映画や本で泣くことならあった。けれど、現実への衝撃に泣いたのはもしかしたら、はじめてあの悪魔に殴られた日以来かもしれない。
本気で泣くとこんなに疲れるものだったのかと、どこか新鮮なきもちになりながら彼の、肩に額を擦りつけてみた。彼のちいさな笑い声がした。

「ハナミズつけんなよ?」

慌てて鼻をすすったら、彼はまた笑った。
彼の片手はあいかわらず俺の髪のなかだ。ゆびとゆびのあいだに絡めてみたり、ゆびさきでつまんでみたりを、繰り返してくれるくらい彼が気に入ってるんだとしたら、大嫌いだったこの髪も好きになれそうだ。
すこし通りのよくなった鼻で、控えめに深く、彼のにおいを吸い込んでみる。うすい灰色をしたTシャツに、染み込んだタバコのにおいは知ってたものと変わらなかった。けれど、かいだことのないいい匂いもした。
香水にしては飾り気がなかった。洗剤のにおいだろうか。それとももしかして、オンナの移り香だろうか。

「だァから、痛ェっつってんだろーがこのバカ力」

加減が腹立ちにいつのまにか負けてたらしい。後ろ髪を遠慮なく引っ張られたおかげで、首が仰け反った。彼の顔が視界に現れる。
さっきとおなじように困り顔の笑みをつくる、きれいな眉に、細くなった目に、持ち上がったくちびるに俺は、キスしたいとおもった。首すじにだってしたい。背中にだって、胸にだって、腕にも足にもゆびさきにも、彼のからだのぜんぶにしたい。さわりたいと、自覚したとたんしたくてたまらなくなった。おとなしくしていた鼓動が騒ぎだした。
彼のくれたことばは、どれほどのものを受け止めてくれることばなんだろう。好きでいてもかまわないのはわかった。そのへんのやつらよりは特別にかわいがられてるのもわかった。
だからって、俺の抱えてるきもちとイコールなわけじゃない。おもちゃよりはずっといいけれど、恋人にまでは届かない。きっとそのくらいだ。抱かせてほしいなんてだから、すくなくともいまはまだ言えない。
でもキスくらいなら、許してもらえないだろうか。抱きついて、甘えて、髪にさわるのとおなじ扱いになってくれないだろうか。ぜんぶじゃなくてもいい。頬だけでもいい。目じりだけでもいい。できればくちびるにもしたいけれど、嫌だと言われたら我慢する。たぶん、我慢できる。

「あの、晋助さん」

肋骨をぶち破って飛び出てきそうなバクン、バクン、とうるさい心臓に、なんとか打ち勝って吐いた声はびっくりするくらい、弱々しかった。情けなさにまた顔が熱くなった。不審げに彼が眉間を寄せる。これが不機嫌に変わったときは、土下座してでも謝るしかない。

「キス、なんて、さしちゃもらえません、ですか、ね…?」

語尾にいくほどかすんでいったのは、ことばを増すほど彼の目が見開いたからだ。
そんなに予想外だったんだろうか。あからさまに驚いた彼の顔はやたらと無邪気で、ああやっぱりキスしたかったなと、未練でいっぱいの諦めを吹き飛ばす勢いでところが彼は、吹き出した。

「おま、っンだそれ…っ」
「え、ちょ、笑うとこ?」

腹を折り曲げてゲラゲラ笑う彼に、今度は俺のほうが驚く番だ。
カッコ悪いのは自覚してるけれど、そんなのこの部屋に来たときからだ。なんでいまさら笑うほどのことがあるんだろう。
どうしたらいいかわからないまま突っ立っていたら、彼が大きく息をついた。

「そんなんでおまえ、よくホストなんざやってられンなァ」

ようやく収めた笑いの名残に、にじんだ涙をゆびさきでこすりながらからだを立てなおした彼は、俺と目が合ったとたん最後にまた、ククッ、とこもった笑い声をあげた。

「わざわざ聞かなきゃできねーなんざ小学生レベルだろォが」
「っしてもいいの?!」

彼がまた、困ったように笑った。そう気づいたときには彼のくちびるは、俺のくちびるに触れていた。
すこし乾いた、やわらかいものが、離れていくのはあっという間だった。目を閉じる暇もないまま遠くなる彼の顔を見送るしかなかった俺に、彼は、悪戯げな顔でニンマリと笑った。

「これで終わりか?」

引き寄せられるなんてことばは、いまのためにあるんだろう。あんなにうるさかったはずの心臓が、黙り込んだのは、聞こえなかっただけかもしれない。
目で見えるものだけがすべてだった。ゆっくりと、彼のまぶたが伏せていく。彼の、黒いまつげが揺れる。目を閉じるのがもったいなかった。薄目を開けたまま、近づけていった俺のくちびるが、笑みをつくったままの彼のくちびるに届くまでひどく、長い時間がかかった気がした。触れたとたんにからだじゅうの、熱が、あたまのなかに流れ込んだ。
なにも考えられなかった。盗られるのを怖がるみたいに両手が彼を引き寄せる。くちびるだけで足りるわけがなかった。がむしゃらに舌を差し出すのを、わかってたように開いてくれた彼のくちびるはやっぱり笑ったままだった。舌が、舌に絡まる。

「ん」

声になり損ねた彼の吐息はひそやかで、熱かった。どうやったらもっと聞けるんだろう。そんなことばかり叫ぶ熱に踊らされるまま、舌のとどく場所を手当たり次第に舐めた。
歯ぐきをたどって、上あごをたどって、舌の根元からさきのほうへ這っていって、行き止まりを傷つけないようにやさしく、噛んだ。彼の肩が跳ねた。おなじ場所をゆっくり、丁寧にしゃぶってみたら、つかまるものを探すみたいに彼の両手が、俺の肩をつかんだ。
こんどは彼が、俺の舌を噛んだ。弱いのに、無視できないむずがゆさが走った。ゆびさきが、彼の腰のうえでひくんっ、と跳ねた。
ふ、ふ、とこもった息がふたりぶん、唾液と一緒にくちのなかで溜まる。いつまでだって続けていたかった。けれど彼が、なんの前触れもなく手のひらで、ジーンズごしに俺の性器を、撫でた瞬間、驚いて自分から引きはがしていた。

「どーすンだァ?それ」

からかう素振りでいっぱいの笑みを浮かべて、彼が視線で示したさきには俺の、硬い布ごしでもわかるほど興奮したものがあった。くちづけに夢中になってた俺の、あたまのなかを占領してた熱がぜんぶ、顔にまわった。
咄嗟に両手で隠すよりけれど、ほんのわずかさきに、彼の両腕が俺のくびに絡まった。耳もとに彼の、息がかかる。

「抱くのと抱かれンの、どっちがいい?」

投げかけられたささやきに、つばを飲み込む以外俺に、なにができたっていうんだろう。
電池の切れた機械みたいに動けなくなった俺に、いつもの、喉を鳴らして笑う彼の笑いかたが、いつもの比較にならないほどあまくひびく。

「まぁ正直、このまえみてーなことになんなら抱かれンのは遠慮してェけどな」

と、言い終わったとたん彼が俺の耳を引っぱり上げた。
彼のこえに酔いきってたぶん無防備に、いでで、とみっともなく唸った俺を、彼がくいっ、と眉をあげて睨みつける。

「テメーがなにしでかしやがったのか覚えちゃいねーけどなァ、おかげでこっちはダルすぎてバイトにも行けやしねェ」
「…すんまっせんした」

謝るのはこれで何回目だろう。大好きなだけに余計、とがると気まずく感じてしまう彼の目に負けて、俺は顔を伏せた。

「なんせ、はじめてだったモンで」
「…ンだって?」
「や、あの、お恥ずかしいことにドーテーだったっつーか、マジ舞い上がってたっつーか」

性欲は人並みにあった。べつにモテなかったわけでもないし、養われてたときはともかく仕事をはじめてからはその手の店に行く機会もあった。行けばいくらでも誘いがきた。
ただどうにも気が向かなかったのはもしかしたら、自覚もないままずっと、彼にしか興味がなかったからなのかもしれない。彼をまえに、はじめて降ってきた結論に、密かに納得してたら彼が、ひどくおおきなため息を吐いた。
どういう意味のため息だろう。考えるまえに、勢いよく腕を引っぱられた。

「ちょ、晋助さん?」

ふいをつかれた隙に彼が、俺のからだを引きずって歩きだす。
ひとりで住んでるにしては広い部屋も、何歩かすすめばすぐに行き止まりだ。ちょうどソファの真後ろにあったドアを彼が開けた。そのさきにひろがる闇に、ひとたばだけ明かりがさした。
明かりのしたでは、ひとりで寝るには充分すぎる幅のベッドが俺に足を向けていた。あたまの脇にはちいさな棚があって、そのうえにはスタンドがひとつあった。
ドアより一歩だけ入り込んだところで、彼が俺の腕を離す。成り行きに流されて突っ立っていた俺を置いて、ひとりで奥へ進んでいった彼は、ベッドにぶつかったところでなんの躊躇いもなく、着ていたTシャツを、脱ぎ捨てた。

「しょーがねェ、抱かせてやるよ」

ベッドの端へダルそうに座り込んで、彼が言う。
はんぶんだけ明かりに照らされた顔はいつもどおりのめんどくさがりなくせして、しろい肌はなめらかだった。鋭角的な肩のラインはまるで噛みつくためにあるようで、なだらかに浮いた鎖骨にも、あばらにだって、言われるまま食らいついてしまいたい。だからって、彼が嫌がることはしたくない。うまくできるかどうかもわからない。また辛いおもいをさせてしまうかもしれない。
それなら別に、俺が抱かれたって構わない。最初はキスだって諦めかけてたくらいだ。彼とセックスできるだけでも充分だと、言い聞かすには彼を見ていられなかった。床に逃げた。

「ゲイのやつらの常識なんざ知らねーけどよ、すくなくともおまえは、抱かれるほうが好きってわけじゃね−んだろ?」
「や、けど俺、あんたが嫌ならべつに」
「だったら俺以外のやつ抱くっつーのか?」
「っンなこと、」

できるわけないだろうと、焦りは怒りに近かった。おもわず顔を上げたら彼は、いままで見たことのない笑みを浮かべていた。どこか挑むようでそして、どうしようもなくやらしかった。
喋る余裕なんて打ち破られた。血が、どこに駆け込もうとしてるかなんて、うんざりするほどわかってる。

「まともにセックスもできねーガキが俺のオトコなんざ冗談じゃねェ」

まるでケンカを売るような鋭さですうっ、と細まった彼の目が、俺を睨みつける。
あたまから足のさきまで見下すように、俺を見定めようとする彼はひどく高慢で、なのにすこしも腹なんて立たなかった。

「おまえが俺しか抱けねーなら、俺が抱かせてやるしかねェだろう?」

追い立てられるだけで、精一杯だ。
一歩一歩、踏み出す足にあわせて鼓動が増す。彼のまえで立ち止まったときには、オーバーヒートで爆発するんじゃないかとおもった。緊張のせいじゃない。膨れあがった期待のせいだ。歯を、食いしばる。もうすこし落ちついたほうがいい。そうじゃなきゃまたひとりで突っ走ってしまう。でもどうやって落ちつけばいい。彼を見なきゃいいんだろうか。そんなの無理だ。一瞬だって惜しい。
動けもしないくせに見つめるだけなら必要以上の俺に、なにも考えてなさそうだった彼の顔がすこしずつ、苛つきを上塗りしていく。余計に追い立てられた。焦りでがちがちに強ばったからだが、バランスを崩すのなんて簡単だった。
腕を片方引っぱり込まれて、倒れ込んだからだの真下には、不機嫌そうな彼がいた。

「待たされンのは嫌いなんだよ俺ァ」
「けどし、っ」

あたまの後ろを両手で無理やり引き寄せられたら、さいしょに鼻先がぶつかった。強引なくちづけは、そのあとだ。喋りかけで開きっぱなしだったくちのなかに、舌をねじ込まれるのは目を瞑るよりはやかった。濡れて、なめらかな彼の肉が、からみつく。
味見するみたいにゆっくり、頬のうらがわを舐めとったとおもったら、狂いのすこしもないすばやさで俺の舌をつかまえてきて、舌ぜんぶでもてあそんで、なんて、勝手で余裕だらけの動きは、俺から仕掛けたさっきのくちづけと大違いだった。あのときはわざと大人しくしてたんだろう。俺を試してたんだろう。

「っふ」

吐息を漏らすのだって今度は俺のほうだ。彼の閉じた目が、閉じたまま意地悪く笑みをつくる。悔しいと、おもうのもバカらしかった。ぬるついた感触に、どんな高い酒を飲んだときより酔っていた。自然に俺のまぶたも伏せていく。
落ちつこうなんて、かんがえるだけきっと時間の無駄だ。あのときといまの彼は違う。俺がどんなに突っ走ったって、いまの彼なら殴ってでも止めてくれるだろう。だったら俺は、彼が気に入らないと言い出すまで好きなことをするだけだ。
酔いにまかせてひらきなおったらあとは、欲だけが残った。シーツに押しつけるしか能のなかった手で、彼の肌を探したら、脇腹を見つけた。ずっと食いつきたかったあばらの端から、反対側の端をめざしてゆびで、そっとたどる。

「っ、」

彼が、息をつめた。ふともものしたで彼のひざが、かすかに跳ねあがったら、触るくらいじゃどうしたって足りなくなった。
名残惜しさを押しこめて、くちびるを離す。浮かせたからだのおかげで視野が開けたとたん、美味そうな場所がそこらじゅうに転がっていて、めまいがした。いったいどこから手をつけたらいいんだろう。ほんの一瞬の躊躇のあいだに、彼のからだがずり上がった。
逃げるつもりだろうか。いまさらそんなの拷問じゃないかと、反射的に視線ですがりついたら彼は、苦笑いを浮かべた。

「なんつー顔してんだおまえ」
「っだって、あんたいま逃げよーとしたじゃねーか」
「…おまえこんな端っこで最後までやるつもりか?」
「…あ」

どうりで足もとが不安定だったはずだ。ベッドの端に引っかかっただけのじぶんの膝を、前に進めることも後ろに引くこともできないまま、恥ずかしさにうなだれてたら彼の、飽きれたため息が聞こえた。

「今さらどこにも逃げやしねェよ」

続けて聞こえた衣擦れのおとに恐る恐る、顔を上げたら、気だるげにシーツのうえを這い上がっていく彼が見えた。ベッドの真ん中で座り込んだところで彼は、俺に向かって野良犬でも呼び寄せるような適当さで手招きしてみせた。それになんの疑問もなく従う俺は、きっと一生このままなんだろう。

「おまえ相手になんで逃げる必要あンだよ」

からかうみたいにそう言いながら彼が、向かい側まで追いついた俺のTシャツを両手の届く高さまでまくりあげる。

「気に入らねーときゃ気に入らねーって言やァいい。聞かなきゃぶん殴ってやるだけだ」

残りを自分で脱ぎ捨てて、ふたたび顔を向けたら彼は、ひどく楽しげに目を細めていた。

「それでも聞かねーならしょうがねェ」

ククッ、と喉で笑いながら、彼が首すじに腕を絡めてくる。
耳もとに直接入り込んでくる彼の声と、肌と肌を合わせる心地よさとこれからへの期待に、浮かれたあたまのなかをところが彼は、あまやかしてはくれなかった。

「食いちぎってやらァ」

予想以上の凶暴さに俺が怯むことなんて、予想どおりだったんだろう。彼は息だけで笑って、俺の耳を噛んだ。それだけで、都合の悪いことは忘れてしまえる都合よくできた俺のあたまだって、彼にはお見通しだったんだろう。

「続きは?」

それでもいいとおもってしまえるほど、彼の浮かべた笑みが持つ毒は、強かった。



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