男は高杉晋助と名乗った。本名か偽名なのかは分からない。ただ敬う必要なんてどこにもないことは確信していたから、晋助でいいとみずから呼び捨てを望んだ男に彼女は素直に従った。
一度だけ名前を復唱した彼女に満足げな笑みを浮かべた男が、次にしたのは彼女の腕を解放することだった。ダボついたスウェットのポケットに手を突っ込みながらだるそうに歩き出す男の背に、なんなんだいったい、と呆気にとられるヒマもなかった。
どうせ危ねェとこ連れてかれるとでもおもってんだろ。だったらいつでも逃げれるように後ろついてくりゃいいさ。
独りごとと間違えそうなくらいやる気のない男の声を、受け入れたのは、逃げたかったからだ。明日もまた繰り返さなければいけない日常から、目の前のいままでみたこともない種類の男なら少しでも逃がしてくれるような気がして、だから彼女はその背中を追いかけた。一歩ぶんの距離を規則正しく保ちながら、おなじ道をゆく男と自分がなんだか滑稽で、彼女は歩きながらすこし笑った。
商店街の、ひときわ明るい自動ドアの前で立ち止まった男と、電灯の欠けた汚い看板を、馬鹿みたいに口をあけたまま何度も見直す彼女に笑ってみせたのは、今度は男のほうだった。

(なにやってんだろ俺)

そんでこいつはもっとなにやってんだ。鉄パイプにつながる細長くて硬そうなクッションを腹に響くような音で蹴り倒す男の、その背中に自分からついてきたんだと、分かっているからこそ彼女は余計に腹が立った。耳に飛び込むBGMは気が狂いそうなほど高くでかく、あふれる照明からもれた熱は人気がなくてもこもっていて、溜め込まれたタバコのにおいは立っているだけでからだに染みつきそうだった。
ゲーセンなんて中学生以来だ。同級生の男たちだってよっぽどヒマかよっぽど好きなやつら以外は行かないのに、いい大人が、しかも平日に、なんでここまで楽しそうに遊んでるんだろう。
マダオか。ヤクザでも総会屋でもチーマーでもねぇただのマダオなのかこいつは。彼女は、マダオとヤクザだったらどっちがダメなんだろうと考えて、けれど考えれば考えるほど自分までダメになってしまう気がして慌ててやめた。

「あーやっぱストレス解消にゃこれがいちばんだなァ」

たったいま討ち入りしてきましたみてぇなツラしてなにがストレス解消だ。ひどく満足げに振り返った男の、そこらじゅうで飛びかう電子音にも負けず通る声に、彼女はもう言い返す気力もなかった。
こうなりゃヤケだ。マヌケな効果音とともに最高得点を表示するキックマシーンに、彼女は男の横をすり抜け向かい合う。
キックマシーンなんてやったのは、兄に連れてきてもらった小学生のころの一度きりだ。女はやっちゃいけないものなんだと、はじめて兄以外で連れていってくれた女友達の、態度がそう教えてくれたけれど、いまはもうどうでもいい。どんなに忠実に守ってきたって女らしくなんてなれないことは、泣きたくなるほどおもい知らされたばかりじゃないか。
女らしさなんざクソくれェ。彼女はスカートがひるがえるのもかまわず、目標に向かっておもいきり足を振り上げた。

「やるじゃねーか」

パンツ見えてたけどな。悪党じみた笑みを浮かべる男にひと睨みだけ与えてから、確認した得点は歴代三位だった。彼女はそれが単純に嬉しくて、おもわずもれた笑みを、だからって素直にさらしてやるのは人の話を聞かない強引な男のやり方を認めてやるようで悔しかった。
慌てて俯けた顔を、けれど男は見逃してくれなかったらしい。骨っぽい手で彼女の頭のてっぺんを乱暴にかき混ぜながら、楽しそうに言った、その声は、やっぱりどこか優しかった。

「かわいい顔して笑うなァ、おまえ」
『あんなかわいくねぇ女やだよオレ』

笑った男。男と一緒に笑った女。ガラガラした声。高い声。何も言えずに逃げた自分。傷ついた自分。惨めな自分。教室。机。夕日。
しゃくりあげる声が自分のものだと気づいたときには、彼女の目の前はもう、にじんでゆがんでいた。この手がいけない。彼女はおもった。フラッシュバックした光景は最低で最悪で、なのに硬くて大きな手は暖かった。あのときの言葉と男の言葉の、どっちがほんものでどっちがにせものかなんて、だからもうどうでもいい。
目の前の男のくれた言葉が嬉しかった。それだけが真実だ。

「っり、がと…っ」

うまく笑える自信なんてすこしもなかったけれど、笑った顔をかわいいと言ってくれた男を信じたくて、彼女は無理やり笑ってみせた。涙が邪魔で、男がどんな顔をしてるのかはわからなかったけれど、好きだったあの男みたいに笑っていないことだけは確信できた。確信できるだけの暖かさが、頭のうえじゃなく今度は彼女の腰を抱き寄せて、彼女を引きずるように歩き出したけれど、抵抗しようとはおもわなかった。それは、強いのに痛くない、あの不思議な力のせいだった。
男は自動ドアを抜けて外に出た。とたん、すこし冷たい風が彼女の涙を乾かして、火照った頬にこぼれた道筋のままはりつけるのを、彼女はぼんやりと感じていた。
夕暮れを通り越して夜を迎えた商店街には、街灯以外の明かりがなかった。人通りもほとんどない道の脇に意味もなくたたずむひしゃげたガードレールに、男は彼女を座らせると、隣に自分も座り込んだ。男の腕は彼女を抱き寄せたままで、ふたりの間にある距離はひどく近かった。彼女は自分が、それにほっとしていることを知った。

「振られたんだ」

ライターの金具が鳴る音に、男がタバコを吸うんだということも知った。

「おんなじクラスになってからずっと好きだったヤツでさ、今日コクって、そんで振られたんだけど、そいつすげー真面目な顔でごめんっつってて。だからしょうがねぇなって」

彼女はそのときの男の顔を思い出した。ふだんふざけてばかりいるくせに、たまに真面目な顔をする、そういうときが好きだったんだと、まるで他人事のように冷静に振り返っている自分がいて、彼女はすこし可笑しくなった。

「部活んときさ、忘れモンしたの思い出して、帰りに教室寄ったんだよ。そしたら、そいつが何人かといて…笑ってたんだ、俺のこと。あんな胸も色気もねぇオトコオンナと誰が付き合えるかって」

フッ、と、隣で煙を吐き出す音が、まるで相づちの代わりのように耳に届く。無言が、こんなに落ち着くものだということを彼女ははじめて知った。冷えたタバコのにおいがかすかにただよって、彼女は、それが自分の家でするタバコのにおいとは違うことを確かめた。

「胸も色気もねぇとかオトコオンナとか、そーゆうこと言われただけだったら別に、こんなくやしくねーんだよ。真面目な顔してごめんとか言っといて、それ全部ウソだったのかよって。鵜呑みにした俺が馬鹿みてーじゃねぇかって、すげーくやしくて、」
「くっだらねェなァ」

相変わらずだるそうな声は予想以上に近かった。彼女はそのことに驚きはしたけれど、腹は立たなかった。ほんとうにくだらないとおもった。あんなに悔しかったはずなのに、いまではおもい出すこともできない。どうしてだろう、どうしてもう悔しくないんだろうと、考えて、隣にこの男がいるからだと答えを出した自分が彼女は間違ってないような気がした。
だって、この男がそばにいたら、悔しさも悲しさも全部、鼻で笑い飛ばしてくれる気がするのだ。

「だからガキはヤなんだよ。ほんとにいいモンがなんなのかわかっちゃいねェ」

男が彼女のあごを指先でつかむ。力のほとんど込められていないそれに促されて、ほんの少し見上げたさきにあった、男のくちにはタバコがなかった。自分を変わらず抱き寄せるために、そして男と向き合わせるために、捨てることを選んだのかとおもうと、彼女はなんとなく誇らしかった。

「イイ女の見分けもできねェガキのことなんざ忘れちまえ」

見慣れた意地悪い笑みだとおもっていた男の顔は、けれど笑っていなかった。

「俺にしとけ」

呪文のようにそうささやきながら、近づく男の目は鋭いのに優しかった。吸い込まれそうだと彼女はおもった。男の声に目に、余計な感情だとか理性だとかは全部吸い込まれて、頭のなかはからっぽだった。ただ、男の目がまぶたの奥に消えてしまったことだけが寂しかった。取り残されたくなくて、彼女はおなじように目を伏せた。
生まれてはじめてのくちづけは、知らないタバコの味がした。


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たかすぎの声にはまほうがかかっていると信じてます。


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