「なーんでオチねーかなァ」

俺はつぶやきに合わせてダラダラと動いていた足とモップを止めた。木製の柄にあごをのっける。明かりの消えた店のフロアにはいま、俺と男がもうひとりしかいない。つぶやいたことばをさまたげるだけのひとの声も音楽も、なにもないはずなのに男は、フロアの端を占めるバーの黒いカウンターを無言で拭きつづけいている。
閉店後の掃除は下っ端の役目だ。勤続年数と反比例に当番の回数は増える。といっても、働きだして一ヶ月強でトップの売り上げにのぼりつめた俺のことを、気に入らない上のやつらに押しつけられるおかげで居残るのは毎日俺とそれから、雇われ店長のこの男のふたりだけだ。ガキみたいな嫌がらせにいちいち腹を立ててやるほどの甘さなんてとうの昔にあの悪魔に忘れさせてもらったのに、バカな連中には見抜けないらしい。
悪魔は俺をほとんど殴らなくなった。弟もそれはおなじだ。遊ぶひまもなしに限界まで働く生活が、平気な顔をしててもストレスだったんだろう。養われるだけの俺たちに八つ当たりでもしなきゃやっていけなかったのかもしれない。兄弟三人ぶんの食費と、弟の学費を俺が出すようになってから悪魔は、悪魔から死んだ目をしたただの男の顔に戻ることが多くなった。
ほんとうに機嫌の悪いときは相変わらず理由なく殴りかかってくるけれど、見た目が売りの仕事だ。金の価値を誰よりも知ってるあの悪魔にそれがわからないはずがない。おかげでいまでは、殴られるのはもっぱら弟の役目だ。
あのひとにかばってもらうこともだからない。というより、あのひとが俺の家に来てるのかどうかもわからない。仕事が終わって帰るころにはもう朝だ。来てたって会えるわけがない。予備校からあのひとの家までの短い間だけが勝負なのにすこしも進展がない現状に俺は、そろそろ焦れていた。
手強いほうがやりがいがでるのはほんとうだけれど、ほんのすこしでも成果があってこそのやりがいであって、ひとつの手応えもなしに時間だけ過ぎていくのはさすがに、キツい。

「なーヅラァ、なにがいけねンだとおもう?」
「ヅラじゃない桂だ」

さっきの知らないふりをくつがえす素早さで鋭く睨み返してきたこの男は、悪魔やあのひととは同級生らしい。高校時代に悪魔とふたりで店のバイトをはじめて、この男だけそのまま居残ったんだという。
真っ黒な長い髪と生真面目な顔つきの、まるで昔の武士のような外見を裏切るバカさ加減に、あいつと喋ってっとイライラしてくんだよなァ、と昔の話を聞かせてくれたときの悪魔のついたため息には俺も同感だ。けれど、嫌いにもなれない。嘘の多い世界で決して嘘を言わないからだ。それにいまでは、あのひとを落とすネタを見つけるための貴重な情報源でもある。
あの悪魔にはとても聞けなかった。たいして本気でもないはずの彼の蹴りひとつで俺を殴るのをやめるすがたを俺は、何年も見てきてる。理由なんてそれで充分だ。
男は暗闇を見極めるみたいに苦々しく細めた目を、おおげさなため息ひとつで俺から反らした。几帳面な手つきがカウンターのうえをもとどおり行き来しはじめる。

「そもそも、あの男はゲイではない。落ちなくて当然だ」
「や、でもよォ、一回寝てンだぜ?そのへんいまさらじゃね?」
「だったらなおさらだな。たしかにあやつはどうしようもないロクデナシだが、バカじゃない」

黒い大理石が、ぞうきんにこすられるたびにキュッキュッ、と規則的な音を鳴らす。それを壊さない単調さで男は言った。

「お前が本気かそうでないか、見極めるくらいわけないことだ」



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かつらっぷの雇い主はきっとさかもっち。
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