ただの閉鎖的なひとつの村だった。 逃げ落ちてきた攘夷志士の連中をかくまってやったり食料をわけてやっていたのは、得体の知れない種族よりはおなじ人間に共感が持てた、それだけが理由だ。政治にも損得勘定にも感心なんてない、都会の人間には地名さえ知られてないようなさびれた村を天人たちが、つぶす気になったのは奴らが、戦のついでに通りがかったからだけのことだった。 食料は略奪されたし、若い男は捨てゴマとして連れ去られた。老人は殺されたし女と子供は犯されるか殺されるか、ときには食われた。頭を握りつぶされたり手足を噛みくだかれる人間を、目の前にしてすくんだ少年の足を、走らせるために彼の両親が犠牲にしたものは命だった。 だから少年は泣かなかった。そんなことは望まれてないんだと、飲みこんだ涙も日が沈むころには乾いたからだに吸いつくされた。 迷い込んだ暗い、蒸し暑い森のなかは、ひとつもすがたが見えないのに生き物の気配は研ぎすまされていて、川を探してさまようには賭けるものが多すぎた。それに、疲れていた。獣に食われないよう、できるだけ太い枝の木をみつけてよじのぼるだけが精一杯だった少年の眠りを日の出とともにぶち壊したのは、獣でも天人でもなかった。ひとりの人間の男だった。 猿じゃねーならついてこい。そう言って笑った男の、長く伸ばした黒い前髪のあいだからのぞいた鋭いふたつの目は、何日かまえ、ひとつになった。 「落っことすんじゃねーぞ」 「わかってるよ」 バカにするなと、睨みつけた少年にヒゲだらけの顔をした男は並びの悪い歯をむき出しにして笑った。男の厚ぼったい手から引ったくった切りっぱなしの木の板のうえには、具の見えないみそ汁と麦飯、それからひからびた焼き魚がひとつ。両手と胸で板を支えながら、つまづかないよう慎重に足を踏み出す。 ひたすら広いだけの古びた屋敷は、ところどころ腐って床の底が見えていた。かつての持ち主だった幕府のお偉いさんは攘夷派としてずっと前に処刑されたんだと、教えてくれた髪の長い男はいま、たくさんの男たちを引き連れて戦場にいる。 片目をなくしてから、からだの平衡がうまく取れんようでな。そのうち慣れるだろうがそれまではただの役立たずだ。険しい顔でそう毒づいた男に、悪いが遊び相手になってやってくれ、と言い残された少年と、留守番の何人かと、役立たずだというあの男だけが残ってる人間の全部だ。酒の肴にからかわれることもだからないし、大勢のまえで歌わされることもない。 ひとつにくくった長い髪を後ろから引っ張られることもないし、国の在り方だとかを何時間も聞かされることも台所から糖分を盗んでこいと耳打ちされることもない静かな毎日が、いつまで続くか少年にはわからない。いつまでも続くことにはならないでほしいと、ただ願うだけだ。 「メシ持ってきた」 長い廊下に、いくつも並ぶふすまのいちばんどんづまりのまえで立ち止まった少年が、呼びかけたところで返事がかえってきたことはいちどもなかった。ふすまのふちにつまさきを引っ掛ける。歪んだ枠に歯向かってすぱんっ、と勢いよく開放の音を立てるのが、この部屋に入るときの少年のひそかな楽しみだ。 目の前に、最初に飛び込んだのは青空だった。半分以上が欠けた竹の柵ごしに続く薄緑色の畑から遠くの山まで、どこまでも見渡せる縁側を、部屋の真ん中の布団のうえで立て膝をついて眺める男の手には煙管があった。 うつむきがちに男が煙を吐く。日のひかりを吸い込んで揺れる白い道すじは、それ自体がひかりのように空に向かってきらきらと伸びていって、まぶしさに瞬きを繰り返した、その隙に、振り向いた男の顔の左側をおおいつぶす白い布に少年はもう慣れていた。けれど、なくなったぶんを補うように鋭さを増した右目には、まだ慣れないでいる。慣れるひまもないほどあっさりと、退廃的な柔らかさにいつも塗り替えられてしまうのは、自分が甘やかされているからだと少年は知っていた。 ここの人間はみんなそうだ。子供だという前提でしか見てくれない。だから戦の場所は教えないし、時間も考えずにどこにでも引っ張りまわすくせに会議にだけは決して連れていってくれない。 命のやりとりなら自分だって経験しているのだ。同じ場所に立つ権利だって十分あるはずだと、日課になった不満に男を目指す少年の足どりはつい乱暴になった。無言で飯をつき出す。 男は感情をみせない目で板のうえをひととおり眺めると、天井に向かってもういちどひかりを吐き出してから、枕元のちいさな盆に煙管を置いた。 「ヅラに聞いたぜ」 黄ばんだ畳のうえをトン、と叩く男の指に従って、飯を置いた少年にふりかかった低い声は単調だった。それ、という声に合わせて、場所を変えた男の指を追いかけたら、たどり着いたさきは少年の手のひらくらいの大きさをした魚のうえだった。 つまらなそうに細めた目が少年を見上げる。 「おめェが調達したんだってなァ」 腹一杯ではないけれどちゃんとした飯と、快適ではないけれど生活する家を、男たちは命を代償に手にしている。 それにくらべて洗濯だったり掃除だったり、賭けるものも得るものもあまりにささやかすぎる自分が、なにかほかにできることはないだろうかと考えた結果だった。子供のほうが同情を引けるかもしれないからと、近くの村に食料の調達へ出かける男たちにせがんでついていったのが昨日のことだ。 屋敷の押し入れに眠ってたつんつるてんの着物を着て、長い髪をわざとバラバラにほどき散らした少年に、年をいった女たちほど同情的だった。去年の売れ残りだといって山ほどもらった魚はひさしぶりの肉で、手に入れることができたのは間違いなく手柄だったはずなのに。 「誰もかれもが渋い顔しやがる」 「そりゃあそーだ」 言葉どおり渋くゆがんだ少年の顔に、男がククッ、と喉を鳴らして笑う。 「ガキに物乞いじみた真似さして喜ぶよーなやつァ、うちにゃあいらねェ」 「俺はただ、」 「役に立ちたかったんだろう?知ってるさ」 先を越された言葉に、少年はくちを引き結ぶことしかできなかった。 「おめェがガキのくせして義理堅ェことも頭まわることもみんな知ってる。だがなァ、ガキはガキだ」 「っバカにしてんのかテメェ」 「バカになんざしてねーよ」 衝動のまま吐き捨てたことを、少年が恥ずかしくおもってしまうほどおだやかに男はつぶやいた。 「バカになれっつってンだ。ガキはガキらしく食って寝て後先考えねーで暴れまわってろ。それがいちばんあいつらのためだ」 「…意味わかんねェ」 食い扶持ばかり増やして、それがなんの役に立つっていうんだろう。すこしもおもいつかない答えに、少年が眉を寄せたときだった。ちから任せに腕を引っぱりこまれた、勢いで、飯をひっくり返さないようにするだけで精一杯だった少年のからだは気づいたときには男の膝のうえだった。 なにかとかまいたがる男たちばかりだ。膝にのせられるどころか無理やり肩車させられたことだって何度もあるからこそ余計に、いままでいちどもそんな素振りをこの男が見せなかったことをちゃんと覚えていた少年の、見開いた目を男の、片目が覗く。 「おめェいまいくつだ」 「じ、じゅうよん」 「十四の息子抱えた連中がここに何人いるかおめェ、考えたことあるか」 すっ、と探るように細められた男の目に、少年は飲み込まれるかとおもった。 「息子だけじゃねェ。娘だの弟だの妹だの孫だの、残してきた大事なモンと同じ年頃のガキがきったねェナリして食い物恵んでもらってンだ」 くちびるだけで男が笑う。 少年は、自分が息を飲んだことに気づかなかった。 「ンなことさせるくれーなら飢えて死んじまったほーがマシだって、おめェ見てどんだけのヤツがおもっただろーなァ」 足手まといになんてなりたくなかった。役に立ちたかった。 ただの子供じゃない、立派な仲間のひとりだと認めてもらいたい、だってそうじゃなきゃ、ここに居させてもらえなくなるかもしれないじゃないかと、恐れる気持ちは彼らを見くびることにしかならないんだと、どうして気づかなかったんだろう。 自分を守ることに必死になって、残してきた大事なものとおなじだけ大事にしてくれてた彼らの、大きな気持ちに気づきもしかった自分は結局、どうしようもなく独りよがりな子供でしかなかったのだと、突きつけられた現実にこみ上げてくる感情を、抑えるために吸いこんだ息がヒュウッ、と音を立てた、それがひどくみっともなくて情けない生き物の証拠みたいに聞こえたらあとはもう、止まらなかった。 「難儀なモンだよなァ」 涙が、男の着物の膝へ降りそそぐ。 あの日飲みこんだぶんを取り返すようにぼろぼろとこぼれるしずくの群れは、こめかみが痛くなるくらい目をつむってみたってなにも変わらなかった。 「ガキんときゃガキんときで、オトナになることばっか考えてよ」 せめて声だけでも食い止めようと、噛み締めた奥歯がぎりっ、と音を立てた、拍子に、男の肩を力いっぱい握りしめていたことに少年は気づかなかった。 男の言葉を聞き取る余裕もなかったし、涙の行き先を眺めながら男が、静かに笑っていることにもだから、気づかなかった。 「オトナになったらなったで今度は、ガキんときのことばっか思い出してンだ」 end. 霧コさんに捧げる若高×若土、のはず。 もっとへろへろにえろえろさせるつもりだったのに、 気がついたら真剣に馴れ初めを考えてしまいました。 この流れだったら原作でも高土イケるな!ってゆう。 あれ、なんかこいつら過去に会ってんじゃないかなってゆう気に なってくれたら成功。てゆーかあたしはすでにそう信じてます。 「悪いひとたち」 by ブランキージェットシティ |