一回目のキスが何回まえだったのか忘れるくらい、彼女は男とたくさんのキスをした。キスとキスのあいまに、男がつぶやく些細な言葉に、素直に笑ったり照れたりむっとすることができたけれど、俺にしたくなったらいつでも言えと言われたときには、頷くことしかできなかった。怖い顔はしてるけれど、怖い場所には連れていかれなかった。金もせびられなかった。子供じみた遊びを子供よりも楽しんでいた。暖かい手と、よく通る優しい声を持っていた。悲しい過去を笑い飛ばしてくれた。かわいいと言ってくれた。好きになっちゃいけない理由を、どこから見つければいいのかわからなかった。だからって、最初にみたあの女みたいな捨てられ方をされるのも怖かった。捨てられる怖さを忘れるくらい好きになったら、そのときになったら言おうと彼女はおもった。 「晋助」 パーカーのポケットでブルブル震える携帯に、彼女はいきなりいま居る場所と、時間と、それから兄のことをおもいだした。腕時計を見る。八時を過ぎていて、やばいとおもった。やばい、怒られる。 「ん?」 「俺もう帰んねェと」 携帯をみたら、予想どおりいまどこに居るんだという兄からのメールだった。もっとやばいとおもった。男の背中を追いかける間に遅くなるとメールはしたけれど、友達と一緒ということにしてあるのだ。居場所を教えたら最後迎えに来るに違いない過保護な兄に、初対面の、しかも人相最悪なこの男とふたりきりだと知られたら、どんなことになるかわからない。 男の手を振り切って彼女が立ち上がると、男はそれをいかにも気に食わないという目で見つめながら、それでもなにも言わなかった。彼女と同じように立ち上がりながら、けれど当たり前のように彼女の手をとった男の手を、彼女は慌ててふりほどこうともがいた。 「っしんすけ、」 「ンだよ。こんくれェいーだろ別に」 離すどころか男は、彼女の手を握りしめたまま勝手に歩き出した。だるそうな足取りに引きずられながら彼女は、ダメだって、と、言いかけてやめた。 ここから家まで五分もかからない。返事の返ってこないメールに兄が電話してくるまでにはもうすこし時間がかかるはずだ。兄はきっと家にいるはずだから、探しに来られさえしなければ男といるのを見られることもない。だからそれまでは手をつないでいられると、男の手をゆるく握り返しながら頭を働かせる彼女だって、知ったばかりの暖かさをほんとうはそう簡単に手放したくなかったのだ。 「おまえんちの親うるせーのか?」 少しだけ高い場所から、男の顔が彼女を見下ろす。 「兄さんが厳しんだよ」 「兄さん?似てんのか?」 「…クローンじゃねぇのかってよく言われる」 「ック、」 彼女と反対側に顔を反らすと同時に、男がクックック、と息をつめるような笑いをこぼしはじめた。 やっぱコイツ失礼だ。彼女が眉をひそめながら、けれど言い返す言葉がおもいつかないでいると、彼女の家の通りが目の前にひろがった。 次はいつ会えるんだろう。それとも隣なんだし、自分から会いに行ってもいいんだろうか。そういえば電話もメールも聞いてないなと、彼女がおもいだしたときだった。通りの反対側から、見慣れた銀色のベスパが軽いエンジン音を立てて向かってくるのが見えた。 「あ、銀ちゃんだ」 「…銀ちゃん?」 男の声が、妙に低かったことに彼女は気づかなかった。ベスパが彼女の家を通り越して彼女のほうに向かってくる。落書きだらけの白いメットからはみ出た銀髪がはっきり見分けられる距離まできたところで、つないだ男の手に力がこもった理由が、けれど彼女には分からなかった。 「銀ちゃん」 一歩ぶんの間をあけて止まったベスパにまたがった男は、彼女がそう呼ぶのを合図にメットをはずした。メットに押しつけられた銀髪はすこしだけつぶれていたけれど、それでもふわふわと空気になびくだけのボリュームがあった。 いつ見てもすげェ色。彼女は兄に紹介されるまで見たこともなかった色の髪を、おもわずじっと見つめてみる。 目の前の銀髪が兄の恋人だと彼女が知ったのは、ほんの数ヶ月前のことだ。同時に兄がゲイだということも知ることになったんだけれど、それを告げた兄のひどく切羽詰まった顔をまえに、非難する気も反対する気もおきなかった。それで兄が幸せなら別にいいとおもった。ただそれだけだ。 ちょくちょく家に遊びに来るようになった銀髪は兄の高校の教師で、いつもだるそうにしているくせに甘いものを見たときだけ目が輝いた。ヘンな男だとおもうけれど、悪い男だともおもわない。この男と付き合うようになってから、兄のピリピリした空気が少し取れたのを知っているからだ。 他人の男とふたりきりになるのを許さない兄も、銀髪とならなにも言わなかった。どうしてかと聞いたら、あいつゲイだから、と兄は言った。そういえばそうだと、言われてはじめて思い出すくらい、銀髪はどこにでもいる男と同じだった。勉強を教えてもらったり、一緒にゲームをして遊んだりする、兄にとっては恋人でも彼女にとっては友達のひとりだった。 いつものだるそうな笑みが見られるとおもっていた彼女は、だから、銀髪の顔がひどくこわばっていることに驚いた。 「銀ちゃん?どしたんだンな怖ェ顔して」 「…えーと、トシちゃん、その隣にいるとっても目つきのわりー男はいったいどこから湧いて出たのかな?」 「湧いてんのはテメェの頭だこの天パ」 「天パ馬鹿にすんなこのチビ」 「ンだとォ?」 気にしてんのか。男の今にも人を殺しそうな顔を見上げながら、彼女は場違いな納得をおぼえた。 銀髪はベスパから降りると、メット片手に男のまえに立ちはだかった。 「つーかなんでテメェがここにいんだよ。しかもなんでトシちゃんと手なんかつないじゃってんの?まさか拉致?拉致監禁?いくら目つきも素行も性格も悪ィからって人身売買はダメだろ人身売買はァ」 「安心しろ、売るならテメェの臓器売ってやらァ」 「残念でしたー俺のからだは糖尿一歩手前ですぅー」 「なぁ、」 「むしろテメェ自身が糖の固まりだろォが。アリに食われて死ね」 「なぁって、」 「テメェが死ね。地球の重力にも勝てねぇチビ助なんざ、」 「聞けっつってんだろーが!」 腹から出した彼女の声に、ふたりの声がようやく立ち消える。 すんまっせん、と呟きながら頭をさげる銀髪と、不機嫌そうに目を反らした男を順番に睨みつけてから、彼女はもういちど銀髪をみた。 「銀ちゃん、晋助と知り合いなのか?」 「あー知り合いっつうか、知りたくなかったっつうか」 「高校と大学一緒なんだよ」 吐き捨てるように言った男に、銀髪が苦笑いで同意したのは一瞬だった。なにか企んでいるのかとおもえるほど底意地の悪そうな笑みを浮かべて、銀髪は言った。 「つーかさ、トシちゃんこいつとつき合ってんの?」 「…つき合う、かも」 「かもって、もしかしてまだ手ェ出されてねぇの?!」 ひえー、だとか、うわー、だとか叫びながらわざとらしく頭をかかえる銀髪に、彼女は隣の男が舌打ちするのがわかったけれど、その意味を考える余裕はなかった。銀髪の言葉に驚くので精一杯だった。 手ェ出すって、やっぱそーゆうことだよな。付き合ったら俺もこいつとすんだよな。おもわずそうなったときの想像をしかけた彼女は、けれど、そんなことをしようとした自分が恥ずかしくなった。火照る顔を見られたくなくていそいでうつむく。 「へーぇそーぉ、この会って三分でお持ち帰りが、」 「っ余計なこと言うんじゃねェ!」 はじめて聞く男の焦った声に、彼女は咄嗟に顔をあげた。目が合った男はまた舌打ちをしたけれど、その顔がどこか気まずげなのを見逃さなかった彼女は、銀髪の言葉が本当なのだと知って、考えた。会って三分じゃなかっただけ少しは自分に本気でいてくれるということなんだろうか、それともたんに自分が子供過ぎてそういう興味を持てないだけなんだろうかと、考えて、けれど答えを出すまえに彼女は答えをもらうことになった。 「トシちゃん、いいこと教えてあげよーか」 相変わらずにやにやと人の悪い笑みを浮かべながら、銀髪は言った。 「俺ね、こいつが女の子と手ェつないで歩いてっとこなんて、見たのはじめて」 こいつ女の子とダッチワイフの区別もつかねーくれぇバカだからさ。女の子に歩調合わせるなんて思いつきもしねぇのよ。いっつもさっさとさき行っちまうから女の子にゃ腕組むヒマもねェの。マジバカ。バカなうえにサイテー。あーもうサイテーすぎて銀さん涙出てきたよコレ。 Yシャツの袖で目もとを拭く真似をする銀髪はやっぱりだるそうだった。隣の男は相変わらず人相が悪かった。彼女は、家に帰ったら兄に、今日のことを言おうとおもった。ヤクザみたいな顔で、かわいいと言ってくれて、暖かい手を差し出してくれる、はじめての恋人ができたと言うために、彼女は、隣の男の名前を呼んだ。 好きだと言った彼女を迎えたのは、銀髪のふざけた口笛と、男の照れくさそうな笑みだった。 next そしておにーちゃんはちゃぶ台をひっくり返します。 次回、ドSコンビのかわいこちゃん座談会。たぶん。 |