今日こそ殺されるかもしれないと、近づく足音におびえながら部屋に潜むのが日常だった。
腹違いだという弟が、現れるまえのことだ。俺の家族はひとりだけだった。両親は顔も知らないままこの世から消えていて、保険金だけじゃまかなえないぶんの学費や生活費を、たくさんの怪しいバイトでおぎなってくれていたのが三つ違いの、兄という名目を引っさげた悪魔だった。
将来の夢なんかないけれど食いっぱぐれのない仕事の可能性も減らしたくないと、毎日徹夜明けのまま高校に通っていた悪魔はいつも、一日のうちでいちばんサイアクな体調と機嫌を連れて家に帰ってきた。目が合った瞬間無言でぶん殴られるだけならまだマシだった。夜のバイトに行くまでの短い睡眠時間を削ってでも俺を探し出そうとするときには必ず、意識がなくなるまで殴られて蹴られた。だからってそのとき家にいなかったりしたらもっと酷い目にあった。帰らないなんて選択肢は俺にはなかった。
たまに機嫌のいいときには一緒にふざけ合って遊んでくれることもあったけれど、それはほんとうにたまにだ。養ってくれてることへの感謝以上に、恐ろしさを味わわせてくれる悪魔の、引きずるような足音をひとつも漏らさず伝えてくれることだけが、親が残したボロい一戸建ての唯一の美点だと俺は、いまでもおもっている。
金具の錆びた玄関のドアが開く音、閉まる音、と、あの日もいつものように部屋のベッドのなかで追いかけていた。リビングへ向かってほしい足音が階段をきしませたときには、自己防衛本能なんだろう、いつからか、殴られる気配を感じると決まって襲ってくるようになった得体のしれない眠気に、いつもどおり逃避していた。布団を引きはがされたときにはもう、諦めと覚悟に背中を押されるまま目を閉じていた。

『ハッ、マジでおんなじ顔してらァ』

笑いを含んだ男のよく通る声よりさきに、家には馴染みのないタバコのにおいに誘われてそのとき俺は、目を開けてしまったようにおもう。
くわえタバコで俺を見下ろす男はあの悪魔とおなじ制服をおなじだけ着崩していたのに、だらしなさはすこしも感じなかった。タバコを挟むゆびさきをじっと見つめてしまったのは、目の前にある知らない男のその手が、俺を殴らない確信がなかったからだ。

『アンタ、にーさんのダチ?』
『あそこまでぶっとんじゃいねーけどな』

喉を鳴らして笑う男の片目は白い包帯に隠れていた。さらにそのうえをおおい隠す長い前髪は赤茶けていて、それにまっすぐだった。
金時だなんて、名前を道連れにしてくれるほど派手な色と落ち着きのない伸びっぷりを持った髪が、銀か金かの違いしかないあの悪魔とゆいいつ、互角に張り合えるだけコンプレックスだった俺は、男の髪を単純にきれいだとおもった。
興味があるのかないのかわからないような気だるい男の少ない問いかけに倍以上の言葉を使って答えてしまったのはただ、殴られないですんだことが嬉しかったからだ。男は俺を殴らなかった。すこし遅れてすがたを見せた悪魔はいつもどおりなんの前触れもなく俺を殴ったけれど、吹っ飛ばされる俺に目を見開いた男が悪魔を蹴り返してくれたおかげで、その日はくちびるをすこし切るだけですんだ。

『ったく、見境ねェなあいつァ』

だるそうに部屋を出て行く悪魔の背中にむかってつぶやいた男は、そのへんに転がっていたティッシュで俺のくちの端をつたう血を拭いてくれた。乱暴なことばに、似合わない丁寧さは、俺にはひどく居心地が悪かった。そのくせ振り切るなんてことはおもいつきもしなかった。ひどく近くから覗き込んでくる男の隠れてないほうの目は緑がかっていて、ガラス玉みたいな透明さに俺は、見入っていた。

『つぎやられそーになったら股間蹴り上げてやれ』

悪魔にしてはマトモなダチ持ってんじゃねーか。いまと変わらない、悪ガキみたいに目を細めてみせた彼にはじめて出会った俺がおもったことは確かに、それだけだったはずなのに。



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やばい、金高たのしい。
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