「総ちゃん、これどこ置けばいい?」

薄っぺらな黄色いエプロンをひざのうえで揺らしながら、振り返った少女の腕には薄紫色の巨大なマンボウがいた。こんな可愛げないものをいったい誰が買うんだろう。レジのカウンターに肘をついたまま沖田は、眠そうなぬいぐるみの目とにらめっこしてみる。

「なぁ、総ちゃん、」
「そこのワゴンにでも突っ込んどいてくれィ」

天井いっぱいに張り巡らされた蛍光灯のひかりに、目をまたたかせながら沖田は、店の中央にある白いワゴンケースをゆび差す。シングルベッド半分くらいの大きさをしたワゴンのなかには山をつくった蛍光ピンクのアザラシの群れがいて、その頂上にそっと、彼女はマンボウを乗せた。なんの役にも立たないはずのまぬけなかたまりを、華奢なその手ひとつでやけにいいものに見せてしまう彼女と、おなじ顔をした彼女の兄に沖田がなんかいいバイトねーか、と相談されたのはいまから一ヶ月前のことだ。
妹がどーしてもやりてェっつってきかねーんだよ、と深刻な顔でため息をついた男は沖田の部活の先輩だった。バカばかりの高校でゆいいつ、全国模試の上位に食い込める頭ときれいな仏頂面を持った彼がシスコンなのは部内でも有名な話だけれど、ゲイだと知ってるのは沖田だけだ。
そこらの不良なんか話にならないくらい気だるい目をした銀髪の教師を、わかりやすく一途に見つめる視線に誰も気づかないのは彼が女にモテるからで、女に囲まれてるから女が好きとは限らないじゃないかと、先入観を取っ払うことができたのは彼をからかうネタをあら探しするのが趣味だっただけのことだ。
不言実行、冷静沈着、つれないとこがカッコいいの、なんて、同級生から教師にいたるまで女たちに褒めたたえられてる彼のすかした顔を、いつものようにぶち壊してやりたいためだけに言った、顔に出まくってますぜィ、のひとことに、いつものように怒鳴るどころかこの世の終わりみたいに目を見開いた彼を見たときに、内心ビビってしまったのは人生の汚点だ。
チャーシューメン大盛り一杯を交換条件にただの苦笑に入れ変えてやったその日以来、ひとりでとどめておくには重すぎる悩みをたまに打ち明けてくるようになった彼が、銀髪とうまくいったことを知ってるのもだから沖田だけだ。おなじように、過保護なくらい妹を守りたがる理由も知ってた沖田に、下手なとこ行かしてまたアブねー目に会ってもらっちゃ困るしよ、と彼がこぼしたのは夏休みに入る直前のことだった。じゃあ俺とおなじとこでバイトさせんのはどーですかねィ、と、言ってやったのは、ちょうど繁盛期に合わせて短期募集をかけてたバイト先の都合とあとは、彼が大事にしてるものへの純粋な好奇心からだ。
水族館のショップのバイトは、開館の朝九時から夕方六時まで。時給はたいしたことないけれど仕事は楽だし客層はどこまでも健全だと、わざわざ下見に来たうえで納得したらしい彼が、バイトの面接のまえに紹介しておくと言ってファミレスに連れてきた彼女を見て、いくらなんでも似過ぎだろうと爆笑した沖田がその日、受け取った怒鳴り声はふたりぶんだった。

「今日あんま客来ねーな」

畳んだ段ボール片手に、カウンターのなかに入ってきた彼女のために沖田は一歩ぶん左にからだを寄せた。壁の隅に段ボールがうまく立てかけられてあるか、さりげなく確認するついでにぼんやりと店のなかを見回してみる。
入場ゲートの角を、三角形に切り取った店のなかに家族連れが溢れるのは昼過ぎまでのことだ。夕方に近づくにつれて、増えるはずのカップルもけれど今日はまだ一組もいない。店いっぱいのいろんな色をしたぬいぐるみや雑貨と、それからオリジナルらしい安易なBGMに囲まれて、いるのは沖田と、彼女だけだ。

「隣の映画館に流れてンだろーなァ」
「あっ、そーいや今日公開じゃねーか!」

いーなぁ、俺も見てェ。つぶやきながら沖田とおなじようにカウンターにひじをついた彼女の、横顔を、盗み見ながら勝手にジーンズの後ろポケットを探りはじめる片手に沖田は、こっそり奥歯を噛みしめる。
Vシネの帝王扮する孤高のヤクザが宇宙最強のエイリアンに戦いを挑むSFスペクタクル映画の存在を、教えてくれたのは彼女だった。黒い目をきらきらさせながら、映画への期待を熱心に語る彼女を見たその日から、後輩を脅し続けて昨日やっと手に入れた入手困難だというチケットは、二枚ある。そのうちの一枚をバイト最終日の今日、ポケットに忍ばせた理由に、沖田はちゃんと気づいていた。
きれいな顔や喋り方や、怒りっぽさだったり頑固さに彼女の兄を重ねて笑ってしまうのはいまでも変わらない。こんなにからかいがいのある女はなかなかいないと、たしかにはじめはそれだけだったはずなんだといまでは、思い出さなきゃ忘れてしまいそうなくらい素直だったり、無邪気だったり、人なつっこさや細い腕や華奢な首すじや、彼とは似ても似つかないそんなところばかり見てしまうようになった理由に、気づけないほど鈍ければよかったのにと、はじめて彼女の恋人の話を聞いた日には後悔もした。
もうすぐ誕生日なんだよ。だから金貯めてプレゼント買おうとおもってさ。
どうしてバイトをはじめたのかと、聞いた自分がバカみたいにおもえるくらい嬉しそうにはにかむ彼女の笑顔ごと、奪い取ってやるための一歩を沖田は、ポケットのなかで握りしめる。
学校も友だちも住む町だってちがう彼女と、当たり前に会えるのは今日で最後だ。明日からも当たり前の顔で会うための一歩を、踏み出すチャンスはだから今日しかない。いつ渡そうか。いますぐじゃわざとらしいだろうか。バイト帰り、見せびらかすふりで。

「おっ、いたいた」

トシちゃーん、とだるそうなわりによく通る声に沖田は、半分引きずり出した紙切れを咄嗟にポケットの奥深くまで押しこんだ。
見慣れた銀髪が見慣れない普段着で目の前に現れる。

「いけませんぜ旦那ァ」

学校の外でこの銀髪と会うのははじめてのことだ。遅れて現れた彼女の兄が、生徒の顔じゃなく銀髪と並ぶのを見たのもはじめてで、だったらからかってやるネタなんていくらでも転がってるはずだと自分で自分にハッパをかけなきゃいけないくらい沖田は、焦っていた。心臓が、鳴り響く。

「危ねー橋渡りたくなきゃあデートは余所でやったほうが身のためでさァ」
「それがさァ、こいつ、」

銀髪の目が隣に傾く。

「どーしてもイルカショー見てェって聞かねーのよ」

そのさきにいた男の目も銀髪に傾いた、その隙に、必死で自分を組み立てなおす。

「そりゃテメェだろ。朝からイルカイルカうるせぇったら」
「すげーや旦那、イルカショーとSMショーの区別もつかねェなんざ驚きだァ」
「いやいやいや、おまえ俺のことなんだとおもってんの?」
「安心してくだせィ」

ふたたび戻ってきた銀髪の目を、まっすぐ見返せたことに沖田は内心でほっとした。

「アンタが薄汚れたドSのゲイであればあるほど喜びに打ち震えるのがドM方さんのドM方さんたるドM上手でさァ」
「喜ばねーよ!つーか勝手にひとの名前ヒワイにしてんじゃねーよ!」
「そーだよ!」

せっかく取り戻したまともな鼓動は、勢いよく向かってきた彼女の目にいちどだけ、大きく崩れた。

「兄さんはドMなんかじゃねー!銀ちゃんがドSすぎるだけだ!」
「ちょ、トシちゃん?俺へのフォローは?」
「俺はホントのことしか言わねー」

ふん、と効果音がつきそうな堂々としたしぐさで、彼女が銀髪を見据える。参ったなぁオイ、と、つぶやいておきながらすこしも参ってなさそうに苦笑いをこぼす銀髪を、隣で眺める男のつくった、笑みを浮かべるくちびるは彼女とまるきりおなじだった。
からかってやりたくなる衝動がけれど、彼女相手だと別の衝動に変わってしまうことは誰にもバレたくないのに、彼女には気づいてほしいと願ってしまうのを、食い止めることもできないのだ。腹の奥にうずくまる居心地の悪さに沖田が、銀髪とは違う苦笑いを浮かべたときだった。

「なァにギャーギャーやってやがる」

晋助、と、そのとき現れた男を最初に呼んだ彼女の顔は、沖田が後悔を覚えた日とおなじだった。それだけが、沖田にとって必要なすべてだった。
銀髪に負けない気だるさで男が彼女の前に立つ。沖田のほうには見向きもしない男の、左目が眼帯で隠れてることも、銀髪よりほんのすこし背が低いことも、自分よりずっと年上に見えることも沖田にはどうでもよかった。ただ、敵だった。
彼女を、奪い取るために沖田が、勝たなきゃいけない敵だ。


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これじゃあたかすぎイイとこどりじゃないか。


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