歯を食いしばりながら彼女は歩いていた。もう十分近くそうしているせいであごのあたりが疲れていたけれど、それでも彼女の意地を守るためには必要なことだった。
長い前髪が歩くスピードに合わせて彼女のまぶたを触っていた。まるで泣いてもいいんだと言われているようで、それに甘えてしまいそうな自分をはげますために、何度も顔を振って追い払う。

(誰が泣いてやるかよ)

夕暮れ間近の住宅街の細道は、彼女以外に誰もいなかった。いたとしてもコンクリートを睨みつけて歩く彼女には気づけなかったし、気づいたところで今の彼女にはそこらにたたずむ電柱と同じようなものだった。人の目を気にしていられる余裕なんてなかった。ただ自分の身体じゅうをおそう悔しさと悲しさに打ち勝つことだけで精一杯だった。
地面を踏みしめるごとに弾むプリーツスカートの制服が、いつもよりも重たく感じていた。早く帰って脱ぎ捨ててしまいたかった。制服と一緒に、それを着て明日もまた行かなきゃならない学校だとか、教室だとか、会わなきゃならないクラスメイトだとか、三つ隣にいつもだらしなく座っている男のことだとか、その男のことを好きだった自分だとか、そんな自分を笑ったやつら全員の笑い声を、全部脱ぎ捨てて二度と思い出さないでいたい。もうどこにも行きたくなかったし、誰にも会いたくない。早く家に帰って、ぶっきらぼうだけど優しい兄だけが待つその小さな世界に、そのままずっと閉じこもってしまいたい。
乾いた風の冷たさが、春にはまだもう少しかかることを彼女に教えていた。おさがりでもらった丈の少し長いパーカーの帽子が、頭の高い位置で一つに縛って垂らした髪と一緒にゆらゆらと背中で揺れていて、それがひどくうっとうしかった。切ってしまおうか。髪の長い女が好きだと言っていたあの男の言葉を真に受けて、馬鹿みたいに伸ばしていた自分を切り捨ててしまおうかとおもったけれど、これ以上あの男のためになにかをするのも嫌だった。
電車の走る音が背中のほうで響いていた。兄の乗りこんだ電車がもうあと数分で駅に着くことを彼女は知っていたから、今日のことを、彼に言おうかどうしようか迷った。言えばきっと慰めてくれるだろう。そしたら間違いなく彼の前で泣いてしまうだろう。それは駄目だ。彼を困らせたくない。でも誰かに打ち明けなければ苦しくて死んでしまいそうだ。
どうすればいいかと悩みながら自分の家の端までたどり着いたところで、けれど彼女は、目に入った光景に悩むのを忘れ立ちすくんだ。
彼女の家はメゾネットタイプで、二つ並んだ棟の右側だった。左側にも誰かが住んでいることは知っていたけれど、今まで一度も顔を見たことがなかったのだ。
いったいどんな生活をしてる人なんだろうとたまに疑問におもっていた、その家の、ドアの前に、ひとりの男がもたれかかって立っていた。
男はまだ二十代くらいにみえた。左目には眼帯をつけていて、残りの目は世間一般でいう男前、と、言い切れないだけの鋭さがあった。ホンモノのヤクザを間近で見たことはないけれど、あれがとてもカタギに見えないことくらいは彼女にもわかった。
自分の身体を彼女がその場に縫い止めてしまった理由がもうひとつある。
それは、男の前に女がひとり立っていたことだった。栗色の長い髪をやわらかく巻いて、パステルカラーのワンピースを着たスタイルのいい後ろ姿のその女が、ひどく取り乱した声で男に向かって怒鳴りつけていたのだ。

「あんた、あたしのことなんだとおもってんの!?」
(うわ、修羅場じゃねぇかこれ)

嫌になるほどよく聞こえる女の声と対照的に、男の声はひとつも響いてこなかった。けれどその立ち姿と表情はめんどくさそうな気配を隠そうともしていない。波のように滑らかでそのくせえげつない罵声にあくびでもこぼしそうな勢いだ。
すげぇなあいつ、俺が男だったらあんだけ言われりゃ絶対ヘコむって。彼女が妙な感心を覚えていると、とうとうストックが切れたらしい。女が言葉を切った。そして入れ替わりに男が口を開くのが見えた。
いったいどんな声でどんなことを言うのだろう。彼女は意識をとがらせた。

「気ィすんだんならさっさと帰れ。うっせぇ」
(一言だよ!一言で終わらせちまったよ!)

ぜってーあいつヤクザだ。それか総会屋。今までの罵声を台無しにしたとんでもなく簡潔な一言にいっそ感動しながら、彼女は低く通る声に彼の素性を確信した。自分の兄も凄めば相当なものだけれど、それとは次元が違う迫力だ。
すげぇ、ホンモノのヤクザだ。はじめて見た。やっぱ小指ねぇのかな。なんてどこかワクワクしていたところで、ひときわ大きな女の声が叫んだ。

「っ…さいってー!死んじまえ!」
(やべ、こっち来るっ)

壁の陰に隠れるタイミングを完全に逃していたと、彼女はそのときになってはじめて気づいた。歩くというよりは突き進むといったほうが正しいくらいの勢いで向かってくる女と目が合う。彼女は一歩だけあとずさった。それしかできなかった。
俺も怒鳴られんのかな。でも俺悪くねぇよな。こんなとこで修羅場やってるこいつらが悪いよな。自分で自分を弁護しながらも動けずにいたら、女はすれ違い様に一瞬視線を鋭くしただけで、なにも言わずに通り過ぎていった。こわばっていた身体がやっとひと息ついた、そのときだった。

「おい、そこのガキ」

はっきりと耳をうちつける低い声に、彼女はふたたび動けなくなった。
男が近づいてくる。獲物を逃げさせない自分の迫力をよく分かってるんだろう、動作はひどくゆるやかで、けれど着実に、男は彼女との距離を縮めていた。どうしよう。やばい。捕まる。捕まって簀巻きにされて東京湾に沈められる。
どうにかして逃げようとあがいた彼女の身体が錆びたロボットみたいに一歩あとずさったときにはもう、彼女の腕は男の骨張った手につかまれたあとだった。

「オマエ、隣に住んでるガキだよなァ」

間近で見るとますます鋭い男の目が、とんでもなくワルそうに細められる。
逆らうことを許さない目だ。だからってまだ諦めるわけにはいかない。逃げるタイミングをはかるときは相手から目を反らしちゃいけないと、ケンカ慣れした兄に教えてもらったコツで必死に自分を勇気づけながら、男に向かって彼女は一度だけ頷いてみせた。

「名前は?」
「…は?」

質問の意外さよりも先に、男の声の柔らかさに彼女は驚いた。
相変わらず目つきはヤバいのだ。なのに、低い声は一枚膜を張ったように数秒前までの迫力を失っていて、どういうことだとおもった。どういうことだろう。そしてなんで名前を言う必要があるんだろう。
声の圧力から抜け出したとたん焦ったみたいにぐるぐる回りはじめた頭は、それでも答えを導いてくれるほど理性的でもなかった。

「名前を聞いてんだよ俺ァ」

やっぱり柔らかいままの声が、語尾をほんの少し引きずっていることに彼女は気づいた。
ヤクザというよりはヤンキーみたいなそれが、バカっぽく聞こえないのはきっと声の質の良さだろう、なんて考えられるだけの落ち着きを取り戻すことができたのは、変化した声と、それから、彼の目のなかにどこか楽しんでいるような空気を見つけたせいだ。
考えてみれば、いくらヤクザだからって修羅場をのぞかれたくらいで人は殺さないはずだ。テンパり過ぎた自分が彼女は少し恥ずかしくなる。せいぜいプライバシーの侵害だとかなんとかいう名目で慰謝料を巻き上げられるくらいだろう。もしほんとにそんなことを言われて、笑ってしまったらどうしようかと彼女はおもった。だって男は、私生活をのぞかれたくらいで傷がつくような心なんかとっくの昔に金に換えてる、くらい平気で言えそうな顔つきなのだ。
にしても、なんで名前を聞かれなきゃならないんだろう。まさかこの顔で近所付き合いを深めたいなんて言わないだろう。それはそれで怖いけれど、だからって名前を教えてやらない理由もない。
まぁいいか、名前くらい。彼女は久々にまともな言葉を喋るために、心持ち大きめに息を吸った。

「ひ、ひじかた」
「下の名前は」
「トシ」
「トシ?今どきめずらしいなァおい。名付け親は大正の生まれかァ?」
「ってめ、人が気にしてること言うんじゃねぇ!」

あ、やばい。と、我に返ったときにはもう、男はその腕に彼女を捕らえるのも忘れるほどの大爆笑の嵐に飲みこまれていた。
彼女の名前は彼女が生まれるのと入れ替えで死んだらしいおばあちゃんがつけてくれたものだ。
今どきめずらしいからと言って初対面の人間でもすぐに覚えてくれるし、呼びやすいから変なあだ名もつけられないですむ。とても便利なのだけれど、なんたって古くさい。
でも、兄のほうがもっと可哀想な名付けられ方なのだ。父親が十四番目に見合いした相手が母で、男の子だったから十四郎だなんて、情緒もなにもあったもんじゃないわと母がよくぼやいていたのを彼女は知っているし、おまけに当の父親は女をつくって蒸発してしまったのだ。 まるで十四番目は家族崩壊の暗号だと酔っぱらうたびにこぼしている兄をおもえば、大正由来でも古くさくても考えてつけてもらえただけマシなんだと、分かってはいる。ちゃんと分かってはいるのだけれど、からかわれたらやっぱり腹が立つ。

「…いつまで笑ってやがる」

ヒーヒー言いながら目に涙を浮かべて笑い転げている男を見てたら、ヤクザだろうがなんだろうが彼女にとってはどうでもよくなってきた。
だって、いくらなんでも笑い過ぎだろう。小学校のころならともかく、中学にあがってからはせいぜいおもしろそうに顔をゆがめられるくらいだったのに、いい年こいた大人がここまで爆笑するなんてとても失礼だ。彼女は精一杯腹に力を込めて男を怒鳴りつけた。

「聞いてんのかテメェ!」
「や、…わりーわりー」

男はハァっ、と一度大きく息を吸って吐きだすと、折り曲げていた身体をまっすぐに立て直した。
それを見て、男がそんなに背の高いほうじゃないことに彼女は気がついた。せいぜい五センチ強くらいしか差がなくて、そのうえ細身だ。いまだに笑いの名残を持った顔は年相応で、ついさっきまで感じていた威圧感が嘘みたいだと彼女はおもった。
男は彼女に向かってニィ、と楽しげに目を細めた。

「まさか初対面の女子高生に週ジャンの主人公ばりの啖呵キられるとはおもってなかったからよォ。あーひっさびさに笑ったぜ俺ァ」
「名前バカにしたテメェがわりーんだろうが!」
「別にバカにしたつもりはねぇよ。いんじゃね?呼びやすくて」

男の手が彼女の頭をわしゃわしゃと撫でてくる。
ガキ扱いしやがって。撫でときゃなんとかなるとでもおもってんのかよ。彼女は腹立ちまぎれに全力で振り払った。

「触んな!」
「…ほんとおもしれーなァ、おまえ」

男は一瞬驚いたような顔を、悪ガキみたいな笑みに張りかえた。

「俺はおもしろくねぇ!」
「おまえ今からヒマか?」
「人の話聞けよコラ!」
「そう怒んなって。血管切れるぜェ?」
「怒らせてんのはテメェだろーが!」
「まーまー。ンなことよりよォ、」

そんなことってなんだ、と、言い返す前に男の手がふたたび彼女の腕を掴んだ。骨張った細い指は見た目を裏切る強さで、なのに痛いほどではなかった。
いったいどういう力の入れ方してんだ。振り払おうともがきながらどこかで感心していた彼女に男の声がふりそそぐ。

「遊びにいかねーかァ?オレと」

彼女にとってそれは、ひどく楽しそうな音をしたあまりにも物騒な言葉だった。


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偏りまくった趣味の世界を実現していく予定です。ラブコメです。


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