からだのなかから消えていった熱と入れ替わりで取り戻した理性が、最初に訴えたのは沈み込むような倦怠感だった。

「ねみーか?」

ぴったりと重なった彼の体温と、それから汗とキスと指先でできた言葉もない触れ合いの心地よさで、身動きする気もおきないからだをさんざん甘やかしてくれた結末に、彼が笑う。
取り戻したばかりの規則正しい呼吸に裏打ちされた彼の声は、ひどく機嫌がよさそうだった。けれどその意味を考えるどころか返事をする余裕もなかった。

「ん」

言葉の代わりに、ため息なのかただの音なのかもわからない声が出る。彼はまたふ、と密やかに笑うと、汗で濡れた髪をまるで気にしない荒っぽさで頭を撫でてくれる手を置き土産に、からだを起こした。とたんに冷えていく温度に寒いと、おもう前に掛け布団を勢いよくかぶせられる。ふたりぶんの体温が染みついたシーツと、外気のままに冷えたふとんカバーで挟み撃ちにされて、暖かいのか寒いのかよくわからなくなったけれど、彼がどこかに行こうとしてるのだけはわかった。

「風呂入れてきてやるよ。寝てていいぜ。そのまま連れてっから」

別に入らねェでもいいのに。言うだけ言ってさっさと遠くなっていくむきだしの背中を、けれど引き止めるだけの言葉もやっぱり音にはできなかった。
首まで被っていた布団を顔半分が隠れるくらいまでさらに引き上げる。彼の気配がした。いつものタバコのにおいに、シャンプーだとか香水だとかのにおいは混じっていない。かすかに感じる湿っぽさはきっと、さっきまでの二人ぶんの汗だろう。自分が彼を感じるこの場所に、少しは自分の気配も染み込んだんだろうか。染み込めばいいとおもった。誰も邪魔できないくらい、彼に自分が染み込んでしまえばいい。
重たいまぶたに促されるまま目を閉じる。真っ暗闇の、音のない、彼の気配だけがある世界に、ひどくさみしくなった。手を伸ばさなくても彼の体温をもらうことができた世界が、恋しくて、気だるいのに眠れなかった。
耐えきれずに目を開ける。ゆっくりとからだを起こした拍子に、ずり下がった布団のしたからむき出しの胸が見えて、肌寒いのに顔だけ熱くなった。腰から下の鈍い感覚を急に自覚して、恐る恐る、全身が見て取れるくらいまで布団をよけたら、白いシーツと、それから足のあいだに、赤いものを見つけた。からだのだるさに任せてうやむやにしていた感情が、そのときいきなり溢れだした。
だからあいつ風呂入れっつったのか。はじめて見たそれをじぃっと眺めながら、なにをしてされたのか、バラバラに頭のなかを駆け巡りはじめた記憶に、気まずいのか恥ずかしいのかそれとも両方なのか、もうなにをおもえばいいのかもわからない時間を過ごしたのは、けれどほんの少しの間だった。足をそっとベッドのうえにすべらせて、床に落とす。
散らばった服の、どれを着ていこうか迷った挙げ句、ニットだけを拾って頭からかぶった。ショーツも拾いかけたけれど、いま穿いたら汚れそうだとおもってやめた。家に帰るまでは着替えがないのだ。もう一度身につけなきゃならないのならなるべくきれいなままにしておきたい。代わりに、ロングニットを限界まで伸ばして太ももの半分まで隠した。
ようすを見ながら立ち上がったら、少しだけふらついたけれど、歩けないほどじゃなかった。それにホッとして、ちいさくため息を吐いた。一歩を踏み出す。なにをおもえばいいのかはわからない。けれど、変えられてしまった、それだけは確かだ。彼の肌と、汗と、欲と、熱を知ったら最後、ほんのわずかな時間置いていかれただけでも、こんなに人肌が恋しくなってしまうように自分を変えた彼に、だから責任を持って甘やかしてもらわなきゃならない。
脱衣所のドアを開けたとほぼ同時に、バスタオル片手に振り返った彼は、くいっと片方の眉を上げて顔をしかめてみせた。

「おっまえ、なんつーカッコしてんだ」

風邪ひくだろォが。持ってたバスタオルでくるんでくれながらそう言った彼はすでにTシャツを着込んでいた。広いベッドルームにはちいさな電球ひとつぶんしか明かりがなかったのに、いまいる狭いこの空間は真っ白な蛍光灯で輝いていて、目の奥が痛くなった。目を伏せた、その拍子にふらついたからだを抱きとめられる。直接は触れなくなった体温に物足りなさを感じた。補うようにぴったりとからだを引き寄せれば、彼が喉を鳴らして笑うのがわかった。

「ンだよ、さみしくなったかァ?」
「…なった」

久しぶりに出した声は掠れていて、それが、意識はしてなかったはずなのにいやに甘えて聞こえた。そーか、と呟きながらまた彼が笑う。その、変わらず機嫌のよさそうな声の理由が、分かった気がした。やたらと世話を焼きたがるときの兄の声と一緒だ。甘やかしたがってるんだろう。だったらいまの自分は、なにをしたって彼の望みどおりに違いない。
ドア一枚を境に、流れる水の音は重たかった。もうだいぶ溜まってるんだろうと、ぼんやりとおもった心を読むように、彼が片手だけ伸ばしてその境界線を解放した。漂いはじめる湿った温い熱に、からだのちからが吸い取られていく気がした。

「ほら、服脱げ」

当たり前のようにニットの裾を掴んだ彼に、ほとんど条件反射で両腕を持ち上げる。勢いよく抜き取られたあとに自分が裸なんだと、あらためて思い出したら少しだけ顔が火照ったけれど、やっぱり当たり前の顔で抱き上げようとする彼を見たら、気にするだけ無駄だとおもえた。彼の家に来たときと同じように担がれたからだが、浴槽のなかに降ろされる。
ふわふわと揺れる温かさに誘われるまま落ちかけたまぶたは、ぺちんと頬を叩く彼の手に食い止められた。

「ここでは寝んなよ。さすがに」

苦笑いを浮かべながら彼が、濡れるのも気にせずタイルにあぐらをかく。

「…晋助は?」
「あ?」
「入んねェの?」

ぜってー一緒に入るとかいうとおもってた。バスタブのふちに、彼に近づくようにもたれかかりながらうわごとじみた声でそう言ったら、彼は、苦笑いを少し違う苦笑いに変えた。コレ、と言って彼が指差してみせたのは、彼の眼帯だった。

「はずさねーとなんねェしな。あんま見て気分イイようなモンでもねェからやめとけ」
「…やだ」

単純に、見てみたかったのはほんとうだ。
出会ってからいままで、それこそセックスのときだってはずさなかった白い布の下に、何が隠されてるのか興味があったと同時に、知らないことが悔しかった。彼のその、隠されてることが一目でわかるものに、興味を持った人間は自分だけじゃないはずだ。そしてなかには、見ることを彼に許された人間もいるに違いない。いまだって彼は、見ちゃいけないと言ったわけではないのだ。このまま見たいと言い続けたら見せてくれるだろう。
彼について知らないことはたくさんある。彼だって自分について知らないことはたくさんある。知らないまま終わることも、きっとたくさんある。だからって、自分じゃない誰かが知っている彼のことを自分が知らないのは悔しい。

「見ちゃダメってわけじゃねェんだろ?だったら見てェ」
「…いいけどよ」

引くなよ。ただでさえ音のこもる部屋に余計こもるような声で呟きながら、彼が眼帯をはずした、そのさきに、眼はなかった。まぶたもなかった。縫いつけたかすかな跡を残してぴったりと閉じていた。あるのはただ、縦や斜めに走るいくつかの傷跡と、それを無理やりおおいつぶすように彫られた黒い文字だった。
言葉も忘れて見入っていたら、彼のため息をつく音が聞こえた。

「だから言った、」
「それ、」
「ぁあ?」
「その文字。なんて書いてあんだ?」

彼は一瞬惚けたような顔をしてみせた。
ヘンなやつ、とそのあとに呟いた彼の顔は、けれど今度は苦笑いじゃなかった。純粋に楽しげだった。

「梵字って知ってっか?」
「知らねェ」
「だろーな。正直俺もよく知らねェんだけどよ、まァ簡単に言やァ、すげェ昔のインドの仏教の言葉を中国経由で無理やり漢字っぽくしたモンだな。意味は、増長天」
「…ぞうちょうてん?」
「仏教に出てくる四天王のひとり。で…鬼共の総大将」

ふざけてるよなァ。そう言って笑った彼の目は、どこか懐かしそうに細められていた。

「オマエくれェの年んときゃ、調子こいてケンカばっかしてたんだよ。そしたらちっとしくじっちまってなァ。目ェイカれて、どーせ使えねェなら墨でも入れっかっつって」
「今日店に居たヤツらも、そんときの仲間か?」
「あー…仲間っつうか、後輩か?」
「学校の?」
「いや、俺がつくったケンカチーム。つっても、アイツらが勝手に続けてんだけどな。資金援助してやるかわりに、今日みてェに人手欲しいときゃ使わしてもらってる」

便利だろ。なんて、なんでもないような声でそう言った彼に、返す言葉が思いつかなかった。
もしかして俺、とんでもねェヤツと付き合ってんじゃねェかな。後悔するつもりはないけれど想像を越えていたのも確かで、連れていかれたふたりをおもっておもわずひそめてしまった顔を、彼は見ていたようだった。ぐしゃぐしゃと髪をかきまぜてきながら彼は、目を細めた。

「心配しねェでも、あのオンナどもにゃ手ェ出さねェように言ってある」

一晩吊るし上げとくだけだ、と、笑った彼の目はけれど笑ってはいなかった。それでもなにも言えなかった。彼の味方でいたいとおもったのは自分自身だ。いまさらそれを変える気はないけれど、他人にとっても彼にとっても、危ないことをしてほしくないとおもう気持ちもあった。
ふたつのそんな真逆の気持ちを、同時に伝える言葉なんておもいつかなくて、もやつく感情を追い散らすことに専念していたところで、彼が立ち上がった。勢いよくTシャツを脱ぎ去る。開けっ放しだったドアの向こうに放り投げるのを見て、一緒に入るつもりなんだとわかったと同時に、目を伏せた。彼が女のからだを当たり前に受け止めるのと同じ調子で、男のからだを受け止められる自信はまだなかった。
伏せた視界のさきに、彼のむきだしの足が見えた。ちいさな波音とともに反対の端に沈み込んだ彼のからだと、たいして広くもない浴槽のなかでは、触れないわけにはいかなかった。
なんで俺、一緒に入るとか言っちまったんだろ。窮屈そうに伸びた彼の足に、自分の足が水の膜をへだてて絡み合う光景と、その感触が妙にやらしくおもえて、湯のせいだけじゃなく顔が火照ったときだった。急に引っ張られたからだが、派手な水音とともに彼のからだに倒れ込んだ。

「なにいまさら照れてんだァ?」

彼の膝のあいだに正座することになってしまったからだは、彼の顔をほんのすこし見下ろすくらいの高さを持っていて、はじめてのその光景と、彼の三日月型に細められた目と、それから言葉に、素直にとまどってやるのは悔しかった。なにか仕返ししてやる方法はないだろうかと考えたさきに、見つけたのは決して開くことのないあの目だった。
ほとんど衝動でそこにくちづけたら彼は、少し驚いた顔をして、それから、いままで見たことがないくらい無邪気に笑った。

「これ見て引かねェオンナ、オマエがはじめてだよ」
「…キスしたのも?」
「作り笑いで精一杯だっつうの」

くちづけた場所と同じ場所をくちづけ返しながら、子供みたいな顔で笑う彼に負けないくらい笑ってしまったのは、嬉しかったからだ。はじめてをもらったことが嬉しかったし、ほとんど人目に出ない場所なのも嬉しかった。こうなったらもう、このさきずっと、完全に自分だけのものにしてしまいたい。

「それ、もう他のヤツに見せちゃダメな」
「…あ?ンだよいきな、」

彼の言葉をさえぎってもう一度そこにくちづけたら、彼は、わずかに戸惑ったような顔をしてみせた。またはじめてだとおもった。戸惑った顔だとか、子供みたいな笑顔だとか、秘密の場所へのくちづけだとか、自分にとって、あるいは彼にとってもはじめてなものをたくさんくれた彼は、他にどんなはじめてを隠してるんだろう。そういうものを全部集めていけたらいい。

「俺のモンだから」

だからもう、他のやつに見せちゃダメな。勝手に溢れてくるままの笑みに合わせて、繰り返し言った彼女に、声を出して笑った彼は、やっぱり子供みたいだった。


end.


ケンカチームはもちろん鬼兵隊。四天王はアレだよ。JOYだよ。
気がついたらいろんなはじめて話になったっつーかなんつーか。ね。
タイトルをウルフルズ縛りにしたくて適当につけたら、意外に合っちゃったってゆう。ね。
いままででもっともはずかしー作文でした。そしてやりたい放題。
女の子ひじかたくんのかわいさと、それにべた惚れのたかすぎが伝わってくれれば
幸せです。

「ぼくのもの」:byウルフルズ


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