玄関を開けて彼女がいちばんさいしょに気づいたのは、銀色のベスパが壁の影にひそんだままだったことだ。
なんだかんだ言って仲いーんだよなあのふたり。昨日と変わらない青空を跳ね返す薄汚れたベスパを、通り過ぎながらついこぼしてしまった笑みはけれど、たどり着いた隣の家の玄関の前でしかめっつらにつくりなおしておく。
過去の彼をそう簡単に許してやるわけにはいかないと、訴える良識に兄とふたりでグチをこぼしあったのは眠りにつくまでのことだ。
だからって過去のせいで今日の彼を手放すのは惜しいと、目覚めてすぐに気がついてしまった素直な欲に、おなじだけ素直になってくれないプライドをなだめるためには午前中いっぱいかかってしまったけれど、せっかく一日中一緒にいられる日曜日の、半分くらいは機嫌の悪いふりをしておけばいいと、おかげでみつけたうまい妥協案に気を抜いたら含み笑いしてしまいそうなくらい、彼女はいま機嫌がよかった。
ちょっとは慌てりゃいーんだ。いつも余裕ばかり見せる彼の、余裕のない顔をおもったとたんこぼれそうになった笑みを奥歯を噛み締めて耐えながら、押したチャイムのボタンにニセモノの鈴の音がこもる。
名前も知らない鳥の声が、乾いた空気をのん気に震わせていた。ゆるい風が前髪をかきあげていったおかげで、乱れた髪のたばをゆびの先でつまんでなおす。ついでに後ろでくくってある髪をもういちどくくりなおして、それでも、足音はひとつも近づいてこなかった。
寝てンのか?彼女は、今度はわざとじゃなく眉をひそめる。
できたばかりの恋人が、不健康な食生活は平気でするくせに朝はちゃんと起きるんだと知ったのは、彼のベッドで彼と一緒に眠ることをおぼえてからだ。
一日あけて訪れた彼の家のテーブルに、三食ぶんのインスタントフードやコンビニ弁当の空き箱が積み上げてあるならまだマシなほうで、なにもないときはなにも食べてないときだ。タバコと酒がありゃ別にかまわねーし、と当たり前の顔で言い放つ彼にメールか電話で、ちゃんとメシ食えよ、と釘をさすのは会いに行けない日の決まりごとにいまではなっている。
料理なんてすこしも興味がないという彼の家のキッチンは、はじめて見たときには炊飯器とポットくらいしかなかった。いままでのオンナにつくってもらうことはなかったのかと聞いた彼女が、そうなるまで続いたことがないと返してきた彼と、あたらしい鍋や食器を買いに行ったのははじめて彼の家に泊まった日の次の日の朝のことで、そのときからずっと、彼のベッドで目覚めて最初に見る光景は、タバコを吸う彼の横顔だ。
気だるい雰囲気そのままの寝汚さを想像していた彼女を、職業病だ、のひとことで裏切ってくれた彼が、こんな昼間まで寝てるなんてだからありえないと、確信と疑問をごちゃ混ぜにしながら彼女は、最初より強くチャイムを押した。それから最初よりもうすこし長く待って、それでもやっぱりなんの気配もない時間が、積み重なるにつれて彼女は、腹が立ってきた。
テメーらに仕返しする権利はねーだろ。非難されるだけされてふてくされたのかもしれないダメなオトナふたりを、想像するのは簡単だった。おかげでせっかくの企みをぶち壊してくれた悔しさで倍増した腹立ちにまかせて彼女は、ドアを蹴った。
ガンッ、と鈍い音に、やっぱりなんの音もかえってこないまま、足を降ろしたのは、転げ落ちそうになったサンダルをしっかりと履きなおすためだ。もういちど振り上げた足で二発めを蹴る。三発め、四発めと蹴りおわったところで、こうなったら窓を蹴り破ってやろうかとおもいついたころになってやっと、聞き慣れた乱暴な足音なしで動きだしたドアのさきに、居るにちがいない兄の恋人になんて文句を言ってやろうかと、頭を使うだけ無駄だった。

「っくっせェ!」

現れた銀時の死ぬほど青い顔に、考えるよりさきに叫んでいたからだ。

「ちょ、アンタどんだけ飲んだンだよ!」

鼻の奥に染みつくんじゃないかとおもうほどの、酒というより消毒液をぶちまけたと言われたほうが納得しそうなくらい強烈なアルコールのにおいに、両手で口元を被いながらおもわず後ずさった彼女を、予想よりずっと、ダメどころか死体みたいな顔でながめる銀時の、着ているTシャツはびしょ濡れだった。
つーか、ゲロくせーし。まだらに色を変えた、たぶん白いはずだったTシャツからできるだけ目を反らしながら、晋助は、と、けれど聞くひまもなかった。

「うぶっ」
「っぎんちゃんっ?!」

突然目を見開いたと同時に銀時が、彼女と反対方向に向かって壁にぶつかりながら駆け出したのだ。呆然と見送った背中が消えていった、リビングのドアの手前にあるドアが、開けっ放しだったことに気づいたとたん彼女が、聞きとったのは、喉がひっくり返ったような音だった。
いつからあそこに居たンだろーな。いままで聞いたことのあるより段違いに不健康な音に、こぼしたため息は自分自身と、それから兄へ向けてのものだ。銀時が兄とふたりで酒を飲むのはよく見る場面だし、男がそんなに酒に強くないのはだから知っていたけれど、ドアを、開けたくても開けれない状態になるほど酔いつぶれたすがたを見せてもらうのははじめてだ。それだけ、ふてくされてたんだろうと、おもったらダメすぎる兄の恋人がなんだかかわいくおもえてくるのはきっと、兄のほうが余計なんだろう。
兄さん呼んできてやろーかな。自分よりもうすこし意地っぱりな兄が、恋人の面倒を見る名目でしょうがなくのふりをしながらやってくるのを、想像してゆるんだ顔はけれど、たった一歩踏み出しただけで一気に濃くなったいろんなものが入り交じる異様なにおいに、一瞬でこわばりきった。
やっぱ、もーちょっとマトモになってから呼ぼう。銀ちゃんけっこーカッコつけだもんな。こんなとこ見られたらヘコむよな。自力でトイレまで行ってくれたぶんのご褒美だと、おもうことにして彼女は、ドアのほうを振り返った。サンダルを脱いで、片方だけドアのつなぎめのあいだに挟みこむ。
半分に切り取られた外の世界に、こもったにおいが逃げていくのを確認してから、うす暗い廊下へとふたたび足を踏み出せば、水の流れる音がした。からだの中のモノが逆の方向に流れていく音が、やんだことにほっとする間もなくふたたび鳴りだしたほうへ、近づいていく。
便器にすがりついてる男のちいさく丸まった後ろすがたについ、あーあ、と、声に出してつぶやきながら彼女が、かがんでさすってやった男の広い背中に、張りついたシャツは、汗で冷たく湿っていた。

「だいじょぶか?」
「ぜんっぜん、だいじょぶじゃねーです」

まだ酒抜けきってねーんじゃねーか。いつまで飲んでたんだよいったい。ふらついた銀時の言葉に、驚く彼女を無視した情けなさで銀時は、あー、と便器のなかに向かって唸り声をあげる。

「としちゃーん」
「んん?」
「あいつまだおこってっかなぁ」
「怒ってねーよ。なんなら呼んできてやろーか?」
「だめだよぉ、こんなかっこわりーとこぎんさんみせらんねーよぉ」

とーしろー、とつぶやきながら便座に顔をすりつける銀時に彼女は、吹き出しそうになった。
兄さんが見たらどんな顔すっかな、とおもっていたら今度は、うへへ、と変な笑い声が便器のなかにこもりだす。

「でもさぁーおれよりさぁーあいつのほーがもっとかっこわりーとおもうんだよなー」

兄さんのどこがかっこわりーってンだ。ものすごくダメなすがたをさらした銀時に、自分の兄をかっこ悪いなんて言われる筋合いはない、なんてムッとしてるヒマなんてところがどこにもなかったのだ。

「だってよぉーねげろだぜねげろー」
「…兄さん、寝ゲロなんてしたことあったか?」
「ばっかちげーって、とーしろーじゃねーって」

ウソだろ。つぶやく声の弱さに反比例な勢いのよさで彼女は、立ち上がった。反動でさすってやっていた手にかけた体重が銀時の頭を便座にゴスッ、と音をたてて打ちつけてしまったけれど、かまってやれる余裕なんてなかった。一歩で届くさきのリビングのドアに手をかける。
酔いつぶれて寝てるんだろうとはおもってたのだ。銀時でこれなんだから、飯のかわりに酒を飲むような男でもいつもみたいに平気な顔をできる状態じゃないんだろう。だから出てこなかったんだろうと、後回しにしてただけ余計に焦って開けたドアの向こうで、出会ったのは、湿った空気にこもったにおいと閉め切ったカーテン、二ケタに近い一升ビンの群れとそれから、食べ物の成れの果てを口から床に垂れ流したままテーブルの隣に横たわった、恋人のしかばねだった。

「っ、しんすけっ」

トラップみたいに転がるビンを、よけながらたどり着いた彼の顔は銀時とおなじだけ青かった。しゃがみこんで彼の顔に手をかざしてみたのは、吐いたもので息ができなくなることもあるんだと、酔いつぶれて大の字になった後輩たちを横向きになおしてやってる先輩をおもいだしたからだ。
手のひらにあたるかすかな熱に、とりあえずホッとした彼女はつぎに、彼のからだを揺さぶってみた。

「晋助、オイ、生きて、っ」

うわ。彼のくちからあらたに、でろっ、とこぼれてきた黄色い液体に、つぶやいた彼女の眉間にしわが寄る。余裕のないところを見たいとおもったのはほんとうだし、ふてくされて酔いつぶれた銀時をかわいいとおもったのとおなじだけ、一緒にふてくされてるに違いない彼を早く見てみたいとおもったのもほんとうだけれど、さすがにこれは、かわいいの範囲を越えてるだろう。むしろ、一生見ないままでよかったんじゃないだろうか。
どーすっかな。汚れてないことを確認した範囲に、座り込んだとたんもうひとりのダメなオトナが遠くで苦しげに喉を鳴らすのが聞こえてきた。ため息を吐いて彼女は、考える。
酒ビンを片づけて床を拭いて換気して、そのくらいならひとりでもできる。まだ酔っぱらってるにしても意識はある銀時には、吐くだけ吐いたあとで自力で着替えさせればいいし、トイレで寝てしまうなら寝かせたままドアを閉めておいて、起きてから銀時自身に片づけさせればいい。けれどこの、完全に意識のない彼のまわりを、片づけるには彼を動かさなきゃならないのだ。
自分ひとりでは無理だし、銀時はたよりにならないし、だからって放っといたら部屋はきれいにならないし、そもそもこの事態を招いたのは自分ひとりが理由じゃないと、決心したところで彼女は、立ち上がった。
ごめん、銀ちゃん。トラップをたまに蹴り飛ばしながら、向かったさきは彼の寝室だ。
いつもどおりサイドボードのうえに置いてあった彼の携帯で、直接番号を押してから何回目かのコールのあとに、聞こえてきた兄の声は、知らない番号のせいか不信げだった。

「あ、兄さん?」
『ンだ、おまえか。あのヤローのケイタイか?』
「そう。俺のはそっちに置いてきちまったからさ。兄さんいま家にいンだろ?」
『ああ』
「あのさ、いますぐぞうきんと銀ちゃんの着替えと消臭スプレー持って晋助ンち来てくんねーかな」

ゲロまみれなんだよふたりとも。苦笑いでそう言った彼女にちょっとの間のあとで、ぜんぶをわかったようなため息を、聞かせてくれてから数分後、彼の家に足を踏み入れた彼女の兄がサイアクだ、のひとことと一緒に見せたのは、この世の終わりのような顔だった。
背中を蹴り飛ばされた銀時が、振り返ったとたんくちのまわりをベタベタに汚したまま、とーしろー、とふらふらと立ち上がったときにはもう、彼女の予想どおり、しょーがねーなぁ、と言いながら笑っていたけれど。


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つぎはぎんさんとひじかたくんがいちゃつきます。


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