唱したところで、キュルキュルキュルっとスクラッチの音が響いた。その次の瞬間、心臓が飛び上がるほど爆発したフィルターシンセの音と共に、ゴスペル並に空気を揺すぶる声がダンスホールを埋め尽くした。ホールの空気が一瞬止まった。

 軽快なドゥーワップは、キングオブアンセムチューンに。

 跳ね上がったBPMに追い詰められるようにダンスホールが弾け出す。大歓声を上げて踊り出す客を見て、ウソップは、リズムに合わせて軽く体を揺らしながらニィっと笑うと、どこかから取り出した煙草を口の端で斜めに銜えた。

 片手で風避けを作りながら、慣れた仕種でひょいと首をかしげてライターで火をつける。それからふぅっと勢いよく吐き出された煙は、どこか誇らしげだった。かっこつけてんなぁおい。サンジは苦笑をこぼす。

 相変わらず飛び跳ねているルフィの周りに、他の客達も集まってひとつの塊ができあがった。

 なぜかそのほとんどは男だ。振り回される腕や頭と一緒に汗が飛び散るのを見て、サンジは思わず鼻の頭に皺を寄せた。汗クサそうだなおい。混じる気になんて到底なれずに、ただ眺めることにする。

 耳鳴りする暇さえないほどの大音量と、大勢の人の姿は、見ているうちにだんだんと現実味を失っていった。そのぶん、静かになっていく頭の中でサンジは、変わるもんだなぁ、とどこか他人事のように思う。

 つい何週間前まで、ほとんど毎日通い詰めてた場所だ。なのに、ゾロのいる家に帰りたくなくて、夜を明かすためだけに足を運んだころと今とでは、見るものすべてが違って見える。怠惰と現実逃避に埋め尽くされていたはずの暗い逃げ場が、こんなに単純な娯楽の場所に変わる日が来るなんて、あのころは考えてもみなかったことだ。

 心の安定度が違うんだろう。世界中に味方なんて一人もいない気がしていたあのころも、今になってみれば馬鹿みたいだと思える。

 妙な懐かしささえ覚えて苦笑を浮かべながら、元凶といってもいい男を探してみれば、ブースと反対側の隅にあるバーカウンターに突っ伏して寝こけていた。バーテンがチラチラと困ったように様子を伺うのが見える。

 一見飲み過ぎたようなその格好は、実際のところ単にこの場所に興味がまるでないからだろう。酒が飲みたいという言葉を素直に聞いて放置してきてみればこのざまだ。もうちょっと若者らしくはしゃぎやがれ。サンジは笑っていいのか呆れていいのかわからずに、とりあえず溜め息をつく。

 短くなった煙草を消そうと、隣の椅子に置いてある灰皿に視線を戻そうとしたときだった。向かいの壁際に、一人の見覚えのある女を見つけた。

 

(やっべ)

 

 サンジは慌てて灰皿に集中するふりをして、情けなく眉尻を下げた。

 ゾロから逃げていたころに出会った女だ。

 ただ顔見知りになっただけの相手なら喜んで自分から話し掛けに行っただろうし、いっそ顔見知りじゃなくたって目さえ合えば飛んで行ける自信がサンジにはある。ゾロを好きなのとは別次元で、女の子は大好きだからだ。

 女とは、あからさまに言えばセックスフレンドだった。しかも、サンジのほうから誘って。

 

「うわー…」

 

 煙草を力一杯灰皿に擦りつけながら、楽しい気持ちは丸ごと自己嫌悪に飲み込まれた。

 ずっと、後悔はしていたのだ。大切にしたいはずの女の子をその場しのぎに利用してしまうなんて、どれだけ周りが見えてなかったんだろうと、想いが叶ってから何度も思い出しては反省してきた。

 だから、女に会う可能性の高いこの場所にも近寄れずにいたのだ。 もし会ってしまったとして、そんな相手に今さら、ただ仲良く喋るだけを望んでるなんて、言ってもきっと信じてもらえないだろう。体だけの手軽な相手を、確かにあのころは自分も望んでいた。

 そして、あのころと同じ目的を、彼女が今でも持っている可能性は否定できない。

 弱気だとは思う。思うけれど、女の子が望むことを断るのは、サンジにとって罪悪以外のなにものでもないのに、わざわざ自分からそんな罪悪を、女の子に恥をかかせるような真似を、実行する勇気は持てなかったのだ。

 あいつが寝てて良かった。バーカウンターのほうをもう一度確認しようとした、そのタイミングはところが最悪だった。

 酒でも取りに行こうとしたんだろう、女がバーカウンターのほうへ体を向けた瞬間と、サンジが視線を向けた瞬間に、白いライトがホールのど真ん中を突っ切った瞬間が、見事に一致したのだ。

 白い光を挟んで、互いの視線ががっちりと噛み合う。

 女はひどく意味ありげに微笑んで、サンジに向かって歩き出した。

 

(…けじめつけろってか)

 

 サンジは、顔で笑い返しながら、心の中で溜め息をついた。

 

 

 

 

:::::::

 

 

 

 

「ちょっと、寝てる、暇なんて、ないんじゃ、ないの?」

 

 ごんっ、ごんっ、ごんっ、と言葉の区切りごとにジーマの空き瓶で殴られて、ゾロは眼を覚ますと同時に背後の女を思いきり睨みつけた。なにをしたって言ったって少しも効果なんてないことは知っていても、なにもしないでいるのは悔しすぎる。

 

「っ起こすならもっとふつ、いてっ!」

「見て、あれ」

 両手で頭を掴まれ無理やり斜めに方向を変えさせられた。首の骨がミシ、と音を立てて軋む。

 文句ぐらい言わせてくれたっていいじゃねぇか。ゾロは最後のなけなしの反抗に溜め息をひとつついてから、ゆっくりと示されたほうを見た。

 ダンスホールは相変わらず赤と白と闇に染められていた。人の姿も倍近く増えた、その隙間に隠れるように、サンジと知らない女が壁際の椅子に並んで座っていた。

 ニ色の光に交互に照らされながら、楽しそうに話す二人の空気がどこか秘密めいてみえるのは、決してやっかみのせいだけじゃないんだろう。ゾロは顔を歪めて、けれど何も言わずにナミの手を払い除ける。

 

「あらぁ、どうしたのー?いっつもみたいにぶん捕りに行かないのー?」

「…うるせぇ」

 

 わざとらしく節をつけたナミの声に、ゾロはただ目を伏せた。面倒だったからだ。できるもんならやってる、と、言ったら最後すべて説明しなきゃならない。

 家に寄りつかなかった間どこに居たんだ、とサンジに聞いたことがあった。

 サンジはひどく困ったような顔をして、それでも素直に答えてくれた。ほとんど毎晩この場所に来ていた、たまに適当な女を見繕って寝ていたと、聞いて改めてゾロは後悔したのだ。あれだけ徹底したフェミニストに、女を捌け口のように扱わせてしまうほど、追い詰めてしまっていたあの頃の自分に。

 だからこれは、罰だ。

 本当ならすぐにでも取りかえしてしまいたい。けれど、元をただせばこの場所にあの男を追い込んだのは自分で、女に引き合わせてしまったのもだから自分の責任だ。

 その結果として、胸くそ悪いこんな光景を見せられてしまったとしても、責める権利も邪魔をする権利もどこにもない。自分の失敗が招いたことだと、目に焼きつけておくしかないのだ。二度とこんなことがないように。

 

「あっ、ちょっと、ゾロ!」

 

 だからって、見たくないことにかわりはない。力任せに引っ張るナミの手に意地で対抗していたゾロは、それでも少し様子の違う慌てた声にしょうがなく目を向け、そして身動きを忘れた。

 サンジの薄い唇が、女のふっくらした唇に、そっとくちづけるのを見た。

 薄赤い光に照らされた女の頬を、白く神経質そうな、骨ばった指がゆっくりと辿っていく。指は細い首筋を撫でて、華奢な肩をゆるく掴んだ。

 唇が離れる。顔をほんの少しかしげて笑った女に、サンジも目を細めて小さく笑っていた。

 女の両腕がサンジの肩に抱きつくと、まるで待っていたようにサンジの片手が黒く長い髪を撫でた。もう片方で、細い腰を抱く。

 二人の顔が再び近づいていく。女の唇に触れる寸前、サンジは、再び目を細めながらひどく、艶やかに笑った。

 

「…っ」

 

 ゾロはほとんど無意識に立ち上がった。椅子がガタン、と音を立てて倒れそうになったことには気づかなかった。どうやって歩いているのかもわからないまま二人に近づいていく。

 なにかがどくん、どくん、とうるさく鳴っていた。距離を半分縮めてから初めて、それが自分の心臓の音だと気づく。

 息がうまくはけないのは体中の熱が何倍にも膨れ上がった気がするからだ。でもこれは、怒りのせいじゃない。苛立ちでも悔しさのせいでもない。

 もうあと一歩手前まで迫ったとき、サンジが我に返ったような顔でゾロを見た。

 なにか呟いたはずのその声は、スピーカーの音にかき消されて聞こえない。けれどゾロは唇の動きだけで、自分の名を呼ばれたのがわかった。つま先から、ぶわぁっ、と震えが駆け抜けた。

 

———まただ

 

なにか言いたげなサンジの腕を強く掴みあげながら、ゾロは音がなりそうなほど歯を噛み締めた。

 まただ。また、この男を傷つけるまで気づくことができなかった。 なんて馬鹿なんだろう。同じ失敗を二度も繰り返すなんて。どうして今まで気づけなかったんだろう。こんなに簡単なことなのに。

 ゆるやかに動く骨張った指に、噛みついてやりたいと思った。

 薄く開いた唇を、こじあけて舐めつくしてやりたいと思った。浮かべられた笑みを、もっといやらしく歪めてやりたいと思った。音にならずに呼ばれた名前を、溶けてしまいそうなほど甘く音にしてほしいと思った。簡単なことだ。

 こんなに簡単に、この男に欲情してしまえる自分がいる。

 

「っちょっと、」

 

 サンジを力ずくで立たせて連れ去ろうとするゾロの腕を、女の細い指が掴んだ。

 長い爪が皮膚にかすかに食い込む感触に、体中を寒気が走った。空いたほうの手で乱暴に振り払う。

 

「ゾロっ、」

 

 ああ、そういうことか。背後で縋るように呼ばれた名前に気づかないふりをして、ゾロは酷薄に笑った。

 サンジへの強すぎる執着を、持て余している自覚はあった。

 目の届くところにいないと落ち着かない。他の誰かの前で無防備に笑ったり泣いたりしているかもしれないからだ。でもそれはまだ我慢できる。滅多なことで他人の前で泣く男じゃないと知っているし、この男の笑顔を想って嬉しくなれる自分もいるからだ。

 けれど、女だけは別だ。女に甘い顔をするこの男を見る度に、いちいち苛立つ。

 相手は根っからの女好きだ。そのたびに感情を左右されたら疲れるだけだとわかっているのに、現実に目の前にした途端、そんな理性は簡単に突き破られてしまう。この男に触っていいのは自分だけだと、頭の中を一瞬で埋め尽くしてしまうその執着がなにより強いのは、きっと、恐怖のせいだろう。

 女には勝てないからだ。女だけが持てる柔らかさや包むような優しさを、この男が望んだら最後だ。どうあがいたって自分には手に入らないものばかりだ。

 切り離してしまいたかった。自分にはないそんなものをこの男に思い出させないために。自分にとって女は、存在自体が脅威で、忌むべきもので、それが、いつのまにか。

 人の波を押し分けて、ゾロは出口の重い鉄の扉を押し開けた。途端、目の前を覆った蛍光灯のまぶしさに眼を細める。

 細い通路には、酒の瓶や吸い殻や酔っ払いがそこらじゅうに転がっていた。通り道を邪魔するそんなものたちをたまに蹴り飛ばしたり踏みつけたりしながら、ゾロは何も言わずに歩く。

 背後で何度も名前を呼ばれた気がした。ゾロは振り向く代わりに、サンジの腕を跡が残りそうなほど強く掴み返す。言ってやろうかと思った。言ったら、この男はどんな顔をするんだろう。

 お前を奪い取ろうとする女たちへの憎しみが、今では触られて寒気がするほどにまで育ったんだと。

 だからもう、俺に触っていいのは、お前だけなんだと。

 

 

 




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