医師免許を取ってからようやく使えるくらいにまで鍛えられた三年目、入局と同時に待っていたのは地方の関連病院への出稼ぎと当直の嵐だった。体力的なキツさはあったけれど、それだけなら別にどうにだって耐えられる自信が高杉にはあったし、実際耐えることができた。
耐えられなかったのは、面倒な上下関係だ。医者の世界なんて良くも悪くも体育会系で、上の言葉は絶対なんだと、学生のうちから身を持って知ってはいたけれど、それでもどうしても叩きのめしてやりたかった医者十何年目の男が、クスリの横流しに手を出してるなんてネタを掴んだのが四年目のはじめのことだ。男を遠い山奥に追いやるついでに、世間にバラされたくなかったら好きにやらせろと病院長をおどしてやれば、医局への名ばかりの籍と自宅での仕事を許してもらうかわりに与えられた条件が、月何回かの勤務と学会発表への参加だった。
慢性的な人手不足なんだと頭を下げられて、そのくらいなら別にいいかと受け入れてから、もうすぐ一年が経つ。学会シーズンの春先に、研究発表の手伝いの話が舞い込むのは、だから予想のうちだった。
どうせやるならとことんやるのが信条だ。自分の名前が入るからには完璧な論文をつくってやると、かかげた目標を達成するために切り捨てる必要があったのが、彼女との時間だった。邪魔されたくないというよりは、自信がなかったからだ。
いつでも手のとどく場所に彼女がいて、集中できるわけがないのははじめて彼女を仕事場に入れたときにもうわかってることで、なのに手を伸ばしちゃいけないなんてそんなのは、ストレスのかたまりだ。ひとつのことにのめり込んだらほかのことには目もいかないなんていままでの自信も、オマエにはちっとも役に立つ気がしないんだと、苦笑いで会えなくなる理由を伝えた高杉に彼女が、嬉しいのと寂しいのとがごちゃまぜになったような複雑な顔をみせたのは、ほんの一瞬のことだった。
ちゃんとメシ食えよ。アンタ放っといたらすぐどーしょもねー生活すんだから。
十歳以上も年上の自分に向かって偉そうに説教をする勝ち気で生意気で、それからどうしようもなくかわいい生き物を高杉が、泣き出すまでかわいがっていじり倒してやったのは十日前のことだった。

「…ッセーよっ!」

頭の横で鳴り続ける電子音に、高杉は苛立ちまかせで仰向けのからだを持ち上げた。
ベッドのうえでぐったりと座り込む。騒音の在処を手さぐりでつかみ取りながら、真っ暗な部屋を開けるのも面倒な目で見回したら、自分の動き以外に物音を立てない空気のなかで、みつけた時計は午後十一時すぎを指していた。
クソ、まだ二時間も寝てねー。空いた片手がほとんど条件反射でサイドボードのタバコの箱を掴み上げる。ライターで火をつけながら開いた折りたたみの携帯から、聞こえてくるのがもしかしたら彼女の声かもしれないと、寝起きの頭でもかすかに楽しみにしてたのは間違いじゃない。
十日間、律儀に電話ひとつさえしてこなかった彼女の、とうとう寂しさに負けたんだという声に、あと二日もすれば全部終わるからそしたら会いに来いと返すためなら、予定より早く起こされたのも無駄じゃない気がしかけてたのに。

『もしもーし、チビ杉くんですかー』

よりによってコイツかよ。せっかく準備していた返事を、高杉は白い煙に変えて一気に吐き出した。
なにが嬉しくて寝起きでこんなバカヤローの声を聞かなきゃならないんだろう。隠す気なんて端からないうんざりしたため息に、けれど相手が負けないくらいうんざりしたため息を吐き出したのが聞こえた。

『オマエさァ、まだ仕事終わんねーの?俺そろそろ限界なんですけど』
「…あー」

覚醒しはじめた頭がたどり着いた答えに、二度目の煙を吐き出すくちびるが持ち上がる。
恋人のいなくなった時間を、埋めてもらう誰かに自分の兄を選ぶくらい彼女がブラコンなら、兄のほうも兄のほうで、他人の男を彼女に寄せ付けたがらない程度にはシスコンだ。ふたりの利害が一致した挙げ句のあおりを、電話ごしのあの銀髪が食らったところで高杉にとっては、いい気味だとしか言いようがない。
ザマみろ。内心を表せるだけの含み笑いに、相手がもういちどため息で返す。

『そりゃあ銀さんだって、おんなじ顔したかわいい子ふたりがイチャイチャしてんのは嫌いじゃねーですよ。実際こっそり写真に撮っちまったりとかしましたよ』
「テメェそれ、まさかズリネタにしちゃいねェだろォな」
『ちょ、オマエ俺のこといくつだとおもってンの?!ンな想像力に花開かせる時代はとうの昔に卒業したわ!』
「信用なんねェなァこの妄想キング」
『ちげーよ!キングオブオナニーは俺じゃなくてヅラ!って、だからそーじゃなくてよォ』

いつも気だるいはずの男のめずらしく苛立った声に、高杉は声を出して笑った。

「そーじゃねーならなんだっつうんだァ?」

あくまでのん気な声をつくりながら、考える。できあがった原稿を教授に見せにいって、あとはもらったアドバイスどおりに手直しするだけだ。明日の朝いちで見せに行って明日のうちに無理やり終わらせることもできないわけじゃない。
ただ、やりたくなかっただけだ。無理やり終わらせなきゃいけないほど彼女に会いたがってるだなんて、いい年してみっともないとおもうプライドも、あの男に貸しをつくる名目があるのなら、妥協させてやれる。 だからあと一日だけ待てと、言うまえに男が、わかった、と、やけに真面目な声でつぶやいた。

『単刀直入に言う。オマエ今からソッコーで隣来い』
「はァ?そんなモン無理に決まってんだろ」
『俺だってもー無理なンだよ。とーしろうだけならともか、っわ、ちょ、待ってトシちゃん!これはダメ!これはとーしろうのモノだからね!』
「っおい、」

ガタンッ、となにかがぶつかる音がした。とたんに物音で満ちた電話の向こうから聞こえた男の慌てた声に、彼女の声がかぶさるのが高杉にはわかった。からだが勝手に立ち上がる体勢を整える。

『やだ、おれもぎんちゃんにする』

いったいなにが起こってンだと、言う前にほんとに立ち上がることになった。冗談じゃねェ。無意識にタバコごと歯を噛み締めた高杉の、足は着実に玄関へ向かう。
ドアを開けた、と同時に襲った夜の風を、追い散らすほどあたまのなかは熱で渦巻いていた。甘えたこえが許せなかった。たかが十日ほっといたくらいで余所に目を向けるような女じゃない。そのくらいはわかってるつもりだ。けれどあんなこえを、向けられていいのは自分だけじゃないのか。他人に聞かせてやるなんて、許したつもりはひとつもない。
フィルターを食いちぎる前に、高杉は最後の煙を吐き出してタバコを放り投げた。

『や、俺ゲイだから!トシちゃん女の子だからっつーかとーしろう!なにテメーまで脱がしてんだコノヤロー!』
『うるせーおとこをみせろぎんときぃ』
『見せちゃいけねーオトコのサガだろこれはァ!』
『にーさん、ぎんちゃんがおれのこといやだってゆった』
『んだとぉ?ぎんときてめー、おれのいもうとのなにがふまんだぁ』
『俺はオマエに不満だらけだよ!』

どうやって懲らしめてやろうか。足に引っ掛けたサンダルを、アスファルトにこすりつけて歩きながら、開きっぱなしのまま手のなかに、ぶら下げていた携帯の向こうの声を、聞き取るだけの冷静さは残ってなかった。


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ほんとただのバカ話です。
冒頭は完全に作り話です。実際可能かどーかはわかりません。ただ高杉なら
やれんじゃないかなって。



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