コンクリートの階段を一段とばしで駆け上がっていく。
壁も床も天井もコンクリートだ。窓も明かりもどこにもない。聞こえるのは自分の足音と少し荒い息、ランドセルが肩から浮きあがるたびに中で飛び跳ねるペンケースの音。空調もなく、夏なのに、朝というだけで産毛が逆立つくらい空気が冷えているのは、生き物の気配がないせいだ、と、理解はできなくても感じることはできる。だから怖くなる。階段を登るスピードを上げる。
二階ぶんをのぼりきったところであいかわらず、右にも左にも同じ色と形をしたドアがどこまでも並んでいるけれど、間違えたりしない。ハァハァとうるさい息をおさえつける暇も惜しんでチャイムを鳴らす。
ドアの向こうからしわがれた声がした。遅れてはじまる引きずった足音は、背中にはりつく薄気味悪いしずけさから逃げのびる唯一の手段だ。なのに近づくそのスピードはあまりに緩慢でもどかしい。
そしてドアが開く。出てきたおじいさんの腹の横を前のめりにすり抜けて、背中で受けた朝のあいさつにあいさつで返すころにはもう、立ちはだかるチョコレート色のドアは開けてしまった後だ。目の前には閉め切ったカーテンの隙間から、はみだしたまだらな光と、散りきらないたばこの煙に囲まれて、ベッドがある。ベッドのうえにはふっくらした掛け布団があって、その下に金色があって、その金色にむかって、大きな声で名前を呼ぶのだ。
それは一回で済むこともあるし、何回も必要なこともあるけれど、だるそうで乾いた声にあわせて、少しずつ開いていくまぶたから、青いガラス玉がのぞいて、それが自分に向くまでの、落ち着かない気持ちはいつもおなじだ。

「サンジ!がっこういくじかんだ!」

せっかく見えたガラス玉が、ふたたび重たいまぶたに隠されてしまうのはよくあることだ。
さらにその上から厳重に布団でくるまれる、なんてことになるまえに、ひっぺがしてやるのも忘れちゃいけない。駄菓子屋のぐるぐるキャンディみたいな眉毛がハの字になって、ガラス玉が床に放り投げられた布団をものほしそうに見て、それからようやくこっちを向くまで、待ってやるのも仕事のひとつといっていい。

「おきろサンジ!これいじょうちこくしたらトイレそうじさせられるって、おまえいやがってたじゃねーか!」
「うー…」

それでもまだ起きないなら、ベッドのうえに飛びのって両腕を無理矢理引っ張り上げてやらなきゃならない。
重さも長さも自分の倍はある体をベッドの海から救い出すのは重労働で、だからってこいつの未来はすべて自分にかかってるんだと思えば諦めるわけにもいかない。腰から下と上で直角を完成させて、ベッドから飛び降りて、直角がふたたび平行に戻る隙をあたえる前に見守る体制を整える。要求されるのは、スピードと、非情さだ。
後ろ頭でぴょんぴょん跳ねる寝癖をかき回したり、大あくびしながら、サンジがベッドの外に足を投げ出すのを確認したら、ようやく一安心だ。

「あークソねみー…」
「夜遊びしくさるてめぇが悪いんだろうが」

ここでおじいさんの出番だ。仕事の行きがけに顔を出すおじいさんの片手にはいつも茶色い皮のかばんがあって、中身は知らない。知らないけれど、長くて真っ白なコック帽がおりたたんで詰め込まれてるのだけは知っている。

「うっせぇよジジィ」
「おっさんいってらっしゃい!」
「おうよ」

もう片方の手にはたまに、今日のおやつにしろといってできたてのクッキーや小さなケーキの入った袋が握られていることもあった。ない日はごつごつした重たい手で頭を撫でてくれる。それから迫力のある顔でニィっと笑いかけてくれて、サンジをひと睨みしながら部屋を出るおじいさんの、引きずる足音が玄関の前でとまったらそれが、サンジの立ち上がる合図だ。

「ガッコーかーめんどくせぇなー」
「サンジはがっこうきらいなのか?」
「きらいじゃねぇけどよ、なくても別にこまんねぇな」

サンジが着ていたTシャツを脱ぐ。目の前に飛び込んできた背中も首筋も、タンスの扉を開ける手も、取り出したワイシャツに負けないくらい真っ白で、ついじっと見つめてしまうことは、サンジには秘密だ。
いつもさわってみたいとおもうけれど、さわるためには背伸びしなきゃならない。自分がちびだと認めるその行為が悔しさを伴うのは経験済みだ。だから結局ランドセルのつるつるした肩ひもを握るだけで終わることも、もちろんサンジには秘密だ。

「よあそびならすきなのか?」
「おまえ意味分かって言ってんのか?」
「しってるぞ、おれ。よるおそくまでさけのむことだろ?とうちゃんもよくよっぱらってかえってきて、かあちゃんに『またよあそびして!』っておこられるんだ」
「おまえのとうちゃん酒飲みだもんなー」

まだ乾いたままの声で笑いながら、サンジが学ランの袖をとおしたら、最後の仕事だ。
たくさんある毎朝のサンジのための仕事のなかで、それはただひとつ、自分のための仕事、うまくいく朝といかない朝がある難しい仕事。

「なぁ、サンジもよあそびすきなのか?そんなにたのしいのか?」
「まぁな、少なくとも朝早く起きてガッコー行くよりは好きだな」
「じゃあおれもいく!」
「十年はえーよタコ」

十年経ったら。十年後には。
それは未来への確約だった。サンジと同じだけ背がのびて、サンジと同じ高校に行って、サンジと同じタバコを吸って、サンジと街をぶらついて、サンジと一緒に夜遊びができて、あとはなにができるだろう。その言葉をサンジが積みあげて、積みあげ続けてくれれば十年後には、なんだってできる、どこにでもいける、いつでも誰よりも、サンジと一緒にいることができる完璧な自分が手に入ると、あのころは信じていた。
信じるのをやめたのは、いつからだったろう。





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「わりぃけど、好きなやついるんだ」

うつむいた女はうつむいたまま少しだけ頭を下げた。黒い髪の半分が日の光を跳ね返して、残り半分は植え込みの木がつくる日陰にうもれていた。どっち側も金色には光らなかった。
かすんだ声が失礼します、とささやくのが聞こえた。最後まで顔を上げないまま早足で離れていく女の背中を、夏のうっとうしい日差しが追いかける。追いつかれた細い手足は、白くはあっても骨っぽくはなかった。
一年下の部活の後輩だ。明日から部室で顔を合わせるたびに気まずくなるだろう。めんどくせぇな、とおもいながら、そんなリスクを払ってでも好きだと言った女のことを、うらやましいと思う自分がいた。俺にできることといったら、女があいつじゃないことを無意識に確認してがっかりすることくらいだ。ばかみてぇ。
地面に置いてあったかばんを拾い上げた。カラカラに乾いた土がかばんの底から細かく散って落ちるのを、見えなくなるまでぼうっと見守った。
家に帰るのがゆううつだった。少しでもたどり着くのを遅らせたいと、おもうくせして今日も母親が居ないことをしっかりと思い出すのは、あいつがうちに飯を作りにくるかもしれない夕方を期待してるからだ。矛盾してる。どこに居たところで結局ゆううつなのにかわりはねぇじゃねぇかと、今日も諦めて足を踏み出す。
校門を抜けたら最後、伸びる道はどこまでも舗装されたアスファルトとブロック塀だった。 陰をつくってくれるような障害物はなにもない。湿っぽい熱にじかに焼かれた額から、首筋にむかって新しい汗がつたい落ちる。はりつくシャツの袖はこれ以上まくりようがなかった。いっそ上半身裸になれればいいのにとおもう。
なぐさめ程度にボタンをもうひとつはずしながら、さっさとあんな男やめちまえ、と、ダラダラと規則正しく前に出るスニーカーのつまさきに向かって言い聞かせるのは、ダメもとだ。
バカで軽くて女好きでおっさんで、なんて、次々に挙がる理由はわかりすぎてどうでもよくなってきたことばかりのくせに、諦められない理由はいまだに成長期ときてる。それも思い立ったら最後罪悪感にまみれるようなやましいことばかりだと、自覚できるだけ少しはかしこくなったのかもしれない。白い背中や首筋に触ってみたいと、自覚もないまま興奮してたガキのころにくらべたら。
どんづまりのブロック塀を右に曲がる。目の前には明かりのつかない豆電球に縁取られた商店街のアーチが、今日も変わらず錆びついている。
そのさきに広がるのはオバサンとバァサンとジジィとガキの見本市だ。魚やら果物やらの生臭さと金物やら三足千円の靴下が群がるワゴンのホコリっぽさに、巻き込まれなきゃ帰れないのにはもう慣れた。けれど、あいつがいるはずの店の前を通りすぎる瞬間には、いつまでも慣れないままだ。
居るかもしれない。居ないかもしれない。気づくかもしれない。気づかないかもしれない。気づいてほしい。気づかないでほしい。
どれを願っててどれを避けたいのか、通り過ぎる間に答えが出たことはない。もしこんなふうに声をかけられたらこうやって返事をしよう、そしたら冷静に見えるだろうと、何通りも準備するのに夢中だったと、気づくのはいつも通り過ぎたあとだ。なんだ、結局会いたいんじゃねぇかと、そこではじめて気がついて、またゆううつになる。背中から呼び止められるかもしれない可能性を捨てきれずにわざとだるそうに、気にもしてないふうに地面を眺めながら歩く自分には、ゆううつを通り越して笑いたくなる。どんなにシュミレーションしたところで、実際に声をかけられたらテンパって気づかないフリで逃げ出すだけのくせに。
羞恥心とみじめさに腹を立てながら、それでも、明日こそうまくいくかもしれない、と、期待するのを、やめれるもんならとっくの昔にあの男のことなんて諦められてるんだろう。

「おーい、まりもちゃーん」

店を通り過ぎてから数十歩、今日はもう会わないだろうと安心しながらがっかりしてた最中に、ふざけた声がしたのは背中からじゃなく正面からだった。
まっしぐらにヤツを見つけた俺の顔はきっと、鈴の音だけでよだれを垂らすバカな犬に負けじと物欲しげだったろう。逆光だったのがせめてもの救いだ。太陽を背負って近づいてくるヤツの金髪に、目を細めるふりでごまかせる。
前からなんて反則だよな。準備もなんもあったもんじゃねぇ。俺は地面にはりついたまま動きやしない足の裏を、怠惰な姿勢で取りつくろった。けれど、目の前に立ちふさがった二人の人間の、隙間なくつながれた手に、浮きあがって騒ぐ心臓を止めることはできなかった。
女連れなのは、もっと反則だ。

「今日部活だよな?帰ってくんの早くねぇか?」
「顧問が急に休んで部室開けてもらえなかったんだよ」

へらへら笑うヤツの口にタバコがはさまってないのは、女がいるからだろう。いつもそうだ。かっこつけやがって。
横目で女を見たら、女はツヤツヤの唇を引き上げて愛想良く微笑んでみせた。手は、相変わらずつないだままだった。
俺は、居ることを忘れてやりたいとおもう自分をおさえつけた証に、ほんの一センチくらい頭を下げた。

「アンタこそ、店は?」
「おれは今日非番」
「いつもと曜日ちがくねぇか?」
「休み代わってくれって言われてさ」

ねぇ、と、女が小さな声をあげてサンジを見上げて、それからわざとらしいさりげなさで俺を見た。
キツい顔のお姉系美人。相変わらず分かりやすい趣味しやがって。どうせまた二股かけられて終わりじゃねぇか。こんな、男の俺にまで自分のもんだって見せつけるような独占欲強い女が、女ってだけで優しさ全開のこいつ相手に長続きするわけがねぇ。
なんて、洞察力の仮面をかぶった自分への慰めに、どうせバレねぇんだったら妬むくらい許されるだろうと、思えるようになるくらい、同じことを繰り返してきた過去がある。
サンジは、女に向かって笑いかけながら、俺を指差して言った。

「これ、ゾロっつって、おれの舎弟」
「一人でテレビの録画もできねぇダメ人間の舎弟になった覚えはねぇな」
「あ、テメ、言うなよそれは」

ハの字になった駄菓子屋眉毛は、あのころとすこしも変わらなくて、自然に笑みが浮かんだ。けれど、同意を示すように女が俺にむかって笑いかけてみせた瞬間、俺の笑みはただの見せかけの笑みに成り代わる。

「機械オンチが理由で振られねぇようにしろよ」
「うっせぇハゲ」
「ははっ、じゃあな」

わざとらしい笑い声に、自分でうんざりした。俺は二人の横を通り抜けて歩きだした。あくまでだるそうに。
商店街を抜けると、人の気配が一気になくなった。景色はまたアスファルトとブロック塀に舞い戻った。俺は歩く速度をあげた。はりついた笑顔をひっぺがした。あとには、ぶつける場所のない腹立ちと悔しさだけが残った。
十年経った。サンジの背は追い越して、高校はもうすぐ卒業する。
タバコはそんなに好きじゃないし、夜遊びはタダ酒を飲めるときだけ。街をぶらつくよりは家で寝てるほうがいい。
サンジからもらった確約はすべて果たされた。挙げ句、手に入れたのは、どうして俺が笑ったかなんてわかりもしない、あいつの過去なんてなにも知らない、あいつがどれだけお人好しで、どれだけバカで、どんなときに泣いて、どんなときに怒って、そのあとどうやって笑い飛ばすか見たこともない、あいつの見せたがらないかっこ悪いあいつを知りもしないで、すべてを知ったような顔して隣で笑ってられる女を、押しのけることも、鼻で笑ってやることもできない、背中を向けて逃げ出すことしかできない惨めな現実だけだ。
その場で一度、立ち止まってみた。照りつける太陽の熱と、流れる汗を自覚する。スピードを落としてまた歩きだす。
十年経って、完璧な自分なんてどこにもいないことを知った。誰よりも一緒にいられるのは俺じゃないことも知った。
この想いから逃げ切るには、あとどれくらい、待てばいいんだろう。







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