彼の横顔につたう汗を、彼女はぼうっと見守っていた。
重ね合わせた胸が、規則正しい間隔を取り戻していく。部屋の空気を冷たくおもえるほど肌にまとった熱や、彼とのからだの境目を、彼女が感じ取れるようになってもまだ、彼のものは彼女のなかから出ていこうとしなかった。いままで知らなかった荒っぽさでたくさん、こすられて、じくじくとうずくそこが、もっとこすってもらえるかもしれないと期待するように彼のものを、ゆるく締めつけては誘う。
彼女の意志なんてまるで無視した、欲張りなそこに、居たたまれないきもちはあった。なのに、応えるように体積を取り戻していく彼のものを、嫌だとはおもわなかった。
まぶたに、彼のくちびるが落ちる。彼女を甘やかすためにあるはずのそのくちづけに、いつものおだやかさはなかった。彼女のからだを閉じ込める彼の腕は痛いほど強くて、それだって、嫌だとはおもわなかった。

「しんすけ」

顔じゅうに降りつもる、彼からのくちづけの隙をぬってなまえを呼んだ彼女に彼の、欲に濡れたままの瞳がうつる。きゅ、と寄った眉間は、どこか焦ってるようにさえみえた。かわいいと、彼が言ってくれるいつものことばを、突き返してやりたくなった。
きもちはおなじだと、あたまではわかってたつもりだ。それでも目で見て生まれるいとしさを止めることができなかった。ぬくもりも、手も、寄り添うからだも、彼女がほしかったものすべてをそろえておきながら、仕上げの優しさを忘れてしまうほどほしがる彼が、嬉しかった。
彼だって、寂しかったのだ。いちどめよりはずっとゆるやかに、彼女を追いつめようとする彼をしっかりと抱きしめてやるのも、だから今度は彼女の番だった。熱い息を吐きだしながら、鼻先をこすりつけてくる彼はまるで甘えてるみたいで、ひとのことばかり言えないじゃないかと、からかってやりたい以上に誇らしいきもちは大きかった。プライドの高い彼が、手放しで甘えるいまは彼女だけのものだった。
これからもずっとそうあるべきものだった。彼がくれた彼女のものに、何度も独り占めの証しを刻みつけてやりながら、彼の好きな啼きごえを惜しみなくあげて、腕のなかの彼が自分だけのものだと精一杯訴えた彼女を彼は、ゆびさきが食い込むほど強く抱き込んで、あの怖い衝撃から守ってくれた。
寝てねーんだよ。
彼女のなかから出ていったとたん、倒れ込んできた彼のぼやいたそれがひどく不本意そうだったのは、言いわけだったからだ。気を失うまでなんて言っておいて、気を失うように眠ってしまった彼の残した、起きたらまた頑張る、なんて、いかがわしいはずなのにただの意地っぱりにしか聞こえなかったことばを、おもいだして笑ってしまいながら、鋭い目を跡形もなく隠してしまった彼の寝顔を彼女は、じっと見る。
くちびるの隙間からこぼれる彼のかすかな寝息に、つられて閉じてしまいそうなまぶたをこじあけてでも、眠りたくなかった。さきに眠ってしまうのはいつだって彼女のほうで、さきに起きているのは彼のほうだ。気が抜けたように垂れおちた眉も、まつげのつくるかげも、目のしたに淡く浮いたくまだって、おぼえておきたかった。
向かい合った彼の額を、重力のまま隠す前髪に、ゆびを伸ばしてみる。中途半端に乾いた髪はたばをつくっていて、うまく梳いてやろうと身じろぎしたら、彼の眉間がむずがゆそうに寄った。彼女を閉じ込める彼の腕に、もっと引き寄せられたら、諦めるしかなかった。
当たり前の顔で風呂場に運んでくれる彼も、やっぱり当たり前の顔で着替えを引っぱりだしてくる彼も今日はいない。なんの邪魔もなく、湿った汗で吸いつくように寄り添った肌と肌のあたたかさは、心地よかったけれど、落ちつかなくもあった。
何度も噛まれた胸のさきが、寝返りも許してくれない彼のからだにこすられて、じくじくとうずくのだ。彼を受け入れるためにあふれたものはふとももまでつたっていて、すこしでも足を動かせばぬるぬると絡みあった。
くっついていたいきもちと、逃げたいきもちと、どっちに従えばいいんだろう。迷った彼女にこたえをくれたのは唐突な、チャイムのおとだった。

「起きねー、よな?」

閉じたままの彼のまぶたを確かめる。玄関から、リビングを抜けて、ふたりのいる部屋までぜんぶで三つのドアを隔てたチャイムは彼女がようやく気づけるくらいのおおきさで、彼に聞こえるわけがないと、わかっていても二度めが鳴ったとき彼女は慌てた。彼の腕をそっと、よけていく。
からだひとつぶん、彼から離れても、彼は低いうめきごえをいちどあげただけだった。彼女はほっと息を吐いた。
ただの郵便かもしれないし、もしかしたら彼の仕事に関わる誰かかもしれない。パジャマでもいいからとにかく急いで着替えよう。脱衣所に脱ぎ捨てた服をおもいえがきながら、できるだけベッドを軋ませないよう、床のうえに立ち上がった、つもりがもつれた足に引きずられてところが彼女は勢いよくしりもちをついたのだ。

「っ、てェ」
「…なにやってンだ」

アンタのせいだろ。まるでちからの入らない足の、責任はぜんぶ彼にあると、怒鳴ってやれたのはあたまのなかだけだった。シーツのうえをすべるおとと、軋むおとが、気だるげに背中へ近づいてくる。
せっかくの気遣いを、自力で無駄にしてしまった気恥ずかしさに彼女が、振り返ることもできずにいたら、彼の手が、両脇にもぐりこんできた。引きずり上げられて、からだがベッドに舞い戻った。

「…チャイム」
「ァア?」

向かい合わせに抱き込まれて、それでも意地で目を反らしたまま、つぶやいた彼女のあたまのうえでめんどくさそうにうなった彼のこえは、彼女に負けないくらいかすれていた。

「放っとけンな、」

言いかけた彼を、非難するように立て続けにチャイムが鳴った。忌々しげな舌打ちを残して、離れていく彼の、ぬくもりに、こっそり顔をあげた彼女が見つけたのは、むき出しの彼の背中だった。突き放されたようなきもちになった。寂しさを、からだごと彼女は掛け布団のしたにおおい隠した。
見慣れたTシャツにスウェットと、あたらしい眼帯を身につけた、彼の背中が遠のいてく。
ドアが閉まったおとがした、とたん、部屋のなかは彼女にとって、暗く冷たい場所になった。あたままで布団を引き上げた。湿った汗と彼のにおいで、自分を守った。
彼を取り上げた誰かが、憎らしかった。


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つぎでほんとのさいごです。
とにかくいちゃいちゃさせたかっただけです。


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