「すごーい!カッコイー!」

さっきから何回目だよそれ。目の前でふたりぶん重なる女たちの声にぶつけてやりたい一言を、彼女は新しくもらったジュースと一緒に飲み込んだ。ちらっとだけ盗み見たふたりのくちびるのほとんど同じ曲線の笑みを作る、同じ色のグロスが、今年の流行色なんだとはさっき聞いたことだ。そしてその色いいな、の一言でそれを聞き出したのは、隣の男だった。
ひとつにまとめた彼女の髪を解き放ちながら、そっちのほうがかわいい、と、言ってくれた声よりはだいぶどうでもよさそうだった、と、わざわざ自分に言い聞かせなきゃならないほど、彼女は彼のその言葉に驚いて、それからくやしかった。低くて優しい彼の声が、声だけじゃない、すこし皮肉げな笑みとか、気だるげにタバコをくわえるしぐさとか、男っぽい繊細さに満ちた指とか、そういうもの全部が、自分以外の誰かに与えられるなんてすごく嫌なのに、彼はさっきから当たり前のようにふたりに向かって差し出しているのだ。
店のドアを開けたふたりは、彼を見て一瞬ひるんだ。まぁ当然だな、とおもった彼女はつぎに、隣でふたりを手招きで呼び寄せながら彼が、笑みを浮かべたのに驚いた。
殺しはしないとささやいたときの、あの酷薄なものじゃない、優しくはないけれど怖くもない笑みに、明らかにほっとした様子でふたりが向かいのソファに身を沈めてから、もう数十分がたつ。自己紹介からはじまって、学校の話だったり彼の店のことだったり、延々続く世間話に彼女はいま疑問を通り越してうんざりしているところだ。
隣では彼が、何杯めかわからない酒を片手に、はずんだ声とそれに見合うしぐさのふたりに引きずられることのない、相変わらずの気だるさと、それから最小限の言葉でふたりとの話を流れさせていた。相づちや新しい話題に、たまに笑みさえ加えるものだから、最初のほうこそ控えめだったふたりも、いまでは教室や飲み会でみせるような気安さだ。仕返しするんじゃなかっただろうか。彼女は腹立ちにまかせてジュースを飲み干す。してほしいわけでは決してないけれど、こんなわけのわからない状態に閉じ込められるよりマシだ。
自分の好きな男が、自分の好きじゃない女たちに愛想よく笑って話してるとこなんて見たくないのに。

「えー?じゃあいっつもおうちでお仕事してるんですかー?」
「ああ。月に何回かは近くの大学病院で働かしてもらってっけどな」

そんなの、俺だって聞いたことねぇのに。ムカつく、とグラスに口をつける拍子につぶやいた声は、予定どおりBGMに吸い込まれた。自分にも教えてくれなかったことを平気で口にする彼にもムカつくけれど、それを当たり前に聞き出したふたりにもムカつく。
女の可愛らしさを意識的に見せられる強さや、きらきらのくちびるや、柔らかそうな曲線や、むらなく染まったふわふわな茶色い髪や、ビーズの散らばったピンク色の爪や、自分にないそういうものなにもかもに、ムカつくくせして憧れるのをやめられない自分が、なによりムカつくのだ。

「あのー」

ふいに、ふたりのうちひとりが言いよどむふりをしてみせた。その思わせぶりな目を、含み笑いで受けとったもうひとりが、彼にうかがうような目で言葉をつなげた。

「オトモダチ紹介してくれるって聞いたんですけどー」

そーいやそんなこと言ったっけ。自分で誘い出したもののすっかり忘れていた彼女は、けれど、灰皿にむかってさりげなく伏せられた彼の顔を、うかがい見た瞬間、いままでの嫌な気持ちがふっとんだ。

「トシ、」

かわりに襲われたのは、知ったばかりの彼への怖さだ。

「また子んとこ行って呼んでこいって言え」

あの酷薄な笑みを浮かべたまま、彼が耳元でささやく。なにも知らずに笑みを向けるふたりを盗み見て、それからもう一度彼を見ても、彼女はどうすればいいのかわからなかった。歯向かうのを許してくれないのはわかる。だからって素直に従っていいんだろうか。
なにか答えがわかる気がして必死で彼を見つめたら、彼は、すこしだけ笑みをやわらげて、それでも、早く行けともう一度ささやくだけだった。彼女は、立ち上がる以外できることが思いつかなかった。
はりつめた気持ちに負けてふらついてしまう足で、カウンターに向かう。並ぶ椅子のひとつをよけて、グラスを拭いている女にできるだけ近づいたら、女は相変わらず無邪気に笑いかけてくれた。彼女は、ささやかだけれど救われた気がした。

「晋助が、呼べって」

ほんとにヤバくなったらきっとこのひとが止めてくれる。そう信じて、短いけれど重たい言葉を音にした彼女が見たのは、大きな目がすうっ、ときれいに細められる瞬間だった。

「トシちゃん、危ないからこっちおいで」

しんすけと、一緒だ。彼女は、彼と違う声で、けれど彼と同じ笑みを浮かべて手招きする女に、身動きを忘れた。
女がカウンターから出て彼女に近づく。腕を優しく掴まれて、逆らえなかった。カウンターのなかに引き込まれる。彼とふたりが変わらず楽しげに話す光景が、目の前にあるのに別世界だった。横で携帯を取り出す女も同じように別世界で、彼女は、自分がひとりきりになった気がした。けれどどうしてそうおもうのかはわからなかった。
突然現れた男たちが彼の背後に並ぶのは彼のグラスが空っぽになるよりもはやかった。
男の数は五人だった。まるで違う服装と髪型に比べて、同じような見た目の年齢は彼より自分のほうが近そうだと、読みとってしまえるくらい目の前の光景は現実味のないものだった。彼女と同じようにただ呆然としていただけのふたりが、ナイロンの白いロープに身動きを奪われたとたん悲鳴を解き放って、それに驚きはしても、本能的な危機感だったり恐怖だったりに怯えることはなかった。逃げだそうともがくふたりが可哀想だとはおもっても、それはやっぱり物語の世界に感じる類いのものと同じだった。現実ではなかった。
隣に居たはずの女はいつの間にか背後に居た。女が彼女の腹と、それから口を両腕の見せかけ程度の力で拘束しながら、ごめんね、とささやいた、その声はやけにはっきりと聞こえた。彼女ははじめてBGMが消えていたことに気がついた。ごめんね、ちょっと苦しいっスよね。でもトシちゃんも被害者に見えた方が都合いいんスよ。あとでチクられて揉めても責められないですむっスから。
ああ、なんだ。彼女はおもった。部外者だからだ。なにもかもが現実じゃないのは、他人事だからだ。自分が薄情なわけでも現実逃避したいわけでもない、関わることをはじめから期待されてないからだ。彼の言う仕返しは自分のための仕返しじゃなく、自分を泣かせたふたりに腹を立てた彼自身のための仕返しで、自分はあくまで観客でしかないんだと、気付いたときにはもう、五人のすがたはもとどおり彼の背後にあった。彼は最初から最後まで気だるく座っているだけだった。
彼女は、女の手を口にあったほうだけそっと振り払った。苦しかった?と優しく聞いてきた女に彼女は、被害者になれなくてもいいと言った。ただの観客でもいいのなら、正論もふたりへの同情も忘れて素直な感情だけに従ってもいいのなら、彼女は、彼の味方でいたかった。
たかが子供の争いに本気で腹を立てて、犯罪者扱いされてもおかしくないリスクを犯すほど彼が、自分にとっての絶対的な味方でいてくれるなら、自分だって彼にとってのそんな存在でいたい。たとえ見せかけでも彼の敵でいたくない、責められたってだからかまわないんだと、音にする前に女は彼女を解放してくれた。ほんとかわいいなぁ、とつぶやいた女の、彼よりやわらかいくちびるが頬に押しつけられる瞬間を、彼に見られていないことを彼女は願った。

「ったくよォ」

短くなったタバコを灰皿に押しつけながら、彼が言った。
とたん、もがくのも叫ぶのも忘れて凍りついたふたりに、彼はたいして興味もなさそうに目を細めた。音がなくなる。
狭い空間のすべての意識を受けて、彼は、ただめんどくさそうに足を組んだ。

「色気ねェだのなんだの、さんざんひとのオンナ馬鹿にして笑いやがってよォ、どんなイイ女かと思やァ、山から降りてきたばっかのサルみてーなツラしたきったねェブスだもんなァ」

期待して損したぜ。と、ほんとにがっかりしたようなしぐさで彼が後ろ頭をがさがさとかいてみせた。
未知のものを見るような目でそれを凝視するだけだったふたりの、それでもひとりは現状への恐怖に打ち勝ったらしい。自由の効かない体を精一杯前のめりにしながら、女はアイラインのきれいな縁取りを彼に向かっておもいきりつり上げた。

「っなんでそんなひどいこと言われなきゃなんないわけ!?」

裏返った女の叫び声に、彼は表情を変えなかった。

「笑ったのはあたしたちもだけど、でも言ったのあたしたちじゃないし!なのになんであたしたちがこんな目に会わなきゃなんないの!?意味分かん、」
「キーキーキーキーうっせェなァ」

それは、抑揚のまるでない声だった。女は打ちきられた言葉のかたちにくちびるを固めた。
テーブルのうえのタバコの箱に彼が手を伸ばす。つんのめっていた女の体がその拍子にいちど大きく跳ねて、逃げるようにソファの背もたれに投げ出された。その沈み込む革の音に、けれど隣を盗み見ることさえできずに彼を見続けるもうひとりの怯えた目は、くちびるの色と同じようにおそろいだった。

「誰がなに言ったかなんて知ったこっちゃねェんだよ」

ふだんと何も変わらない段取りで、彼がタバコに火をつける。
最初の煙を吐き出しながらふたりを見たその顔は、ひどく無表情だった。

「ただ俺のモン泣かしたのが許せねェだけだ」

彼が、もうひと煙を吸い込んだ。そしてゆっくりと吐き出し終わったところで、吸いかけのタバコを手に立ち上がったその瞬間、彼の目が冷たく細められた。ひとつしかないその目から逃げられずにこわばった顔を上げた女の髪を、彼は掴み上げた。
女の息がヒ、とひきつった音を出す。彼はそれに眉の端ひとつ動かさないまま女を引きずり立たせた。

「なに勘違いしてんのか知んねェけどなァ、あいつはテメェらみてーな男に股開くしか能のねェブスどもが笑っていい女じゃねェんだよ」

女の半開きになったくちびるが、薄暗いなかでもわかるほどに震えだす。それは全身に伝わって、隣で見守るばかりだったもうひとりにも伝染していた。恐怖に食いつくされたふたりぶんのからだを、相変わらず無表情なままで眺めていた彼が、ようやく見せた表情は、あの笑みだった。

「今度俺のオンナに悪さしてみろ。ヤク漬けにしてフロに沈めてやらァ」

女のつまさきがぎりぎり届くまでさらに引きずり上げて、彼は言った。泣き出す余裕もないほど見開かれた女の目と、引きつった額に、彼女は、可哀相だとおもったけれど、ただおもうだけだった。なにかをしようとはおもわなかった。いま彼女を動かすものは、彼だけだった。
下に吊るしとけ。彼が女をソファに放り投げてそう言ったとたん、男たちが動き出した。ふたりの女を担ぎ上げてどこかに連れていく男たちを、彼女が眺めるのはほんの少しの間だけだった。彼に集中することのほうが大事だった。トシ、と彼女を呼んだ彼の、いつもとなにも変わらない気だるげな顔が振り向いたとき、だから彼女はなにも考えずに彼のそばに駆け寄って、彼の手を握った。それが当たり前のことにおもえた。帰るかァ、と呟きながら上着を取り上げた彼にならってコートを着込むときにはしょうがなく離したけれど、片手にバッグを持ってからはすぐにまた握りしめた。
また来てね、ときれいな細い眉をハの字にして言う女に頷いて返すときも、駅までの道を彼と並んで歩くときも、電車の隅に寄りかかってるときも、ずっと、彼女は彼の手を離さなかった。

「明日は来れんのか?」

彼女の家の玄関までたどり着いたところで、彼が言った。
月を背中に隠した彼の顔が見えなくて、必死で目をこらしながらちいさく頷いてみせる。

「部活ねぇし、いつでも行ける」
「学校は?休みか?」
「え、だって、土曜だし」
「…あー」

そういやいまのガキは週休二日だもんなァ。独りごとみたいにぼそっと呟く彼がなんとなく可笑しくて、少しだけ笑ったら、彼の目が穏やかに細められるのが暗がりでもわかった。わかるくらい近づいてきたんだと気づいたときには、反射的に目を閉じていた。
覚えたばかりのタバコの味と、かさついた彼のくちびるが、自分のくちびるからおもっていたよりずっとはやく離れていってしまったのが寂しくて、それを訴えるために彼の目をじっと見つめたら、彼は、クッ、と楽しげに喉を鳴らして笑って、額にも掠めるだけのキスをくれた。

「明日は起きたらソッコーでうち来いよ」

ささやくような彼の言葉に、頷いた彼女の頭を満足そうにクシャクシャと撫でると、じゃあな、と言って彼が背を向けた。その背中についていこうかどうしようか、彼女は悩んだ。彼のすがたがドアの向こうに消えてもまだ悩んだ。
彼とはもっと一緒にいたい。けれど、こんな時間に彼とふたりきりになることが、どういうことなのかくらいはわかる。どうしよう。彼女は、彼が触れたばかりのくちびるを噛んだ。
キスは好きだ。今日はじめて教えられた、からだが震えてしまうほどの深いキスだって、もっとしてほしいとおもった。それ以上のこともきっと、彼にされることなら嫌じゃないんだろうと、わかっているのに怖いのだ。
あの男とは違う。ひとのからだを無理やり押さえつけて、厚ぼったい手のひらで口をふさいで、熱を持った荒い息とねばついた舌で首すじを舐めてきた、ギラつく目をしたあの男と、彼は、きっと全然違う。
暖かい骨張った手で触ってくれて、優しい目でなだめてくれて、震えるほど気持ちいいキスをたくさんしてくれるから、だからきっとだいじょうぶ、と、何度も頭のなかで繰り返して過去の記憶を塗りつぶしていたら、彼女は、彼に会いたいとおもった。
ドアのノブを数回ひねる。鍵がかっていることを確認してから、バッグの中の携帯を取り出した。届いていたメールは兄からだった。休みの前の日はいつも、彼は恋人の家に泊まるのだ。予想どおり銀時のとこに泊まる、と書いてあったメールを閉じて、携帯をもとの場所にしまうと彼女は、ドアを背に足を踏み出した。
彼の家の前に立つ。チャイムをならす指は今度は躊躇わなかったけれど、インターフォンごしに聞こえた彼の声に、名乗る声は少し震えた。出てきた彼の、見慣れたTシャツとスウェットすがたに、なんだかホッとした。ここに来たことが間違ってなかったとおもった。
怖い気持ちは捨てられない。でも彼とは一緒にいたい。だったら、彼に会って嫌な過去ごとまた吹き飛ばしてもらえばいい。

「どうした?」

彼の声は優しかった。それがひどく嬉しくて、同時に言おうとしてることがどれだけ恥ずかしいか今さら気がついたけれど、だからってやめるつもりはなかった。
恥ずかしいとおもう以上に、彼と居れることが嬉しかったし、それに、もしかしたら彼は自分にそういう意味の興味を持たないかもしれない。それはそれでなんだか悔しい気もするけれど、そのときはただ一緒に居てもらおう。吹き飛ばしてもらうのはいつかまた今度でいい。
熱くなる顔とうるさく鳴りはじめる心臓に追い立てられるように、だから彼女は口を開いた。

「今日兄さん帰ってこねーみてェなんだ。だから、ひとりでいんの寂しいし、晋助んち泊めてくんねェかなって、おもって」
「…オマエそれ、意味わかって言ってんのか」

低くなった彼の声に、頷くのが精一杯だった彼女が、聞きとったのは舌打ちだった。
なんで怒ってんだよ。予想もしてなかった反応におもわず顔をあげた、その瞬間、腕をおもいっきり引っ張られた。つんのめったからだが彼の胸にぶつかって、いったいなにごとだとおもう暇もなかった。

「ンンっ」

噛みつかれたかとおもった。くち全部をおおい隠すみたいに乱暴なくちづけに、閉じる余裕のなかった目がみつけた彼の目も、同じように開いたままだった。それは優しくはないけれど怖くもなかった。ただ、ひどく熱を持ってるようにみえた。
腰を強く抱き寄せられる。その拍子にふらついたからだをおもわず彼の背中に両手をまわして支えたら、それを待っていたように、舌がもぐりこんできた。

「んっ、ンふっ」

やわらかくてぬるついたそのかたまりに、舌のつけ根を荒っぽく舐め上げられて、甘えたみたいな鼻声が勝手に出た。それが恥ずかしくて、おもわずぎゅっと目をつむった。
彼の舌が、舌の裏側を根元から先のほうに向かってたどっていって、へその奥がはじめてのときと同じようにきゅうう、とうずいた。膝がくずれそうになった。震える指先で彼のシャツを掴む。気持ちいい。どうしよう。気持ちいい。ふわふわするからだに、もう立ってられる自信がないと、そうおもったときになってやっと、彼のくちが離れた。
ハ、と一度だけため息のような浅い息を吐いた彼が、ちくしょう、とつぎに呟いたときには、苦笑いを浮かべていた。

「せっかくの我慢が台無しじゃねェか」
「っ、うわ、」

からだが浮いたとおもった、その瞬間、荷物みたいに肩に担ぎ上げられた。
暗い廊下に明かりを漏らすリビングのドアへ、彼が歩いていく。リビングに入ったそのあとにどこへ向かうのか、彼女はほとんど逆さまになった頭でもわかった。どうしよう。彼女はまたおもった。くちづけだけで彼は、自分を立ってられなくさせるのだ。
もっとたくさん触られたりしたら、いったい、どうなってしまうんだろう。


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どこで切っていいのかわからんからいっそもー全部つなげてみたよ。
逃げよーかどうしよーか、いまものっそい悩んでるところです。
あ、「風呂にしずめる=ソープに売り飛ばす」だよ。
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