抱き上げるときは乱暴だったくせに、ベッドに降ろす彼の腕はひどく慎重だった。
明かりのひとつもない闇に、慣れる間もなく彼のからだが離れていく。なにも見えない、ぬくもりもない、ただ冷えたシーツの感触だけに置き去りにされるのが怖かった。手さぐりで彼の首すじにすがりついた。
顔をうずめた肩は骨っぽくて、彼のタバコのにおいがした。頭のうしろを包むように撫でてくれる手のかたちと暖かさも、覚えた彼のものと同じだったけれど、それでも怖かった。
ゆっくりとのしかかってくる男の重みに、半端に浮いていた背中がベッドに押しつけられて、からだが震え出す。かんじるものはすべて彼のものだ。でも、もし彼じゃなかったら。ぼやけた輪郭しかわからない目の前の誰かの顔が、もし彼じゃない誰かだったら。

「っしんすけ、」

彼女は助けを求めて必死で彼を呼んだ。はやく顔を見せて、それから声を聞かせてほしい。じゃないと、あっという間に過去に引きずり込まれそうだ。

「今さらやめろったってやめねェぜ?」
「…顔、見えねェのやだ」

怖ェんだ、と、ほとんど消えそうになった声を合図に、のしかかる重さが薄れていく。
それを取り戻したくてほとんど無意識にすがる両腕に力をこめたら、彼の笑う気配がした。

「ンなくっつかれたら動けねェよ」
「だって、」
「すぐ戻ってくっから。な?」

額と額がくっつくほど、男の顔が近づく。それでようやく確かめることのできた彼の目は穏やかで、ほんの少しだけ怖さを忘れた。一瞬だけ触れた彼のくちびるを支えにおそるおそる彼のからだを解放したら、彼はもう一度キスをくれて、それから彼女にかける重みを消した。
離れていく彼の影を追いかけるために上半身をおこしたところで、パチ、と硬い音がして、とたん、頭のうえから降ってきたミニチュアのスポットライトみたいな黄色いちいさな光に、細めた目は、それでも彼のすがたを確実に捕まえることができた。
彼が近づいてくる。ベッドのかすかに軋む音とともに目の前に座り込んだ彼の、ゆるく膝を曲げた両足の間に引き寄せられる。どこか意地悪げな、それでいて優しい笑みを浮かべてくれた彼がなんだか誇らしかった。ほらみろ。彼の首に、ふたたび両腕をまわしながら彼女は、自分に向かって呼びかけた。
彼がいれば、やっぱりなにも怖くなんかないのだ。

「っん、」

くちびるが重なる。触れるだけのキスをくりかえすたび、彼のくちびるから、ふ、とため息みたいな吐息が漏れるのを聞いて、頭がぼんやりとした熱っぽさにつつまれる。
鋭い彼の瞳を隠すまぶたに誘われるまま、目を閉じてしまいたかったけれど、彼を見失ったらまた怖くなってしまいそうでできなかった。代わりに近過ぎて焦点の合わない視界が、彼のまつげが不揃いなことや、それがぱさぱさと震える光景を教えてくれた。夢中でそれを記憶にとどめていたら、抱きついていた腕をゆっくり取り払われた。コートのボタンがぜんぶ外されていたのをそのときはじめて知って、急に、恥ずかしくなった。これからすることがひどくリアルになった。
キスの合間に、コートの袖が片方ずつ抜かれていく。硬い布が滑っていくごとに心臓がうるさくなる。それをごまかしたくて、床のうえに落ちる布の音と入れ替えに焦って彼の首に抱きついたら、彼のくちびるが笑みをつくった。そして、くちびるのあいだを催促するように舐められた。

「ふ、ぅ」

そっとくちびるに隙間をつくって、彼の舌を受け入れたら、まるで褒めてくれるみたいに頭を撫でられた。指先が、髪を梳きながら首すじをたどっていく。くちのなかを優しく舐めつくすやわらかいぬめりに、やっぱりからだは震えだした。

「ンふっ」

背中と首の境目を、つう、とたどられて、肩が跳ねた。それをなだめるように同じ手が肩から腕を撫でると、そのまま脇腹をとおって腰のほうへ降りていく。もう片方の手も反対側で同じように動きだして、足の付け根まで降りてきたところで、そこにあったセーターの裾から両方ともが入りこんだ。
腕に引っかかるままたくしあげて、キャミソールのなかまでその手は潜んでいく。

「ふぅ、っぅ」

はじめて知ったじかに肌に触れる彼の大きな手の感触に、一気に顔が熱くなった。
自分のからだが、キスで震えてるのかそれとも恥ずかしくて震えてるのかなんてもうわからなかった。ただ彼にすがりつくことしかできない。からだのラインを確かめるように、すべっていく彼の指先はくちびると同じようにすこしかさついていて、そしてやっぱり暖かくて、それに撫でられるのが気持ちいいのはほんとうで、けれどその手が、どんどんからだの上のほうまで侵入してくるのもほんとうだった。
どうしよう、とどうすることもできないのはわかってるのに焦っていたら、彼の両手が背中にまわった。
ブラジャーのホックを外された瞬間、彼女は咄嗟に自分からくちびるを離した。

「…ンな泣きそーな顔すんなよ」

いじめてるみてェじゃねェか。苦笑いでそう呟きながら、彼がもぐっていた手を抜き取った。あらわれた手で背中と頭を撫でられて、まぶたにくちづけられたら、ホッとすると同時にそんな自分が嫌だともおもった。いままで彼と付き合った女たちならきっと、彼にこんな顔させなかったんだろう。あたりまえのように彼の手を受け入れることができたんだろう。なのに自分は彼のことを手間取らせてばっかりだ。
他の女になんか負けたくないのに、彼を捕られたくないのに。こんなにめんどくさい子供じゃダメなのに。

「ごめん」

彼女ははじめて彼から目を伏せた。

「めんどくせェ、よな、俺。けど、」

嫌なわけじゃ、と言いかけて上げた視線が、見つけたのはハァ、と彼がひどく深いため息を吐く場面だった。
どうしよう、やっぱり飽きれてんだ。今度はどんなことされてもいやがんねェようにしなきゃ。
強い決心にくちびるを噛み締めながら見た彼の顔は想像どおり飽きれていて、言われたとおり泣きそうになった。

「オマエな、俺がどんだけガマンしてたか知らねェだろ」
「…ごめん」
「謝るとこじゃねェよアホ」

パチン、と頬をはじいた手は、ほんのすこしも痛くなかった。

「オマエが天然記念物なみにオトコ慣れしてねーことくれェ端から了解ずみなんだよ。そんでも、俺にはそーゆうとこもかわいくてしょうがねェんだ。慣れねェガマンしちまうくれェにはな」

フ、と笑みこぼれた彼の目は、今まででいちばん優しかった。
しんすけ、と理由もなくただささやいてしまった声に、彼はかすめるようなキスで答えてくれる。

「いざヤろうってなったとたんいきなりテメェから喜んで股開くようなヤリマンに変身されてみろ。本気でヘコむぜ俺ァ」

彼は笑みをつくった顔のまま、困ったように眉をハの字にしてみせた。言葉の汚さに反してそれは、なんだかひどく幼く見えて、つられて笑ってしまったら、彼が、両腕を優しく掴んだ。
からだを引き寄せられる。近づいた顔に、今度は自分からキスをした。彼はわずかに目を見開いて、それから、嬉しそうに細めた。

「めんどくさくねェと俺が困ンだよ。わかるか?」
「しんすけ、」

聞いてんのかオマエ。そう言った彼の声はどこか拗ねたように聞こえた。もしかして照れてんのかな、とおもったら暖かい気持ちがいよいよふくれあがってどうにもならなくなって、言おうとしてた言葉を続ける前に、おもわず彼にもう一度キスをした。

「すき。しんすけ、だいすき」

一瞬、惚けたような顔をしてみせた彼を、彼女はかわいいとおもった。だからおもったとおりにそう言ったら、彼は、くそ、とちいさく呟いて、彼女の顔を自分の肩に押しつけた。
めんどくさくていいんだ。彼の肩に甘えるみたいに額をすりつけながら、彼女はおもった。いつまでもめんどくさいまま、慣れないまま、彼のくちづけに震えて、彼の手に心臓をうるさくして、からだじゅうを熱くしてもいいんだと、そう言ってもらえることが、彼女にはとても、素晴らしいことにおもえた。
だいすき、とあふれかえった気持ちのままこぼれた彼女の言葉を、知ってる、とぶっきらぼうな声で受け止めた彼の、ほんのすこし赤く染まった頬には、気づかないふりをしておこうとおもった。


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宣言どおりげろ甘です。やりすぎでもいい。もっそい楽しい。
たかすぎはある意味しろうとどーてーといっても過言ではないと
おもうわけなのです。

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