「あ」 唐突に響いた声のあとにはチッ、と舌打ちが続いた。物騒なおとに銀時が、ラグマットのうえに寝そべらせていたからだを半回転させたら、テレビのかわりに現れた少女の顔はちょうど、最大限にゆがんでいるところだった。 「女の子が舌打ちなんざするもんじゃねーぜ」 「っ、だって」 うまくいかねーんだよ。ソファのうえで体育座りになった少女の、華奢な左手には円筒形のちいさなふたが握られていた。ふたからのびるのはちいさな刷毛で、そのさきに絡みついた重たいしずくと、おなじいろに少女の足の爪はいま、ぜんぶがきれいに染まりきっていた。 なのに右手では、親ゆびの爪だけが爪を飛び越えてゆびの腹まで染まってしまっているのだ。あーあ、と、つぶやくのはけれど、こころのなかだけにしておくことにする。 声にしてしまったら最後、もっと不機嫌にさせてしまうのは自分の恋人で実践ずみだ。意外と不器用なんだよなーアイツ。もうすぐ帰ってくるはずの恋人の、照れ隠しの仏頂面をおもって浮かべた苦笑のまま、銀時はよっこらせ、と声をかけて立ちがった。 ソファまではほんの一歩だ。はみ出したいろをティッシュで乱暴に拭き取る少女の、足もとに置いてあるガラスの瓶を拾い上げながら銀時は、少女の隣に音を立ててからだを投げかけた。 「しょーがねェ、銀さんが塗ってやろーじゃねーの」 「っマジで?」 大きく見開いた少女の目に浮かんだ感情は、驚きよりも喜びのほうが強かった。 少女がみずから刷毛を差し出してくる。このへんアイツより素直だよな、と、おもいはするけれど真似してほしいとまでおもわないのは、素直じゃない恋人を素直にさせるまでじわじわ追いつめてやるのだって、銀時には楽しみのひとつだからだ。 蛍光灯のひかりをきらきらと跳ねかえす六角形のちいさな瓶のなかは、あつぼったいクリームみたいないちごミルクのいろで埋まっていた。人工的なにおいとは不似合いなその、やわらかいいろに浸した刷毛を、おやゆびとひとさしゆびで慎重につまみあげる。 ひとさしゆびとなかゆびのあいだにしっかりと瓶をはさみ込んだあとで、支えた少女の手は見た目以上にあやうかった。なんでもない顔でひとつめの爪にしずくをこぼしながら銀時は、一瞬だけひるんだ。細くても、恋人の手にはもっと確かな強さがある。たとえおなじ顔をしていたって銀時は、だからやっぱり彼のほうが好きだ。 「銀ちゃんうめーな」 「まーな。学生ンときはこれで小遣いかせぎしてたもんよ」 高校時代とおなじくゲイだと公言してまわっていた大学生のころ、友達は男より女のほうが多かった。どーゆうわけだろーな、と聞いた銀時に、女は自分の敵にさえならなきゃなんだっていいのよ、と笑いながら答えをくれたそのうちのひとりが、ネイルサロンが高すぎると文句を言ってるのを聞いたのがはじまりだ。冗談のつもりで言った俺が塗ってやろーか、に、その女が食いついてきたのには驚いたけれど、自覚してた以上に自分が器用だったのにはもっと驚いた。 おかげでその日の昼飯代には困らなかったあのころに、けれど出会ったことがないくらい少女の爪はちいさくて、それに短かった。はみださないように塗りつぶしていくのは難関で、だからって、ここまで見栄をきったからには失敗するわけにもいかない。つけっぱなしのテレビの音を聞き流しながら、好物の甘い飲み物とよく似たあまいいろを銀時は、少女の血色のいい爪のうえに丁寧に乗せていく。 少女の視線が自分のゆびさきに集中してるのがわかった。やたらと緊張するのはきっと、まっすぐ向かってくる恋人の目を勝手におもいだしてしまうからだ。真実を見抜くようなあの目を、やりすごせたことなんていちどもない。あの目とおなじ目があるかぎり、こんな幼い少女相手にだってだからかなう気がしない。 適当なことなんてできないと、いつものめんどくさがりを持ち上がるたびに押し殺しながら、ようやく両手ぶんを塗り終わったとき銀時は、自覚するまえにおもいきりため息を吐いていた。 「どーよ」 年甲斐もなく自慢げになった声に、見合うだけのしごとをした自信はある。 目の前に並んだ少女の細いゆびを、飾るいちごミルクは明かりにかざせばまるで、外国製のドロップみたいにつやつやときらめいていた。 短い爪をいまにもとろけだしそうに染めたあまいいろに、負けないくらいとろけた少女の笑みが銀時を見上げる。 「ありがとな銀ちゃん。すげー助かった」 「どーいたしまして」 つられて笑った銀時に、もういちど笑いかけたところで少女が立ち上がった。まだ乾ききってない爪をひらひらと振りながら歩き出す。 細いその背中が部屋のなかに消えるのを見守って、銀時は、すっかり忘れられていったガラスの瓶に苦笑を向けた。刷毛を差しこんでフタをして、足もとに置く。意味もなくいちどだけため息を吐いて、それから、勢いよくソファに寝転んだ。 尻ポケットから、体重の犠牲になった煙草の箱とライターを取り出す。火をつけた一本の、最初の煙を天井に向かってゆっくりと吐き出す、このすきに、ドアの向こうでは一生懸命に自分を着飾る少女がいるんだろう。したことのないバイトをして、手にした金でプレゼントを買って、滅多に塗らない爪を塗って、きれいな顔とからだをもっときれいに見せる工夫をこらして、惚れた男に喜んでもらうので頭のなかは、きっといっぱいだ。なんだかなァ。ふたつめの煙を吐き出して、銀時はつぶやく。 なにをしたのかはわからない。けれど、子供ながらに大人びた少年の顔を、ただの子供に崩してしまえるだけのなにかをあの男がやらかした、そのせいで少年の気持ちに気づいたのは銀時だけじゃない。 水族館の喫煙所でふたりきりになったとたん、だいじょぶかアイツ、と、つぶいた恋人は、何日かあとの部活で顔を合わせた少年のことを腑抜けだったと言っていた。少年が後輩から映画のチケットをふたりぶんせしめたことや、その映画が少女の見たがっていた映画と同じだったことを、教えてくれたあとでためらいがちに、映画くれーならいんじゃねーの、と言い出した恋人を食い止めるために銀時が払った苦労は、これっぽっちもあの男のためなんかじゃない。少年のためだ。 独占欲の強さなら銀時だって負けてない。けれど、あの男は手加減を知らない。牽制されるだけの警戒心をたとえ引き出せたところで、相手のいちばん傷つく言葉と、行動を、誰よりもうまく使いこなすあの男に、立ち向かうには少年はまだ子供すぎる。 「うまくいかねーもんだな」 みっつめの煙を吐きながら、ひどく恋人に会いたがってる自分に銀時は気がついた。手に入らない苦しさや寂しさをおもって、怖くなったのかもしれない。欲しいものを欲しいだけ抱えられる現実に逃げられるだけ、結局は人ごとだ。 残酷なんだとおもう。他人の不幸を忘れたがる自分も残酷だし、傷つけることをなんともおもわないあの男だって残酷だし、言いくるめられてなにもしないままの恋人だって、少年にしてみれば残酷な人間のひとりだ。 長くなった灰を落とす場所を、探すために銀時は立ち上がった。マットのうえに置きっぱなしの灰皿を見つけて、その前に座り込む。 プラスチックでできた白い灰皿の端に、ゆびさきでトン、と煙草のさきをぶつけながら、気づいたところで吐き出しようのない現実に銀時は、ふ、とちいさく笑みをこぼした。 なにより残酷なのはきっと、あまいいろをした少女の、なにも知らない無邪気な笑顔なんだろう。 end. 人生二回めのリク、高女土←沖でした。 うすぐらーい感じで終わってしまってどーしようかとおもってます。どーしようも ないんだけれども。 沖田がかわいそうなのは全然かまわないってゆうサトミさん、どーでしたか。 もっそい中途半端なところで途切れててすみませんでした。許せる程度に かわいそうだとおもったら貰っていってくれるとありがたいです。 「O.K.」 by イエローモンキー |