いつから彼は気づいてたんだろう。
俺自身も知らなかった俺のほんとうのこころに、気づいたのは俺に抱かれてからだろうか。もっとあとになってからだろうか。それとももうずっと前からだろうか。
どういうつもりなんだろうか。彼のテリトリーに迎え入れてもらうチャンスを、みずから俺の目の前にぶらさげてくれる程度には興味を持ってくれたんだろうか。それともただ、みっともなくあがく俺を眺めて遊びたいだけなんだろうか。
彼はいったいなにを望んでるんだろうかと、一週間だ。一週間、起きて飯を食って眠るのとおなじくらい当たり前に毎日、俺は考えた。仕事中にだって考えた。ろくに話も聞かない俺に気を悪くした客を、なんとか取りなした隙にまた考えた。
行き詰まるたびに、誰かに聞こうかとおもいもした。ヅラなら、いままでみたいにしつこく突き詰めればバカ正直になにかこぼしてくれるだろう。あの悪魔だって、俺が本気だとわかればヒントのひとつくらいくれるかもしれない。なのに、捨てきったはずのプライドが往生際悪く邪魔をした。ふたりは彼の友だちで、俺にはなにもない。それを、思い知るのが悔しかった。
誰にも聞けないならいっそ、彼に聞けばいい。わからないならわからないことを伝えるしかない。わかるまで、つきまとってやる。こたえにならないこたえとやけくそじみた覚悟だけが俺の、一週間かけて手に入れた頼りない武器だった。
彼の住むマンションは、真新しいけれど小ぶりだった。住宅街に押し込められた狭い敷地に、来客用の駐車場なんてない。彼のしごとが終わるころを見計らって、はじめて俺は彼の家に電車で来た。
ひとの汗と湿ったエアコンのにおいが移ってやしないだろうかと、駅からの道を歩きながら何度も、Tシャツのそでに鼻を近づけた。手のひらに浮いた汗だって、何度もジーンズにこすりつけた。月も星もない夜空は汚れた灰色だった。さきの見えない俺の未来に、まるで同調したような不透明さだった。
ちいさな階段を二段のぼったさきの、エントランスはオートロックで、開けてもらえないならずっとここで待ってるとごねる覚悟でいたのに彼は、名乗っただけでなにも言わずに解錠してくれた。エレベーターの重力なんて話にならない荒っぽさで、俺の心臓は浮いたり沈んだりを繰り返していた。彼の部屋のドアのまえで、チャイムを押す前にもういちどだけ、ジーンズにこすりつけた手のひらはきっと、震えていただろう。

「おもったより早かったな」

ドアの向こうから現れた、何年もかけて見慣れたはずのあの、悪ガキみたいな彼の笑みを俺は、はじめて怖いとおもった。

「で?」

素っ気ないくらい片付いた部屋の、ちいさなローテーブルをはさんだ目の前のソファに、もたれこみながら彼は言う。

「どーやって口説くって?」

組んだ足に片肘を乗せた手で、支えた顔に浮かんでいたのは俺次第だと言った一週間前とおなじ、皮肉げな笑みだった。そこには、たくさん抱えていた疑問のうちひとつだけこたえがあった。
彼には俺の気持ちなんてただの、おもちゃだ。覚悟していたはずなのに俺は、がく然とした。立ち尽くしたからだの両脇で、ぶらさげた両手を握りしめながら彼から、目を反らす。
彼は、喉を鳴らして笑った。

「ンだよ、考えてきたんじゃねーのかァ?」

わざとらしく間延びさせた彼の声が、バカにしてるみたいに聞こえた。実際、バカにされてるんだろう。自分から乗り込んできたくせに、ひとことも喋れないまま突っ立ってるだけだ。恥ずかしくて、首から顔へ一気に熱が這い上がった。
彼の声が、また笑う。はやく、はやくなにか、言わなきゃいけない。でも、なにを言うつもりだったろう。あんなに考えてきたのに、ひとつもおもいだせなかった。見下されたってバカにされたって、どんなに冷たく拒まれたって、そんなことくらいで彼を欲しい俺の気持ちは負けたりしない。何度だって食いついてやると、あんなに自分を信じてたはずなのにいまじゃもう、逃げ出さないだけで精一杯だ。
知らなかった。真剣なおもいを、真剣に受け取ってもらえないのがこんなに、悔しくて情けなくて悲しいことだったなんて。

「あんただけなんだ」

どうしたらいい。泣きそうだ。詰まった息を吐き出すのと一緒に飛び出てきたことばは、無意識なだけむき出しのきもちだった。

「クソアニキにぶん殴られンのも金ねーのも、夜遊びさしてもらえねーのだって好きでもねーオンナに愛想振りまくのだって、頭悪ィ先輩どもにいびられンのだって、なんだって俺、我慢できンだよ。どーってことねーんだよそんくらい」

あたまで考えるのをやめたとたん、ことばは勝手になだれをつくった。かわりに涙も、感情のまま垂れ流してしまいそうだった。

「けど、あんただけは無理なんだ。諦めらんねーんだ」

これじゃあただの子供だ。彼が欲しいと、くれるまで帰らないと、駄々をこねるしか能のないそこらのバカなガキどもと一緒だ。
上乗せになったみっともなさにせめて、泣くのだけはやめておこうとおもいきり鼻をすすったら、泣きたい自分を余計自覚するだけだった。

「好き、なんです」

最初のひとしずくが流れ落ちたらあとは、手遅れだった。

「ほんと…っ、どーにもなんねーくらい、好きなんです」

薄茶色をした清潔そうなフローリングに、ぼたぼた涙が降っていく。
なんてかっこ悪いんだろう。泣き落としなんて、めんどくさがりな彼がいちばん嫌いそうなやり方じゃないか。

「…もーちっと遊んでやるつもりだったんだけどな」

静かな部屋で、どんなに抑え込んでも響き渡る俺の、しゃくりあげる声に彼の、ため息がまじる。

「泣かれちゃしょーがねェ」

すんません、とくちのなかだけでつぶやいたら、彼の立ち上がる気配がした。追い払われるまえに自分から出ていこうと、おもうのに、近づいてくる彼の足音から離れたくなかった。
だって一週間ぶりだ。みっともない泣き顔を見られるのははずかしいけれど、それでも顔くらいは記憶におさめてから帰りたい。
はりついた涙を拳で乱暴にこすりとりながら、うっとうしそうにされるのを覚悟で顔をあげたら、彼は、笑っていた。

「おまえほんと鈍いよなァ」

皮肉げでもない、悪ガキじみてもいない、困ったような笑みで俺を見上げる彼に俺ができたことといったらただ、まばたきだけだった。

「俺がおまえ以外のやつ手当してやってんの、あんとき見たのがはじめてだったんじゃねーのか?」

彼が、俺の大嫌いな金色の髪をひとにぎり、ゆびさきで楽しそうにつかみとる。
おかげで俺の大好きな緑色は、どれくらいぶりかもわからない近さにあった。話を聞かなきゃいけないのはわかっていた。でももっと、見ていたかった。
どっちにも集中できずにとまどってる俺のことなんて、筒抜けだったにちがいない。彼はつかんだ髪をあっさり顔ごと押しやった。
離れてしまった距離にいったい俺は、どんな顔をしたっていうんだろう。彼はまた困ったように笑うとこんどは、手のひらぜんぶでいちどだけ、髪をかきまわしてくれた。

「やってやったことねーんだよ。おまえ以外に」

黒いコットンパンツのポケットに、彼が両手をしまい込む。

「どっかの鈍感ヤローがいつまでたってもくっだらねーまね続けやがるから、いい加減俺もイラついててなァ」

きれいな右の眉を高飛車そうにつりあげて、彼はいつもみたいに意地悪く笑ってみせた。俺は、謝るくらいしかおもいつかなかった。さっきとおなじようにすんません、とつぶやいたら彼は、ハハッ、と声を出して笑った。
目じりに、かすかにできあがった笑いジワを、かわいいなんて言ったら怒られるだろうか。

「目ェ覚まさしてやるつもりでおまえンち行ったら、ちょーどいい具合に末っ子がぶっ倒れてやがったからよ、ダシに使わしてもらったんだよ。…まぁまさか、あそこまで効果あるとはおもわなかったけどな」

あいつにゃ悪いことしたと、つぶやきながら彼が、目を伏せる。
すこしも悪くなんかない。あんなやつ、彼に手当てしてもらっただけで釣りがでるくらいだ。だからもう、あんなやつのことなんて考えないでくれと、言っていいのか我慢したほうがいいのか悩んでむしゃくしゃしてたら、彼がふ、とちいさな息を吐き出した。
薄いくちびるが、かすかな笑みをつくる。

「昔っから弱ェんだよ、おまえには」

つまらない悩みなんて、一瞬でふき飛んだ。

「ガキのくせして、どんだけぶん殴られたって冷めたツラしやがってよ。そのくせ俺見たとたん目ェきらきらさして飛びついてきやがる」

つりあがってたはずの眉をこんどは垂れさげて、また、困ったみたいに彼が笑う。
困らせてるのは俺だろうか。勘違いじゃないだろうか。ほんとに、俺でいいんだろうか。

「もーちっと焦らして遊んでやるつもりだったのによ、泣かれちまったらなァ」

しょーがねーよなァと、ひとりごとじみたことばに、ため息を添えて彼が、顔をあげる。拍子に揺れた、赤茶けたまっすぐな彼の髪に、触りたかった。けれど、触っていいのかわからなかった。
放っといたら勝手に伸びていきそうな手をTシャツのすそに必死でしばりつけていたら、彼の手が、俺の髪にのびた。

「歯ァ折られたって泣かなかったヤツが、俺に好かれたくてボロボロ泣いてんだぜ?」

俺の手とはまるで違う、乾いてさらさらした彼の、神経質そうなゆびさきが、跳ねまわった髪のあいだに潜り込んでいく。

「かわいくねーわけねェだろ」

空っぽになったのは一瞬だった。その一瞬の隙をついて、俺の両手は彼に飛びついていった。
加減も知らないバカな俺の手が、溢れかえった感情のままちからいっぱい彼の腰を抱き寄せても、彼は怒らなかった。ただ、痛ェよアホ、と笑ってつぶやくだけだった。あやすみたいに俺の背中を叩く彼の手に、また泣きそうになった。ずっと触りたかった彼の髪に触れたときには、ほんとうに泣いた。おまえ今日はよく泣くなァと、おもしろがってるのか飽きれてるのかわからない彼の声は、優しかった。死ぬほど殴られたって死にたいなんておもったことはなかった。これからもきっとおもわないだろう。
でもいまなら俺は、死んだっていい。



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