あかちゃんはマヨネーズの妖精さんが等身大のキューピー人形に入れて運んでくるんだぜ。
高二にもなって真面目な顔でそう言ってのけた女が、いまの彼のカノジョだ。

「はよーざっす」

玄関のドアを開けてくれたのは、今日は美人なオネーサマのほうだった。
突き刺さるような冷たい視線はかつての二番目とおなじだけれど、短く切った黒い髪と、まっすぐのびる白い首すじとの倒錯的なコントラストだったり、細い腰と程よく大きな胸をぴったり包んだなまめかしいスーツすがただったりを、目の保養にできるだけ得した気分だ。
憎しみに満ちた目にもいい加減慣れた、とはいってもあまり長いこと続くと居たたまれないのが人情だ。あのバカなにやってンだ。無言のプレッシャーを彼はできるだけ無害そうな笑みでかわしながら、片手にぶらさげたスポーツバッグの持ち手を強く握って、せいぜい苛立ちをぶつけることにする。

「ねーさん、おれの弁当どこ!」
「テーブルのうえに置いといただろ」

バタンっ、と背後で勢いよくドアが開いた。それに振り返ったオネーサマにあわせて覗き見えた彼女の、制服のスカートからのぞく足は細く、けれど健康的で、文句なしの絶妙なラインだ。
ただ残念なことに、片方だけずり下がったハイソックスのおかげで色気はゼロだ。自然なももいろに色づくくちびるを、うす黄色く汚すマヨネーズまみれのトーストには色気を通り越して吐き気がするけれど、テメェいったいどーゆう味覚してやがンだ、とおもわず吐きだした過去に彼を襲った、三つ並んだおなじ顔の何十分もかかる説教をおもえば、胸の奥にうずまくムカつきを我慢したほうがまだマシだった。マヨネーズの生い立ちと未来への可能性なんて、二度と聞きたくない。

「ほら、」

彼とおなじスポーツバッグにめいっぱいぶら下げたいろんなキーホルダーを、がしゃがしゃ鳴らして走り寄ってきた彼女の顔は、オネーサマのそのひとことで斜めうえに持ち上がった。
見上げられたとたん、彼がくらったのとは大違いの柔らかい笑みに表情を変えて、彼女のくちびるの端にこびりついたマヨネーズを細いゆびさきで拭いとるオネーサマと、おとなしくされるがままの彼女ときたらハンパなレズもののエロ本なんてとても敵わないくらいのエロさだよ、アレを毎朝拝めるなんざオメーマジで幸せモンだよ、とは彼の尊敬する銀髪の教師がよく言うことだ。彼にも異論はない。むしろこのくらいの役得がなきゃ、毎朝不条理な視線に耐えてなんていられない。

「しんちゃん、おはよう」

準備万端にととのえてもらった顔を全開の笑みで満たした彼女に、飲みこんだため息を今日も彼は煮え切らない、おはよう、のひとことに置き換えるのだ。
十クラスもある学年のどの男に聞いてもいちばんかわいいと評判の女と、二年ではじめておなじクラスになった、その時点で彼はもう天下をとった気でいた。
並みの男じゃ鼻で笑われて終わりそうなほど気が強くて、おまけに鬼のように恐ろしいアニキがひとつうえの学年で見張ってるから誰も手が出せないんだと、ウワサには聞いていたってヤッちまえばこっちのモンだ、どいつもこいつも根性ねェな、自信満々で挑んでいった彼に、彼女はウワサ以上の素っ気なさだった。
おかげで余計に燃えた。些細な会話のきっかけをひとつも見逃さずにつかまえて、じつはとてつもない人見知りなんだと打ち明けられたころにはどんな女友達よりも彼女をなつかせることに成功した。

『ヤローはみんなキチクだとおもえってにーさんに教わったけど、しんちゃんみてーに優しいヤツもいるんだな』

部活終わりのアニキが迎えにくるまで、すこしの時間を埋めるふたりきりの放課後、年のわりにはハスキーなこえを彼のためだけにささやいた彼女の、夕日に染まった邪気のない笑顔に彼は、良心が痛む以上にいよいよ燃えた。なにも知らないオンナにいちから好き放題教え込むだなんて、オトコのロマンだ。
最適なシチュエーションと近い未来に、彼はつい酔ってしまったのだ。手入れのいきとどいた彼女の、つやつやのくちびるに、彼のくちびるが、触れるまであと数センチ、まぶたを閉じきる寸前、突き飛ばされた彼の背中は机の端にぶつかった。

『赤ちゃんできちまったらどーすんだ!』

キスはマヨネーズの妖精さんに赤ちゃんをお願いするサインなんだ。だから結婚するまではしちゃいけねーんだぜ。
夕日よりも真っ赤に頬を染めながら、しんちゃんてばそんなことも知らねーのかと、恥ずかしそうに怒る彼女は確かに最高にかわいかった。かわいければかわいいほど萎えた。
いったい誰に教わったんだと聞いたら、ねーさんとにーさんだと彼女が言うから、おまえ小学校のとき保健体育の授業なかったのかと聞いたら彼女は、馬鹿にすんじゃねーとさらに怒った。

『カエルの卵の話だろ?』

ダメだ、こいつもう手遅れだ。彼が彼女を諦めた、そのときにはもう手遅れだったのだ。

しんちゃんはおれと結婚してーのかと、ためらいがちに聞いてきた彼女の上目遣いに引き寄せられそうになりながら、おまえは俺にはもったいないからだのおまえのアニキがきっと許してくれないからだの、適当に言い逃れした、そのつぎの日、彼女に連れていかれた学校の中庭には金属バッド片手にウワサのアニキが待っていた。
テメェ、覚悟はできてンのか。世界中の憎しみを込めたようなその声になんの覚悟ですか、なんて返せるわけがない。なんで俺がこんな目に合わなきゃなんねーんだ。棒立ちに突っ立っていた彼のまえに、悠然と立ちふさがって彼女は、言ったのだ。

『にーさんがなんと言おーと、おれはしんちゃんをダンナさんにするって決めたんだ』

彼のシャツのそでをきゅっと掴んだ彼女の、凛とした横顔に、すべてを忘れておもわずキュンとした、そのわずか数秒後、鼻先でヒュンっと空気を切り裂いた金属バッドには、いのちの終わりを感じとった覚えがある。
ひとりじゃどうすることもできないとその日の夜、彼が相談しにいった頼みの兄は、ゲラゲラ笑いころげてくれたけれど。

「しんちゃん昨日のロードショー見たか?」
「あー」

返事をするのもだるいほどの蒸し暑さだ。両脇を囲う白いガードレールが、つくってくれる影はほんのささやかで、身を隠すにはなんの役にも立ってくれない。
日差しがうっとうしくて、うつむいたら、舗装されたばかりのアスファルトにはまばらに浮いた黒いタールが、てらてらと光っていた。

「答えになってねーよ」
「見てねーよ」
「もったいねーなァ」

えらそうな彼女のこえに、彼はすこしだけムカッとした。なにか言い返してやろうと顔をあげた、拍子に、額をつたった汗が左目のまつげを濡らした。
こすりとるための手は、けれど両方とも塞がっていた。

「すげーカッコよかったのに」

片方はバッグのせいで、もう片方は彼女の手のせいだ。学校指定の真っ白な開襟シャツの、肩にかかった黒いポニーテールを、揺らしながら、しろい首すじをまっすぐ伸ばして歩く彼女は真夏の日照りを感じさせないほど涼しげで、なのに彼の手のなかにある華奢な手は、汗ばんであたたかかい。
小学校のときは姉と兄が片手ずつ、中学からは兄が、学校の行き帰りは必ず手をつないで一緒に彼女と通っていたんだそうだ。
それを叶えるだけのために高校を選んだらしい、彼女とひとつ違いの彼女の兄が、一人暮らしせざるをえない程度には遠い大学に行ってしまった今年の春から、彼女と手をつなぐのは強制的に彼の役目になった。
毎朝、迎えにいかなきゃ怒鳴られて、迎えに行ったら行ったで睨まれて、どんな理由だろうと、一瞬でも手を離したことがバレようものならまた怒鳴られる。
オネーサマに聞かれたことにはなんの悪気もなくすべて答えてしまう彼女の手を、だから離すことはできない。バッグの持ち手を肩にとおして、空けた手のひらで左目をこすっていたら、ひらけていく視界のさきに、不安げな彼女の目があった。

「痛ェの?」
「っい、たくねーよ」

近ェよこのバカ。甘いシャンプーのにおいをふりまきながら、目の前にせまった彼女のくちびるに彼はさりげなく後ずさった。
キスだけじゃ子供はできないんだと、実地で教えてやるまで半年、オネーサマの留守を狙ってほんとうの子供の作り方を教えてやるまでには一年以上待った。禁欲生活を解き放ったのはつい最近のことで、なのにこんな、無防備な真似をされたら、抑えなきゃならないものだっておさまりきってくれやしない。
オトナになったことを彼女には、オネーサマとアニキには絶対言うなと厳重に口止めしてあるけれど、どうせそのうちバレるだろう。そんとき俺ァどーなっちまうンだ。考えるだけで憂鬱なのに、学校をサボってラブホにでも行こうものなら、増えた秘密に抱えるストレスで、倒れてしまいそうだ。

「汗入っちまっただけだ」

ありあまる欲望を振り切った勢いのまま、強く握った彼女の手を引きずって彼は、歩くスピードを上げた。痛ェよしんちゃん。背中から聞こえる彼女のことばにさえ、思い描いてしまうのはヤマシイ状況だ。頬に落ちた汗が、暑さとは別の理由で流れた汗だとはおもいたくなかった。
いったいどこを間違ったんだろう。学年でいちばんかわいい女を落として、プライドを満たしたら、好きなだけ遊んで飽きたら飽きたときにまた考えようと、軽くかまえていられるからこそカッコいいのに。

「そんな焦んねーでも、まだ遅刻しねーって」

能天気なこえに舌打ちしながら今じゃ、ちいさくてやわらかい彼女の手を、握りしめることに精一杯だ。




ちょっぷさんからのリクで、いっぱいのお部屋から末っ子カップルです。ひじかたくんがただのバカな子になっちゃうのだけは避けたかったんで、ぜんぶおねーさんたちのせいにしてみました。あとマヨネーズの妖精さん。
天然と世間知らずの違いはなんだろうって真剣に悩んだこの一品、気に入ってもらえたらうれしーです。


「Sugarless Girl」 by Capsule



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