誰かの、細かい息と鼓動が耳ざわりだった。
その誰かは自分なんだと、気づいたところで他人ごとにしかおもえないほど彼女は、ひとりぼっちだった。曖昧な視界で彼をさがす。肩に引っ掛けた彼女の足を、シーツのうえに降ろしきる間際、したたかそうな笑みを浮かべたくちびるで彼女のひざにくちづける彼は確かに、手をのばせば届く距離にいるのに、ちからの抜けたからだはゆびさきさえ動くことを諦めていた。
届かなければ遠いだけだった。気持ちのいいことを、してもらうほどからだじゅうに染み込んでいくもどかしさが、入りきれずに破裂してしまう衝撃を彼女がはじめて知ったのは、二度目に彼に抱かれたときのことだ。
とてつもなく高い場所から、底のないどこかへ、一気に突き落とされる怖さに泣いてしまったそのときも、泣かなくなったそれからも、いつでもちゃんと、なみだを舐めとってもらえる近さに彼の目があった。汗と熱にうるんだ肌だって、隙間なくくっついた彼のからだが守ってくれると信じていたのに、いまは、冷たい空気が我がもの顔でまとわりつくだけだ。
優しい彼の体温がどこにもないんだと、ようやく自覚した彼女の、理性もプライドも抜け落ちたからっぽのあたまをいちどに埋めつくしたのは、寂しさだった。寂しさで心細くなって、心細さに不安を抱えこんだ彼女の、たくさんのなみだで溺れた瞳に、手を差し伸べてきた彼の、浮かべる笑みはけれど、なぐさめてくれるときにきまって浮かべる困ったような笑みとは、まるで似ていなかった。
ほんとにこれは彼なんだろうか。目じりをぬぐう彼のゆびが、彼女は知らない誰かのゆびにみえた。なにもまとわない肌をさらして、恥ずかしいことをされて、意地悪くささやかれて、それでも彼を受け入れてやれるのは彼の手や、温度が、いつだって大事にしてくれたからだ。
髪も撫でてくれない、くちづけも、あたたかさも、照れてしまうほどの甘いささやきもくれない彼と、無理やり押さえつけてきたあのオトコのいったい、なにが違うっていうんだろう。

「っ…わんな」

大事にしてくれない彼なんてほしくなかった。ふりしぼったちからで彼女は、必死に彼の手を振り払った。おもしろそうに片眉を跳ね上げて、彼がまた笑う。彼女のほしいものも、寂しさも、まるで見ようとしてくれない彼のその笑みに彼女は、もっとひとりぼっちになった。寂しくて、寂しくさせた彼に腹が立った。
満足げにくちびるをゆがませて、彼がからだを乗り上げてくる。
やっと手に入ったぬくもりにすがりつきたいきもちを、抑え込んででも彼のおもいどおりになんてなりたくなかった。片手をシーツのうえで我武者らにすべらせて彼女は、彼の胸がぴったりと寄り添う寸前、ゆびさきがつかみとったまくらの端を、全力で彼の横顔めがけて振り上げた。

「さわんなっつってンだ!」
「っな、」

ざまーみろ。狙いどおりぶつかった一度めに目を見開いた彼が、なにか言うまえにぶつけた二度めは彼の腕にあたった。三度めにはまくらごと取り上げられた。なにもなくなった手でだから今度は、彼の前髪を握りしめた。

「っつ、おい、落ち着け!」
「うるせェ!大ッ嫌いだてめーなんか!」

できるかぎりのちからで引っぱるその手も、手首を押さえつけられたら役に立たなくなった。無事なもう片方で彼を押しのけた。彼の顔に、苛立ちが浮かびだす。

「このハゲ!ヤクザ!」

両手をシーツに張りつけにされた。残った両足で彼の体重に歯向かうようにもがいたら彼の、舌打ちが聞こえた。

「引きこ、」
「っ落ち着けっつってンだろーが!」

腹の底から響くような怒鳴り声だった。彼女が、身動きを奪われたのは純粋に、驚いたからだ。いままでどんな文句を言ったって、どんなに怒ってみせたって、あっという間に受け流してしまうだけだった彼の、こんなに感情的なこえをはじめて聞くのがどうして、いまなんだろう。
だって悪いのは彼のほうだ。すこしも大事にしてくれない彼がぜんぶ悪いのにどうして、怒鳴られなきゃならないのが自分なんだろう。なんで伝わらないんだろう。すこしもわかってもらえないもどかしさと、悲しさと腹立ちと積もりすぎた寂しさが、ごちゃまぜのままふくらんでどうしようもなくなったのはきもちより、からだのほうがさきだった。
泣きすぎたこどものように、かすれたおとを立ててしゃくりあげたのどが勝手に、彼女の目からなみだを、引きずり出した。

「泣くこたねーだろォがよ…」

彼の、おおきなため息が聞こえる。それからゆっくりと、解放された彼女の両手は、彼の首すじに導かれた。
あらがう余裕はもうなかった。それでも最後の腹いせに、彼の肩をふちどるとがった骨の端に、噛みついてやったら、なにやってんだおまえ、とつぶやく彼のこえは苦笑いだった。すこし遅れて彼女のあたまのうえを、ポン、ポン、とはずみはじめた彼の、叱ってるのかあやしてるのかもわからないくらいおだやかな、手のひらが、彼女自身さえどうすることもできなかったきもちを簡単に、しずめていく。

「いじくりまわされたのが気にくわねェっつーんなら、謝まんねーぜ俺ァ」
「…っンタが、」

ひっ、ひくっ、としゃくりげるこえに合わせて、揺れる肩が、ことばをつくる邪魔をした。焦ってつづきを吐きだそうとしたら、ただでさえ仰向けで、飲み込みづらい唾液が、へんな場所に引っかかった。咳きこんだら、大忙しだなおい、と笑いまじりにつぶやいた彼の両手が、両方の脇に差しこまれた。
彼ごと持ち上がったからだが、彼の太もものうえに降ろされる。
すこし下を見おろしたさきで向かってきた彼の、探るようにほそまった目に彼女は、精一杯の強さで睨みつけて返した。

「アンタが悪ィ…っ」

彼の眉が、不審げに寄った。

「ぎゅって、してくんねーし…っキスもぜんぜん、してくんねーし、っ」

してほしいのに、してもらえなかった不満を、おもいつくまま並べあげるごとに彼の目は、おおきく見開いていった。前髪をよけてもくれなかったし、瞳をのぞきこんでもくれなかったと、言い終わったときにはけれど、目の前からなくなった。
額を彼が、彼女の肩に押しつけてしまったからだ。彼女の背中を抱く彼のうでに、ちからがこもる。やっと反省してくれたんだと、満足したころにはなみだも嗚咽もおさまっていた。
代わりに言いたいことはいくらでも湧いた。今度は彼のつむじに向かって、かわいいとも言ってくれなかったことを責めた、そのあとで、なみだを吸いとってもくれなかったと、言ってやるつもりだったのに彼の、二度めのおおきなため息が、彼女の鎖骨のうえをすべっていくほうがさきだった。

「参ったな」

そうつぶやいた彼のこえは、笑っていた。
ちっとも反省してねーじゃねーかコノヤローと、怒鳴りつけてやるつもりだった。小刻みに揺れだす彼のからだを、突き飛ばしてやるまえに、けれど、持ち上がった彼の、笑みが、あんまり嬉しそうに崩れきっていたものだから、用意していたはずの罵声も忘れて彼女は、彼に見入った。

「おまえ、とんでもねー甘ったれになっちまったなァ」

彼の両手が、頬を包みこむ。
鼻先がぶつかるほど近づいてきた彼の、ただでさえ崩れた顔は、もっとクシャクシャになった。参った。もういちど彼がつぶやく。

「かわいくてどーしょもねェ」

すこしも参ってないこえで彼がくれた、いつものことばに彼女がいつもどおり、はにかんで笑ってやれたのは、彼からの、くちびるで触れあうくちづけのあとだった。


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えろほん的にはゼロトラップです。
強気にゃんにゃん的にはワントラップ。そしてつぎはまたえろトラップ。



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