聞き慣れた派手な物音が聞こえた。今日は悪魔の機嫌が悪いらしい。弟の、息をきらした怒鳴り声が跳ね返っていく。
頭の悪い弟だ。歯向かったところで余計に痛い目をみるだけなんだと、いつまでたっても学習できない。今度はガラスの割れるおとがした。あーあ、と適当につぶやきながら、寝起きのあたまを掛け布団の奥深くから引きずり出す。
できるだけ薄く開けた瞳に差しこむ、カーテンごしの日のひかりは時間まで教えてはくれなかった。けれど、いまが夜じゃないことだけわかればそれでいい。
あたりまえの時間に起きるひどく贅沢な気分と、エアコンの乾いた涼しさと薄っぺらい布団の柔らかさに包まれて目覚めることのできる、今日は水曜日だ。もういちど、視界を閉ざす。

「行きたくねーなぁ…」

うわっつらの会話と酒とひとから開放される喜びよりずっとでかい、彼へと挑まなきゃならない夜に向けてのゆううつは、ヅラのことばを聞いたぶんなおさらだった。まぶたを腕でおおい隠す。どうしろというんだろう。持てるすべてでもって演じた本気だ。なのに本気じゃないとバレてるのなら、もうどうにもしようがない。
諦めるしかないんだろうか。どうやったって俺は、彼にとってどうでもいい存在のままなんだと認めるしかないんだろうか。

「っ、あークソ」

あの日の彼の声や態度をおもいだしたら、悔しくてイラついてしかたなかった。なのに抗う手段がなにもない空しさを、散らすには寝るくらいしかおもいつかなかった。
感情で満ちた頭とはべつに、からだはまだ休みたかったんだろう。簡単に意識が途切れて、それからどのくらい寝たのかはわからない。唐突に目が覚めたときにはもう、争う音がどこにもなかった。
上半身だけを起こす。布団をはぎとったら、パジャマがわりのTシャツとハーフパンツにエアコンは寒いだけだった。枕もとに放り投げてあったリモコンを切る。そのまましばらくぼうっとしていたら、玄関のドアが動く音がした。
鍵が壊れたのは何年も前のことだ。盗まれるものなんかなにもないし直す金もないからと、放っておいて以来いつも空きっぱなしのドアの音が、誰かの出ていくためのものなのかそれとも入るためのものなのかは、だからわからない。出ていったのならいい。けれどもし入ってきたんだとしたら、チャイムもなしに出入りする他人なんて、彼以外にありえない。
押しこめたはずの感情がふたたび、腹のなかにじわじわと染みだしてくる。
顔を合わせたらきっと、もっとひどいことになるだろう。けれどいい加減のどが乾いたし、腹も減った。それに、このまま居ないふりをするのは諦めた証拠みたいで、余計に悔しかった。
嫌がるからだを無理やり立ち上がらせる。手なぐさみに頭をかいてから、あくびひとつで足を踏み出した。
古い階段が、一段ごとに軋んだ音をあげる。夕方の一歩手前に違いない、柔らかい暗さにあふれた廊下は、静かだった。居間への扉をまえにして俺は、いちどちいさく息を吐いた。彼がいないことを望む気持ちを糧に、扉を開けたさきには彼と、弟がいた。
居間の真ん中にあるちゃぶ台の横で、みっともなく腫れた弟の頬を、灰色のタオルごしに彼の、手が、包んでるのを見て俺の、すべてが途切れた。

「っ、にやってンだテメェ!」

最初に取り戻したのは彼のその声だった。俺の肩を押し戻そうとする彼の手に、呼び戻された目にはあの悪魔とおなじ銀色をつかみあげる自分の左手と、腫れたうえからまた殴りつけた右手と、鼻から血を垂らした弟の顔と彼の、いっぱいに開いた右目があった。俺を殴る悪魔のすがたをはじめて見たときの彼と同じ目だった。逃げ出したくなった。沸き上がった罪悪感にひるんだその隙に、舌打ちが聞こえた。脇腹に、重たい衝撃が走る。
彼に蹴られたんだと気づいたときには、カーペットのうえで息をつめてうずくまる自分がいた。さすがあの悪魔のダチをやってるだけあるなと、ようやくすがたを現しはじめた理性でさえ最初に訴えたのは、彼のことだった。

「出てけ」

聞いたこともない冷たさで言う彼の、見たこともない鋭さでとがった緑色は、やっぱりひどくきれいだった。この目も、丁寧な手も、知ってていいのは俺だけだ。だって俺の場所だ。俺が彼を独り占めできるゆいいつの居場所だと、本能でできた感情がからだじゅうを血のように駆けめぐっていたんだと、いまならわかる。

「出てけっつってンのが聞こえねェか」

意識を飛ばしたんだろう、ゆびさきひとつ動かさずに倒れている弟を、彼は背中にかばいながら立っていた。殺してやるつもりでいたとおもう。俺の居場所をとった弟を、彼に引きはがしてもらえなかったらきっと、俺は殺していた。
息苦しさを浅い呼吸でやり過ごしながら、ゆっくりと立ち上がる。
喉の乾きも空腹も、もうどうでもよかった。打ちのめされていた。彼の視線から逃げ出したい一心で、動かしたからだがドア一枚を境に彼と引き離されたとたんその場で、座り込んだ。

「…バッカじゃねーの」

情けない声を、吐き出した拍子に脇腹へ鈍い痛みが走った。片手で押さえ込む。なにが、夢中にさせてやるだ。なにが切り捨ててやりたいだ。認めてもらいたいだの同じ場所に立ちたいだの、ほんとはどうでもよかったんだろう。あの悪魔のことなんかどうだっていい。彼が俺を見てくれるなら、彼のすべてを征服できるなら、理由なんてなんだってよかったんだろう。夢中なのは俺のほうだ。すがりついてでも彼を手に入れたがってるのは、俺のほうだ。
どうしよう。いまさらどうすればいいんだろう。放心状態のくせに、彼に許してもらうことばかり考えていたあたまのなかは、背もたれにしていたドアが反対側から押しつけられる感触に、唐突に現実に引き戻された。焦って立ち上がった、拍子に、また脇腹が痛みを訴えた。つめた息ひとつで耐えながら、からだを一歩ぶん前進させる。
振り返ったらきっと彼がいるだろう。意識のない弟を抱えて二階に運んでやるつもりかもしれないし、彼ひとりかもしれない。どっちにしてもきっと、蔑んだ目で俺を見るだろう。守ってもらった恩も忘れて、あの悪魔とおなじ生き物に俺が成り果てたんだと勘違いしてるだろう。もしかしたら目も合わせてもらえないかもしれない。
それでもいい。聞こえてくれればいい。俺がされてきたこととおなじことをしたけれど、おなじじゃないと、居場所をとられて腹が立っただけだと、本気なんだと、本気で彼がほしいんだと、彼には信じてもらえないかもしれない。どうせいままでの延長線だろうとおもわれたって仕方ない。信じてもらえるまで言い続けるしかない。
だって、本気じゃないから相手にしてくれなかったというなら、本気だとわかれば相手にしてもらえるかもしれないじゃないかと、まとまらないあたまですがりついたたったひとつの希望をぶら下げて、振り返った。彼はひとりだった。
彼は俺をまっすぐに見ていた。彼の背を追い抜いたのは何年も前だ。見下ろしてやれるだけの場所にいまではいるはずなのに彼が、俺よりずっと大きな存在に見えたことに、無視されずにすんで喜ぶよりさきに俺は、怯えていた。
言うはずのことばをどうやって音にするかも思い出せずに、ただ固まるしかなかった俺に彼は、あの悪ガキじみた顔で笑ってみせた。

「いい加減、自覚したよーなツラしてンじゃねェか」

ことば自体も忘れ去った。背中にずわっ、と鳥肌が立った。

「よく聞け、この鈍感ヤロー」

言いながら彼が、俺のTシャツの襟元を引っぱり寄せる。
息苦しさとともに彼の目が、ひどい近さに迫った。

「いままでみてーなそこらの女ども相手にすンのと同じ手使ったって俺ァ、どーにもなんねェぜ。言ってる意味分かるか?」

ささやくように彼が言う。その声に俺の、気が狂ったみたいな鼓動が重なる。

「おまえ次第だっつってンだ」

皮肉げに弧を描いた彼の目に俺は、息も忘れて魅入っていた。
投げ捨てるみたいに俺を引き離して、いちども振り返らずに家のなかからすがたを消した彼の、背中を見えなくなるまで俺は、ただ呆然と見つめていた。玄関のドアが閉まるおとと、どっちが早かったかはわからない、意識が追いついたときにはその場に、しゃがみ込んでいた。

「ヤバい、って」

ゆびさきで、寝乱れたままの金髪を握りしめる。足も、手も、震えていた。吐き出した声まで震えていた。
怖かった。手に入らないかもしれない恐怖と、手に入るかもしれない期待に、気持ちばかりが焦っていた。彼を手に入れるためならなんだってできる、その自信は確信なのに。
なにをすればいいかなんて、ひとつもおもいつかない。



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