手のひらに頬を押しつけて、支えていた彼女のあたまがかくんっ、とくずれ落ちた。
 その衝撃と一緒になって、木製の机のうえを前のめりにすべった片ひじに驚いて背筋をぴんと伸ばした、彼女の、くちびるの端を伝っていったのがよだれなんだと、からだのうえ半分ばかりを暖めてくれる暖房のおかげですっかりぼやけていた理性が、ぬくもった頬をもっと熱くするまでには、すこしだけ時間がかかった。
 あごの近くまでみちをつくったよだれを、誰にも見られてないことを願いながら、それでもなんでもないふりで彼女は手の甲でこすりとった。部屋のおおきさに見合わないほど巨大な暖房が、ぎこちないおとを立てながら彼女の真正面を、突風みたいに暖かく乾かしてくれていて、はやく拭わないと、カサカサになるまでこびりついてしまいそうだった。
 それが済んでから部屋のなかを、怪しまれないようできるだけ少ない動きで見まわしてみる。
 三階建ての校舎の、いちばんうえの階の端にある、教室よりはお情けで広い図書室の閉館時間はいつもなら、部活のない生徒の下校時刻とおなじ午後五時だ。けれど前もって誰かが申請しておけば、七時まで開けておいてくれる。
 その時間まで開いているのは、十月あたりまでならテスト期間くらいだけれど、十一月をすぎたころから公立の後期試験が終わるまでは、ほとんど毎日だ。
 何列か並ぶ細長い机を、飛び石みたいにぽつぽつと埋める生徒たちは、なまえは知らないけれど見覚えのある顔ばかりだった。真剣な目だったり、眠そうな目だったり、たまに諦めたような目だったりで、見慣れた教科書や、見慣れない参考書と向き合う顔ぶれをひととおり見渡して、懐かしいきもちになれるだけ、いまの彼女には過去のことだった。足並みをそろえて彼らとおなじような顔を、いろんな組み合わせで何度も繰り返してきた毎日とは先週、ひとあしさきにさよならをした。
 彼女が机のうえにおいてあるのは、だからたいして数もない本棚から適当に引っぱりだしてきた、外国の小説だ。おもしろくなくてもかまわなかった。時間さえすぎてくれればよかった。部活があればもっと簡単にやり過ごせるけれど、引退してからは顔も出しにくいし、勉強なんて彼女にとっては、邪魔なものでしかなかった。
 ちょっと遊んだくらいで落ちるようなやり方はしてないと、歯向かう隙もくれずに彼が家に入れてくれなくなって、三ヶ月以上になる。
 出席だけとればいいような授業と、卒業式の練習のために学校に来れば毎朝、黒板のまえで眠そうに立ちつくす彼の顔を見ることはできたし、話すこともできた。けれど彼女は、ほかの誰でもできることなんてほしくなかった。
 学校の彼はいつだって、みんなのものだ。自分にだけ許されているものがあると、安心できるものじゃなきゃ意味がなかった。彼女だけに与えられた特別な時間を奪われて、そのあいだに別の誰かにとってかわられるんじゃないかと焦って、それでもどうすることもできない、手段を持たない自分に苛つく毎日から解放されて、今日やっと、彼に会いにいける。
 彼女は、窓のむこうを見た。
 深い紺色に浮かぶ、丸になりきれない月のよわいひかりと、正確に丸い電灯の真っ白い明かりに照らされて、狭いグラウンドを走りまわる野球部の青いユニフォームが、ちいさな紙切れみたいに遠くで散らばっていた。
 ボールを打ち返す透きとおったおとに、負けないくらいとおりのいい誰かのかけごえがあがる。長くのびて、消えるとおもったら、別の誰かがまたこえをはりあげるから、まるでこだまみたいに、途切れずいつまでも続いてきこえた。
 入り口のほうに、最後に彼女は目を向けた。
 灰色の引き戸のすぐそばにはかたむいた受付があって、下校時刻を過ぎてからはいつも、図書委員のかわりにそこを陣取る定年間近の世界史の教師が今日も、シワに埋もれた目をもっと細くして、革張りの分厚い本を眺めていた。
 乾いた頭皮をまばらに隠す白髪から、彼女はまっすぐうえを見上げた。しろい円のうえを走る黒い針は、もうすこしで六時に追いつくところだった。おもわずちからの抜けてしまった顔を、慌てて逃がした本のページは、見開きから三回めくったところで止まっていた。
 すこしも覚えていない内容に、なんの未練もなく、彼女は本を閉じた。
 膝のうえにかけておいた黒いピーコートをとりあげる。ハイソックスと、ふとももの半分までしかないプリーツスカートのあいだで、さらされた素肌が、机のしたにこもる冷たい空気に震えるまえに立ち上がった。
 コートを着込んだらたくしあがってしまったセーラーの裾を、引っぱってなおして、隣の席にかけておいた赤いマフラーを、鼻のあたまが隠れそうなくらいぐるぐる巻きにする。
 ポニーテールにした黒髪を、手さぐりで整えてから彼女は、マフラーの下に隠れていたかばんの、内ポケットにしまっておいた携帯を取りだした。
 今から行く、と、メールを打つあいだにもういちど、緩んでしまいそうになった顔は、くちびるをつよく結んでやり過ごした。
 残業なかったら六時以降、あったらさっさとじぶんち帰れ。
 昼休みの準備室に、質問のふりをして押し掛けるのはいつものことだったけれど、彼の家に行きたいと言いだしたのははじめてだった日のことだ。すこししぶい顔をしたあとで、プリントの裏に雑な地図をひとつ書いた彼が、地図と一緒にぶっきらぼうに渡してきたその約束を彼女は、いまでも守っている。守ることは彼の責任と、自分の立場と、ふたりの時間を守ることにもなるんだと、知っていたからだ。
 彼の家までの道のりを、彼と並んで歩きたいとか、夜中に唐突に会いに行きたいと、おもうことはあっても、だから決してねだったことはない。夜九時にはかならず帰されてしまうけれど、文句を言ったこともないし、親にだって友達にだって、ほんとは自慢したくてたまらないけれど、誰にも言わずにいる。
 もうあとひと月の我慢だ。ひと月して、お互いがお互いにとっての余計な肩書きを捨てたときには、ぜんぶ好きなだけ叶えてもらおう。それが、いまの夢だ。
 携帯をもとどおりしまったかばんを肩にかけると、もう片方の手で彼女は本を掴んだ。
 目指す本棚まで、踏みだす足は小走りになってしまわないよう気をつけた。けれど、受付を通りすぎるかたわら、本に夢中の教師にきもちだけ頭をさげて、入り口の引き戸をくぐり抜けたあとは、ためらうことなく足を早めた。
 誰もいない、真っ暗な廊下にひびくのは、彼女のあしおとだけじゃなかった。反対側の端には吹奏楽部の部室があって、防音のはずの扉から漏れているのは、卒業式に在校生がかならず歌う曲だった。
 おととしも去年も、この時期には飽きるほど歌わされた曲だ。メロディーをたどる、すこしおとのはずれたトランペットにつられて彼女は、すこしだけ歩くスピードを落とすかわりに、鼻歌をのせてみる。
 やる気のかけらも見せない彼のことが、大嫌いだったのは一年の冬までだ。
 なかなか授業に来ない彼を、日直だった彼女が準備室まで呼びにいったら彼は、ソファに寝っ転がったまま、先週やった小テストの丸つけをしていた。
 もーちょい、あと三枚。振り返りもしないで言った彼のこえはのんびりしていて、彼女は、うす汚れた白衣の背中を踏みつけてやりたくなった。それでも、彼を教室に連れていくまでが彼女のしごとで、終わるまで待つしかないと、苛々しながら彼の、銀色だなんてふざけた色の天パと、気の抜けた横顔をながめていたときだった。
 誰のものだったのかはいまでもわからない、残ったうちの一枚をまえに、彼は笑った。
 どーしょもねーなこいつ。つぶやきながら、赤のボールペンでおおきく丸を書いた彼の、笑う顔は、ことばどおりバカにしたようなものじゃなかった。諦めからくるものでもなかった。ただ、楽しそうで、やさしかった、その日がはじまりだった。
 二年の春、彼に最初の告白をした。
 振られる用意ははじめからできていた。傷ついても立ちなおって、また挑む覚悟がもてるだけの時間が欲しかったから、連休がはじまる前の日を彼女は選んだ。帰りのHRが終わって、ほとんどの生徒が帰るまで待ってから、職員室にいた彼を、相談があると言って準備室まで連れ出した。
 たばこのにおいとジャンプでいっぱいのそこが、学校にいるあいだの彼の住処になっているのは誰だって知っていたけれど、くすんだ灰色をした机の引き出しに、チョコレートが隠してあることを知ったのははじめてだった。
 教頭には内緒な。笑って、半分に割った板チョコの片方を投げ渡されたとき彼女は、嬉しいけれど逃げ出したくなった。
 たいしたことのない秘密を分かち合ってまで、彼女の話を聞いてくれようとしている彼を、言うつもりのことばは裏切ってしまう気がした。座れば?と言われて、首を振ったのは、足が震えて動けなかったからだ。

『す、きです』

 絞りだしたようなこえに、彼がどんな顔をしたのかはわからない。目を合わせるのが怖くて彼女はそのとき、床ばかり見ていた。

『そりゃどーも』

 それは授業中となにも変わらないこえだった。真面目に受け取ってもらえなかったのかと腹が立った、勢いで彼女が顔をあげたときには、彼は背中を向けていた。

『暗くなんねーうちに帰れよー』

 だらしなく間延びさせながら、彼はつくえのまえの椅子を引いて座りこむと、なにかを書きはじめた。彼女はしばらく、その丸まった背中を眺めて待った。けれど彼はなにも言わなかったし、振り返らなかった。
 振ってさえもらえないほど、相手にされない現実にがく然としたまま彼女は、部屋を出るしかなかった。
 それでも彼女は諦めたりしなかった。何度も告白して、そのたびに流されて、でもまた告白して、を、繰り返した挙げ句の二年の夏だった。背中しか見せてくれなかった彼が、いつもの告白にその日、振り返った。

『降参。俺の負け』

 茶化すように両手をあげた彼は、彼女がはじめて彼を好きになったあのときと、おなじ顔で笑っていた。
 階段を駆け下りていく。
 ひとつしたの階にたどりつく間際、サビのところで、待ち構えたように豪華になった楽器のおとに、足を踏み出すタイミングを合わせながら彼女は、ちいさくこえをだしてうたった。
 いままでいちどだって、彼が好きだとことばにしてくれたことはない。けれどふたりきりのとき、あの顔だけは惜しみなく与えてくれるから彼女は、彼のことを信じていた。


****


 彼の家にはこたつがある。
 キッチンと一緒になった居間は畳敷きで、こたつのほかにはテレビと、背の低い本棚がひとつだけだ。障子ひとつむこうの寝室は、布団を一組敷いたらいっぱいいっぱいだと彼が言っていたから、もっとなにもない場所なんだろうと、入れてもらえない彼女は想像することしかできない。
 どうして入れてもらえないのかは、彼がキスひとつしてくれない理由とおなじなんだろうと、彼女はなんとなくわかっていた。だからあとひと月したら入れてもらえるんだろうと、期待している自分は彼にはひみつだ。いまは、テレビのいちばんよく見える位置でこたつに入る彼が、すこし端につめたらやっとできる狭い隣に、入りこめるだけで満足しなきゃならない。  つけっぱなしのテレビは片手間で、彼女は彼の横顔を眺めていた。
 もこもこの半纏をはおった背中を、いつもどおり丸めた彼は、赤いボールペンを片手に小論文の添削中だった。銀縁の眼鏡の奥で、眠そうに細くなった色素のうすい目は、ほとんど赤に近くて、まばたきするたびに、髪とおなじ銀色のまつげがかぶさると、パチンコだの競馬だの俗っぽいことが大好きなはずの彼が、やけに清純な生き物のようで、なんだかかわいらしく見えた。
 テーブルのうえに、片方の頬を寝そべらせる。
 黒い文字でいっぱいに埋まった作文用紙に、赤い線をつぎつぎと引いていく彼の、おおきな手が、目の前にあった。テーブルの真ん中に置いてある灰皿には吸い殻がつもっていて、たばこのにおいに、ついさっき食べ終わったばかりの野菜炒めのにおいが混じっていた。
 夕飯は、外に出ることはできないから、たいていは彼がつくってくれる。
 はじめて遊びに来たときには、いいところを見せたくて手伝ってみたけれど、じゃがいもの皮むきもまともにできずに終わった。
 おまえちゃんとかーちゃんの手伝いしてんのか?ため息をついておきながら彼は、言い返せずにぶすくれる彼女を見ておもしろそうに笑っていた。
 それからずっと、彼女の役目は味見だけだ。せめて残さないように食べようと、彼女には多すぎる彼の一人前を平らげて以来、彼はおなじだけつくってくれる。彼女が大好きなマヨネーズは、なにも言わなくても、お徳用を一本まるごとテーブルに並べてくれる。
 テレビから、たくさんの人間の笑うこえがする。
 めんどくさがりのくせに、短くきれいに爪の切りそろえてある、彼のゆびさきのゆくえと、ボールペンの芯のこすれるおとを、追っているうちに彼女は眠たくなった。
 必要以上に満ちた腹と、腰からしたを暖かく包んでくれるこたつだけなら何度も耐えてきたけれど、すこしもかまってくれない彼には、あまり出会ったことがなかった。しごとをしながらでも、いままでなら話しかけてくれていた。
 それだけ真剣なんだとおもえば、邪魔することもできない。大人の彼に見合うだけの我慢は、つまらないけれど、こどもだとおもわれそうで、ことばにできたことはまだない。
 彼の手首に巻きついた、腕時計は八時を過ぎていた。すこし早いけれど、もう帰ろうか。でもそれはもったいないなと、はんぶん落ちたまぶたを食い止めていたら、彼の手からボールペンが投げ出された。彼女はいそいで顔をあげた。

「終わったのか?」
「終わった終わった。あーくそ、疲れんなァ」

 せめてもーちょいまともなモン書いてくれたらな。ぶつぶつ言いながら彼は、腕のつけ根を反対の手で揉みほぐすと、右、左と順番に首を傾けた。コキン、とおとを立てる関節に、彼が、あー、とうなりごえをあげる。

「揉んでやろーか?」
「いいって。おまえの力くれェじゃどーにもなんねーからこれ」
「やってみなきゃわかんねーだろ」
「いや無理無理」

 はずした眼鏡を頭のうえにのせて、片手で目をこすりながらもう片方の手のひらを、追い払うように彼女に向かって振る彼に、むっとした腹いせに彼女はもっさりした彼の天パのうえに、そなえつけたように安定している眼鏡を奪い取ってやった。

「あ、コラ」

 彼に奪われるまえに、自分でかけてみる。支えていなきゃずり落ちてしまいそうになる眼鏡の、見た目よりずっと厚いレンズごしに、合わない焦点を合わせようと眉間にシワを寄せる彼の顔がまぬけにゆがんで、彼女はけらけら笑った。

「ひとのライフラインで遊ぶんじゃありません」

 しかめっ面をつくっていたって、彼が怒っていないことを彼女は知っていた。本気で怒ったときに表情を消した彼を、彼女はずっとまえの授業でいちどだけ見たことがある。
 寒気がするほど静かだったあのときの彼じゃなかったから、彼女は伸びてきた彼の手から、身をよじって逃げた。こたつからはみでた、拍子に、ぶかぶかの眼鏡がとうとう彼女の顔から、畳のうえへ着地した。

「あーもう、壊れたらどーしてくれンのおめーは」

 引き際くらいはわかっていた。追いかけてきた彼の手からは、だから逃げなかった。彼女に続いてこたつから身を乗りだした彼が、彼女に向かってかがみこんでくる。
 そうしないと眼鏡をうまく掴めないんだろうと、わかっていても彼のからだが、そのままおおいかぶさってきそうで、彼女は笑っていられなくなった。
 もとどおり眼鏡をかけた彼の、持ち上げた顔が、どうしようもなく近い場所にあると知ったときには、身動きもとれなくなった。
 彼の目がほんの一瞬、見開いたようにみえた。

「…やっぱ無理」
「え?」

 ことばの意味を考えるひまもなかった。とつぜん立ち上がった彼の、離れていく背中をただ眺めていたら彼は、本棚のよこに放っておいた彼女のコートとかばんを両手にかかげて、また戻ってきた。
 どんな顔をしているのか、うつむきがちな彼をのぞきこもうとひざ立ちになった彼女の目の前に、両方が無防備に投げ落とされた。

「あのさ、俺じつはゲイなんだよね」

 見上げて、やっとみつけた彼の顔は、いつもとなにもかわらなかった。

「おまえしつけーしさァ、顔だけはかわいいからなんとかいけっかなーっておもってたけど、やっぱ無理だったわ」
「っせん、」

 言い終わる前に、腕をからだごと持ち上げられた。強いちからに立ち向かうことなんてできなかった。突っ立っていた彼女に彼は、自分で落としたコートとかばんを自分で拾い上げると、彼女の両手につかませた。

「つーことでェ、帰ってくれる?」

 テレビで、また誰かの笑うこえがした。
 なにを言って、なにをすればいいのか、わからない彼女の腕を彼はもういちど掴んだ。玄関まで引きずっていくちからは、やっぱりあらがえないほど強くて、あらがえるほどの意志を持つ余裕なんてないまま、彼女は、玄関のそとに押し出された。
 真っ黒な冷たい、夜の空気にさらされた、すこしあとに、彼女の茶色いローファーがあしもとに転がった。

「もうここ来ないようにね。来ても入れてやれねーから」

 金属製のドアが、軋んだおおきなおとを立てて彼女の目の前をふさぐ。
 コートとかばんを抱えたまま彼女は、ただじっと、ドアを見つめた。
 コンクリートの床に、ハイソックス一枚を隔ててつまさきから、足のうらぜんぶが冷たくなるまで、見つめてみても、ふたたび開くことはなかった。ドアの向こうからかすかにテレビのおとが聞こえたけれど、彼のこえはしなかった。
きっちりくくった髪と、むきだしになった首すじのあいだを、風が通り抜けた。
彼女は床に、かばんを置いた。転がっていたローファーを履いて、コートを着た。かばんのなかに押しこんであったマフラーを、来たときとおなじようにぐるぐる巻きにして、かばんを肩にぶらさげて、それから、ドアに背中を向けた。
 二階建てのアパートの、階段を降りる直前でいちどだけ振り返ったけれど、彼はどこにもいなかった。
 彼の家から、駅までの夜道を、彼女ははじめてひとりで歩いた。
 誰かに見つかるかもしれない危険を押し切って、人通りの多い交差点までいつだって彼はついてきてくれた。寄り道すんなよ。ヘンなおっさんに攫われそうになったら死ぬ気で叫べ。別れ際に決まって彼がいうセリフをおもいだして、笑おうとしたら、くちびるが震えた。
 彼女は奥歯を噛み締めて、それだけじゃ足りなくて、コートの裾を必死で握りしめた。なのに、にじんでいく視界を止めることはできなかった。

「っひ、」

 つっかえたような息が漏れたときにはもう、歩けなかった。かばんが地面に、鈍いおとを立てて落ちる。みじめな自分のこえを聞きたくなかった。聞いたらもっとみじめになりそうで、マフラーのうえから両手でくちをおおい隠したけれど、ゆびさきまで震えていて、ちっとも役に立たなかった。
 二年の夏休みに、たったいちどだけ彼とふたりで、外に出かけたことがある。
 彼が借りてきた車で数十分もかかる、ちいさな街の夏祭りだった。タンスの底のほうで眠る浴衣を、母親にさんざん勘ぐられながら着付けてもらって、ほんのすこし化粧もして行ったら彼は、ただ頭を撫でてくれた。
 歩きなれない下駄に何度も転びそうになって、それを隠していたつもりだったのに、彼の手はいつのまにか、彼女の手を引いてくれていた。近道だからといって、黄色いロープをまたいで越えた彼は、どうやって越えようか悩むひまもなく彼女を、簡単に抱き上げて越えさせてくれた。いつだって彼はやさしかったし、彼の手はちからづよかった。おなじちからで、すこしもやさしくなかった彼も、彼のことばも、泣かなきゃいけない自分も、だから彼女は信じたくなかった。
 信じたら、いままで信じていたものはぜんぶ嘘だ。何度もくれたあの笑顔だって、彼を好きになったさいしょの理由まで嘘だ。
 だったら、なにを信じればいいんだろう。頼れるものはなにひとつ思い浮かばないのに、なみだだけはいくらでも湧いて、頬をつたって、夜に冷えていく。

「どォした、おじょーちゃん」

 あたまのだいぶうえのほうから聞こえたこえに、さいしょは顔をあげる気もおきなかった。

「そんなにないてちゃあ、めがとけちまう」

 あげる気になったのは、近くなったおとなの男の、知らない低いこえが、やさしくしてくれそうな気がしたからだ。彼とのことは誰にも言っていない。なぐさめてくれる人間は誰もいない。でも誰かに、やさしくしてほしかった。
 すがりたいきもちに、つけこんだこえのするほうを見上げた彼女の、見開いた目から、溜まったなみだがつぶをつくって、こぼれ落ちた。

「よけりゃあ、おれにわけをはなしてみねーかィ?」

 動物みたいな耳としっぽがついた、茶色い着ぐるみすがたの、片目に包帯を巻いたちいさなこどもが、おとなみたいにしたたかな顔でにんまりと笑いながら彼女の、あたまのうえにふわふわと宙を浮いていた。


****


「なるほどねェ」

 と、つぶやいたちいさないきものは、彼女の部屋のベッドの真ん中に居る。
 いきものはくちびるの端に、金色で彫りものをした煙管をくわえていて、煙管のさきからドーナツみたいに浮きあがった白い煙は部屋中に、彼女の知らないあまいにおいをばらまいていた。
 世慣れたふうに眉を寄せるそのいきものを、いちだん低い床に座って彼女はただ、眺めている。
 まずはばしょをかえにゃあなんねェ。そう言い終わったときには、いまとおなじようにちいさないきものは煙管をくわえていた。煙管のさきから飛び出した、いまより何倍も大きいドーナツで、彼女の目の前が真っ白にそまって、晴れたときには、景色は彼女の部屋のなかだった。
 いのししの妖精だと、ちいさないきものは自称している。
 故郷の月に里帰りの途中、泣いてる彼女に気がついて、ひとはだ脱ぐことにしたんだという。おれァこのみのおんなにはやさしいんだぜ。流し目をもらって彼女はとりあえず、はぁ、とこたえてはおいたけれど、こたえただけだ。いきものが何者で、敵なのか味方なのかを考える以前にまずは、目の前を現実だと受け入れるだけで精一杯だった。結果、いまでもまだ受け入れきれずにいる。
 煙管盆か、なければ灰皿がほしいと言ういきもののために、彼女が台所からくすねてきたインスタントコーヒーの空き瓶が、煙管のさきをぶつけられてゴツッ、とにぶいおとを立てた。

「それで?おめェさんはどーするつもりだ?」
「どうって」
「このまましっぽまいてあきらめるってンなら、おれがてをかすいわれはねェ」

 ことばどおりいきものは、彼女がつくりものだとおもっていたらほんものだった、みじかいしっぽをくるくる巻きながら、新しいドーナツを吹きあげた。ひとつ、ふたつ、みっつ、と天井に向かって旅立っていくのを、眺めていくうちに彼女のあたまのなかは、静かになっていく。
 なんの未練も持たないことばと態度で、彼女を追い出したさっきの彼と、いままでの彼と、どっちがほんとうで嘘なのか、考えたってわかることじゃない。
 ただ信じたいのは、いままでの彼だ。信じて、たとえぜんぶ嘘で、さっきの彼がほんとうだとしても、彼を好きじゃなくなる理由にはならない。だったら、諦める理由もない。
 女に興味はないと言っていたけれど、顔は好きだとも言ってくれた。性格もことば使いも、男っぽいと友達にはよく言われるし、自慢じゃないけれど胸だってたいしてないし、女らしく見られたくて、いままで彼のまえでは猫をかぶっていたけれど、それをやめれば女でも自分にだけは興味を持ってくれるんじゃないか。
 彼女はちいさないきものに、おもいついた順で可能性を訴えた。訴えるうちに、ほんとうにそうなりそうな気がしてきて、期待で顔が熱を持つ。
 ちいさないきものが、ゆっくりと目をつぶった。
 腕を組んで、考えるそぶりを見せるいきものを彼女は、背中を押してくれるなにかを待って、じっと見た。
 いきものが、くちびるから煙管を離した。

「だったらいっそ、おとこになっちまうか?」

 つまらなそうに薄目を開けて、いきものは言った。

「おとこになってちかづいてよォ、やることやってめェさましてみりゃあ、おんなのおまえがとなりでぐーすかねてるってェすんぽうよ」

 よいつぶすかいっぷくもるかすりゃあ、いちころだ。自分のことばに満足したように、いきものは空き瓶をまた叩いて鳴らした。

「げいだかかぶきだかしらねーが、ようはたつかたたねーかってェはなしだろう?うそでもなんでも、いっかいおんなでたったっつーじじつがありゃあ、じしんもでるってもんさ」
「…そんな簡単にいくもんか?」
「かんたんないきもんだよ、おとこってやつァ」

 言い切って、やたらと知ったようなため息を長く吐きだしたいきものの、三角形の耳がうなだれる。いったいなにがあったっていうんだろうと、彼女は自分の悩みも忘れてすこし気になったけれど、聞いたらめんどくさいことになる気もしたから、なにも聞かないでおいた。  いきものが、離した煙管をまた銜えなおす。

「じっさいやったかやってねーかまでは、さすがにごまかされちゃくれねェだろーが」

 あたらしくつくったドーナツを、いきものは彼女にむかって吹きかけた。
 白い煙はすぐに散って見えなくなったけれど、あまいにおいは、彼女のまえに残ってただよった。

「からだはるかくごくれェ、できてンだろ?」

  うなづくことに、彼女はすこしも迷わなかった。


****


 差し出した手のひらに吹きつけられた煙は、黒いフレームの眼鏡になった。
 かけてみろと言われて、そのとおりにした瞬間、彼女のからだじゅうを蛍光ピンクの煙がとりかこんだ。まぶしくて閉じた目を、開けたときには、視界があたまひとつぶん高くなっていた。
 部屋にあった鏡に向かってみたら、髪のいろも、顔のつくりもなにもかわっていなかったけれど、肩まで届くポニーテールはどこにもなかった。さらけだされた首すじも、あごのラインも、するどく骨っぽくかわっていて、ちいさくてもたしかにあった胸だって、撫でてみたら真っ平らだった。あー、と出してみたこえは彼よりも低くて、自分のこえなのにすこし驚いた。
 どこから見たって不自然じゃない男になった、そこまではよかったんだけれど、消えた制服のかわりに着せられていた服が、ひと昔まえの偉人みたいな真っ黒い軍服だったのは、どうしたって不自然すぎた。
 それがいちばんにあうんだがなァ。
 これじゃあコスプレだと文句を言った彼女に、不満そうな顔をしながらちいさないきものが、つぎに出した服は任侠映画のチンピラが着ているような、黒い着流しだった。
 そのつぎは紫色の派手な着物、さらにそのつぎはデニムのベストにグラサン、なんて具合に、ヘンな格好ばかりをさせるいきもののおかげで彼女は、ずっと前に買った雑誌を部屋から探しだして、普通の格好の手本を趣味の悪いいきものに教えてやらなきゃいけなかった。
 さんざん議論したあげく、ネルシャツとジーンズに、着慣れたコートのサイズを調節してもらって、ようやく落ちついたころ、窓をコツコツと叩いたのは一羽のカラスだった。
 ヤツハキンジョノイザカヤデヒトリサミシクバンシャクデゴザル。チャンスデゴザル。
 あたまのてっぺんをツンツンに立たせて、グラサンをかけた妙なカラスの片言を聞くと、ちいさないきものは憎たらしそうに舌打ちをした。
 せっかくあのクスリがためせるとおもったのによォ。いきものがぼそっとつぶやいたひとことを、彼女は聞かなかったことにした。

「らっしゃーい!」

 引き戸を開けたとたん、カウンターから飛んできたこえと、あふれてきたたばこの煙と酒のにおいに、彼女はたじろいだ。
 巨大化したカラスの背中に乗って、連れてこられたのは一軒家のような居酒屋だった。真っ暗な住宅街で、ゆいいつ明かりをこぼす店のなかは、顔を動かさなくても見渡せるほど狭苦しい。
 ひとつしかない座敷には彼女の父親くらいの年をした男たちが、身を寄せあって固まりをつくっていて、叫ぶようにおおきな話し声と笑いごえを、うわまるだけの大声で彼女を招いてくれた店主は、店のなかなのにグラサンをかけていた。それでも、浮かべた笑みのひとのよさは、すこしも隠しきれていなかった。

「カウンターどうぞー!」

 ジョッキでいっぱいの盆を片手に、カウンターから出てきた店主は汗でつやつやにテカった顔を彼女にいちどだけ向けると、すぐに座敷へと駆け寄っていった。取り残されて、彼女は立ちすくんだ。おとなの男の乱暴なこえが、こんなに密集した場所にいままで来たことなんてなかったからだ。

「あんしんしろ。さけならおれがぜんぶのんでやらァ」

 気後れした彼女の足を、動かしてくれたのは、もっとちいさくなってシャツの胸ポケットにもぐりこんでいたいきもののこえと、それから、カウンターの隅に突っ伏した、見慣れた銀色だった。
 見つけたら、ほかはあたまから消えた。彼のとなりの席に、大股で近寄る。

「おやじィ、みせでいちばんねのはるぽんしゅをたのまァ」

 背もたれにコートをかけたとたん、胸のあたりから勝手にあがったこえに、彼女は一瞬びっくりした。仕返しに、ポケットのうえからちからいっぱい握りこんでやったときには、けれど手応えがなくなっていた。
 とおもったら、目をこらさなきゃ見えないほどちいさくなったいきものが、しょうゆの瓶の影に隠れて煙をあげているのをみつけた。彼女は、放っとくしか手がなかった。
 座ったと同時に、店主がカウンターに駆け戻ってくる。

「おまち!」

 細長い、でこぼこした陶器の器を透明な酒でいっぱいにして、彼女のまえに置くと、つぎに店主は包丁をにぎった。
 たん、たん、たん、とせわしなくまな板を叩くおとが、まるで自分の鼓動に聞こえた。彼に、なんてこえをかけたらいいのかわからなかった。酒の席で誰かを口説くなんて、ドラマでみたことはあるけれど、現実でも成功する保証をくれたわけじゃない。
 だからって、失敗は許されない。助けをもとめて、テーブルのうえを見渡してみても、ちいさないきものは器に顔をつっこんで酒を飲むのに夢中で、彼女の役にはすこしも立ってくれそうになかった。
 なにもできないまま、ただ減っていく酒を見ていたら、包丁のおとが止まった。  ジョッキの代わりに、こんどは料理を載せた盆を片手に、ふたたびカウンターから出てきた店主は空いた片手で、彼のせなかをゆすりだした。

「ちょっと銀さん、寝るなら勘定払って帰ってから寝てくんない?」
「寝てませんー」

 と、彼が唐突にからだを起こした。
もー、とひとこと残して、店主が座敷へ去っていく。そのせなかを、ひと睨みだけ追いかける彼を彼女も追いかけたら、やっぱり唐突に、彼が振り返った。
真正面から向き合った彼の、眠そうな目は赤く充血していた。
 テーブルに押しつけられつづけた前髪はぺったんこで、かけっぱなしだった眼鏡は鼻のうえになんとかのりあげたまま、斜めに傾いていた。彼女を見て彼はさいしょ、眼鏡をなおしながら、かったるそうに目を細くした。
 それから、重そうなまぶたを一気に全開にした。

「…ちょっとお聞きしたいんですがね」
「な、なんすか」

 もういちど眼鏡をかけなおしながら、迫ってきた彼の顔に彼女は、こえが裏返りそうになった。

「オニーサン、身内にそっくりな女の子いたりする?」
「や、俺ひとりっこなんで」
「遠い親戚とか」
「親もそろってひとりっこなんで」
「ですよねー」

 やべーよ俺、とうとう幻覚見えてきちゃったよ。片手で髪をかき混ぜながら、床に向かってつぶやく彼のことばに彼女は、すこしだけほっとした。
 突き放したことに、罪悪感を持ってくれてるんだろうか。それくらいには彼にとって、自分はどうでもいい存在じゃないとおもっていいんだろうか。もっとたしかなこたえを聞きたいきもちが、緊張を打ち負かした。
 半分だけ入ったグラスに、彼がくちをつける。
 飲み込んで、またくちを離すまで、彼女はもどかしくなりながら待った。

「誰か似たヤツ知ってるんすか」
「知ってるっつーか、元カノ?いや彼女つってもなんもしてねェっつーか、できなかったっつーか」
「ゲイなんすか?」
「おいおいにーちゃん、聞き捨てならねェこと言うじゃねーか。俺はあいつの、」

 と、彼がゆびさしたさきには、店主のせなかがあった。

「段ボールいっぱいの秘蔵AVぜんぶ見尽くした男だぜ。なぁマダオ!」
「銀さんこのまえ貸したやつはやく返してよ。俺まだ見てねーんだから」

 空になった盆を抱えて、向かってくる店主の顔も、彼の顔も、彼女は見ることができなかった。器のなかのちいさないきものに、集中するふりをした。
 クラスの男子がするような話を、大人の男もするなんて、知らなかった。やけに生々しくて、耳を塞ぎたくなったけれど、彼がゲイじゃないことを教えてくれるだけ、聞く価値のある話だと彼女は無理やりおもいこむことにする。
 彼が別れを告げたほんとうの理由が、おかげで余計わからなくなった。

「バカ言ってんじゃねー。アレはそう簡単に手放せるようなシロモノじゃねーよ」
「あーあ。だからアンタにナースもの貸したくなかったんだよ」

 はやく聞きだしたいのに、カウンターに戻った店主と、彼の話を、さえぎるにはどうすればいいのかもわからなかった。
 空になった器から、這い出てきたちいさないきものが、もとどおりしょうゆ瓶の影にもどっていく。
 満足そうな顔をして寝そべったいきものに、彼女はつい、ため息をこぼした。話が途切れるまで待つしかないと、熟睡しはじめたちいさないきものを彼女は、つまようじのさきでつついて、時間をつぶすことにした。
 どのくらいの強さでつつけば寝返りをうって、どのくらいで払いのけようとするのか、すっかり覚えてしまったころだった。ライターのおとが聞こえた。水の流れるおとと、つぎには食器のぶつかるおとがはじまった。
 嗅ぎ慣れたたばこのにおいが、彼女のまえを漂っていく。

「そういや、言った気もするなァ」

 返事をすこしも期待しないこえで、そう言った彼の横顔が彼女には、笑っているのに寂しそうにみえた。

「ゲイですって。必死だったからあんま覚えてねーけど」
「必死、ってのは」
「はやく別れねーとって必死だったんだよね、俺。なんでもいーからドン引きしてもらえるようなこと言わねーとって。じゃなきゃ諦めてくれそうにねー子だから」
「…そんなに、」

 くちびるが、ほんのすこしまえとおなじように、震える予感がした。彼女は続きを言うまえに、息をひとつ、諦めない覚悟と一緒に飲みこんだ。
 店じゅうを埋める笑いごえも、水の流れるおとも、自分の心臓が脈打つおとも、彼女のまえから消えてなくなった。

「嫌だったのか、その女のこと」
「逆」

 もうアホみてーに好きでさァ。たばこのさきを、遠くを見るように細くした目で、じっと見つめて彼は言った。一回かそこらコクられただけならさ、俺も捨てたモンじゃねーなァ、って、ほんとそんくれェで済んでたんだよ。週一ペースで好きですって言われてみ?こっちだってそりゃ、なんとかしてやりたくなるだろ。

「これがまたきれいな子でさァ」

 言い終わったとたん、テーブルに突っ伏した彼の顔が、見えなくなってくれたことに彼女は感謝した。
 とつぜん赤くなった顔を、ごまかす方法なんておもいつかなかった。

「ほっといたってうじゃうじゃヤローが寄ってきそうなモンなのに、なんでこんな三十路手前のおっさんがいーのって、聞いてみたことあんだよ。そしたら、なんて言ったとおもう?」

 テーブルに向かって、グチでもこぼすように吐きだした彼の、こもった問いかけのこたえなんて彼女は誰よりもわかっていた。

「付き合ってくれたら教えてやるって。顔真っ赤にしてさァ、ずるいったらねーよ。ンなもんかわいいに決まってんじゃねーか」

 なぁおい、と、持ち上げた顔で、グラスにむかって問いかける彼が、ゆびのあいだに挟んだたばこのさきが、長く灰を垂れ下げていた。
 彼女はすこしも熱の引いてくれない顔が、見つかってしまわないよう、うつむけて隠しながら、灰の真下に灰皿を近づけてやる。

「真似事くれェなら付き合ってやってもいいかなって、おもっちまったら最後だよ。もう全力疾走で坂道転がり落ちてくようなモン」

 なにやってもかわいくてさァ。頬杖をついて、短くなったたばこを灰皿の底にこすりつけながら、ため息を吐くようにつぶやいた彼の目は、懐かしそうに笑っていた。くちは悪ィわ意地っぱりだわ、とにかく生意気な子なんだけど、そこがまたかわいくてしょうがねーの。見栄っ張りでさァ。はじめてうち来たときだったかな、自分からメシつくるの手伝うって言ったくせして、皮むき噐もろくに使えねーんだわ。ぶーたれた顔してよォ。こっちは笑いこらえんのに精一杯だっつーの。

「かわいかったなァ」
「っなんで、」

 過去だったように言うんだと、詰めよってしまいそうになるのを、自分のひざを握りしめて彼女はごまかした。
 思い出の邪魔をしたことを、とがめるように、だるそうな目で彼が彼女を見る。
 まるでいまの自分に用はないと言われたようで、怖じ気づいたけれど、男に化けた自分をおもいだしたら、立ちなおることができた。

「そんなに好きなら、なんで別れた?」
「…俺、こんなあたましてっけど教師なんだよね」

 と、彼はもさもさした髪を、手なぐさみのようにいちどかき混ぜた。

「ほら、ガキのころって、やたらセンセイってのがカッコよく見えたりするじゃねーか。大人で、余裕あってさ。当然だよな。こっちは舐められねーように必死で虚勢張ってんだ」

 吐き捨てるように言った彼の、つくった笑みは、彼自身を笑っているようにみえた。

「八つ当たりもしねー、たいしたグチも言わねー、機嫌悪ィのも疲れてんのも我慢して、なんでもねーふりして、そーゆう、カッコつけたとこしか知らねー子に好きだって言われたら…カッコつけたくなるじゃねーの」
「わかる。わかるよ銀さん!男ってのはそーゆう生きモンだよ!」

 グラサンのしたから突っ込んだ片手のゆびで、目じりを拭いながら、店主はもう片方の手をカウンター越しに差し出してきた。水に濡れたその手と、握手を交わす彼の顔は満足そうで、彼女はくやしくなった。自分を仲間はずれにしたふたりから、目を反らした。
 座敷から、店主を呼ぶこえがする。
 とたんに慌ただしく去っていく店主を、見送ってから、ようやく彼女は彼を見つめなおすことができた。

「続くわけねーんだよな」

 片手に持ち上げたグラスを、彼がじっと見る。

「すぐボロ出ちまうに決まってんだけど、まぁどうせあっちもすぐに飽きるんだろうし、それまでなんとかすりゃいーかなって。カッコいいセンセイのままでいてやろうじゃねーかって。軽く考えてたんだよ、さいしょは」

残った酒を、彼はいちどに飲み干した。
 おとを立ててグラスを置く。

「考えらんねーだろふつう。あんな十も年の離れたガキに、本気になるなんざ」

 言ったあとに、彼はおおきなため息をついた。

「やらしーことなんかなんも知りませんって顔してよォ、ベタベタくっつかれてみろよ。うかつに手も出せやしねー」

 溜まっていたものをいっぺんに吐きだすように、立て続けに流れる彼のことばに彼女は、もういちど、自分のひざをにぎりしめる必要があった。

「いつまで猫かぶってりゃいーんだって、会うたびに悶々としてさァ」

 震えているのがひざなのか、にぎった手なのかは、彼女にもわからなかった。

「そんでも、やめらんねーんだよ。センセイやってたかったんだよ。結局、限界きちまったけど」
「…言いてェことはそれだけか」

 男になった短いあいだで、いちばん低いこえが出た。
 ゆっくりと、立ち上がる。不思議そうに見上げる彼の顔を、睨み降ろしながら彼女は、顔から眼鏡を投げ捨てた。まぶしい蛍光ピンクが彼女と彼を、まとめて取り囲んだ。
 晴れたあとに、現れたのは彼の家だった。どこだろうと彼女はかまわなかった。目の前には、畳にひざをついた彼がいた。何度もまばたきをしたあとで、彼女を見上げた彼の、ふいをつかれたまぬけな顔を彼女は、全力で睨みなおした。

「バカにしてんのかテメェ」

 高く戻ったこえを、それでもできるだけ低くした。

「カッコつけることばっか考えてオンナ泣かして、それで満足か?ふざけんじゃねェ!ひとのきもちなんだとおもってんだ!」

 彼が、傷ついた顔をする。
 泣かせたことを悪いとおもってるんだと、言いたげなその顔くらいじゃ、許してやるつもりはなかった。ひとりきりの帰り道が、どれだけみじめで寂しいか、好きな女に思い知らせてでも守らなきゃいけないものだなんて、粉々にくだいてやらなきゃ気がすまない。

「八つ当たりでもなんでもすりゃーいいだろ!そんなモンくらいでテメェに愛想つかすとでもおもってんのかよ!舐めてんじゃねェよ!」

 告白するために、準備室を目指す道のりはいつも怖かった。
 受け入れられない自分をおもって、逃げたくなるのを必死で耐えて、なんでもないふりで扉を開けて、好きだと告げて、相手にされなくて、打ちのめされて、それでも平気なふりをして、また立ち向かって、やっと手に入れた彼を、八つ当たりやグチくらいで手放せるほど、薄情な人間だとおもわれたのがくやしかった。ひとのきもちを、見くびらないでほしい。

「なんも知らねーのはテメェのほうじゃねーか!俺は、」

 彼から目を反らさないまま、彼女がゆびさしたのはまだ、入れてもらったことのない部屋だった。

「アンタにあそこ連れ込まれんの、ずっと待ってたんだよ!」

 彼の目が、さっきよりもまぬけに見開いた。
それからその目を隠すように、うなだれた顔から、彼が眼鏡をはずす。 
 彼女には怒ったくせに、自分ではもっと乱暴に眼鏡を床に投げ捨てて、片手で顔を覆い隠した彼の、みるみる赤く染まっていく頬は、けれど隠しきれていなかった。それを見て、こんどは彼女が目を見開くばんだった。
 しりもちをつくように、彼が畳に座り込む。

「おまえそれ、反則」

 彼が、いままで彼女の聞いたなかで、いちばんおおきなため息を吐いた。
 ことばの意味も、ため息の理由もわからなくて、身構えていた彼女に、顔を隠してないほうの手で彼が、手招きをした。彼女は一瞬とまどった。
 一歩ぶんの距離を、はんぶんだけ近づいてみる。
なにも起こらないことを確かめてから、もうはんぶんを進むための足を、踏み出すまえに、彼の手にちからいっぱい引き寄せられた。
 顔をおもいきりぶつけたのが、彼の胸だったんだと、気づいたときには彼の片手に、片方の頬がおおわれていた。驚いて顔をあげたら、いままで知らない近さに、まだ赤いままの彼の、笑った顔があった。
 それは、はじめて彼を好きになったときより、ずっと情けない顔だった。

「マジで俺、センセイやめちゃうよ?」
「…好きにすればいーだろ」
「気ィ短いぜ、俺。グチっぽいしひねくれモンだし、セックスはしつこいって評判だし」
「い、たくしねーなら、許してやってもいい」
「…おまえねェ」

 彼がまた、さっきよりは控えめにため息をつく。酒のにおいに、けれど顔をゆがめるひまもないうちに彼の顔がもっと、近くなった。
 銀色のまつげの数を、かぞえられそうな距離だった。

「かわいすぎ」

 酒くさいくちびるに、はじめてのくちづけをもらうために彼女は、目をつぶった。


****


「つまんねェなァ」
「ナニガデゴザルカ」

 となりで羽をつくろうかたわら、問いかけてきたカラスを、ちいさないきものは横目だけで見た。
 空にむかって白いドーナツを吹きあげる。屋根のてっぺんから眺める夜空には、故郷の月がしろく浮いていて、虫食いみたいな星が、まわりを取り囲むように散らばっていた。
 酒でふくれた腹をひとなでして、いきものはもういちど、つまんねェ、とつぶやいた。

「もうちっとごちゃごちゃやらかしてくれるとおもったのによォ。あっさりくっついちまいやがった」
「セッシャカラスレバジュウブンゴチャゴチャシテタデゴザルガ」
「はでさがたりねェ。もっとどーんとやってくれりゃあいいんだ、どーんと」
「マツリズキモタイガイニスルデゴザル」
「なんかいったか」
「キノセイデゴザル」

 いきものが睨みつけたところで、カラスはなにもなかったように、羽のあいだにはさまったほこりをついばんでいた。ふん、とひとつ鼻を鳴らして、立ち上がったいきものは、短い両手をせいいっぱいあげて、伸びをする。
 彼女が眼鏡をはずした時点で、居酒屋の人間たちはみんないきものが眠らせておいた。いまからふたりの居た痕跡を片づけて、起こしてやりにいかなきゃならない。
 ついでに酒瓶の一本でもくすねてこよう。腹のなかに溜め込んだ、今日の酒の味と、彼女の泣き顔をおもいだして、いきものはにんまりと笑う。 
 派手さにはかけるけれど、里帰りを遅らせただけの価値はあったと、冷静な自分への評価に満足して、ちいさないきものはいちど、ふかくうなづいた。

「よし、もうひとしごといくとするか」
「ラジャーデゴザル」

 いきものがせなかに飛びのるのを待って、カラスはおおきく羽を広げた。一回、二回、三回はばたいたところで、カラスのからだが宙に浮いた。
 バサッ、とおおきくおとを立てて、夜の風に乗る。

「ソレニシテモ、オヌシノコノミハナンゼンネンタッテモカワランデゴザルナ」
「まァな。だがいまはかみさんひとすじだぜ、おれァ」
「セッシャニモハヤクヨイハンリョガミツカルトイインデゴザルガ」
「おめーのせいかくじゃあむりだな」
「ナンカイッタデゴザルカ」
「きのせいだ」

 振り向いたカラスから目を反らしていきものが、夜空に浮かべたおおきめのドーナツが、月の横に並ぶ。
 ちいさないきものはそれを見て、もういちど満足そうに、にんまりと笑った。





何年前かに他のひとの本にのっけてもらったやつです。眼鏡でにょたいがテーマじゃなかったかな。
にょたい以外のテーマはなんにも聞いてなかったのにできあがったらしっかり眼鏡を使っていたとゆうテレパシーの力がはたらいたのを覚えています。 実はこのいの杉はサイトに載ってるいの杉と同一いの杉とゆう設定も考えていた気がしたかもしれない。嫁はもちろんひじかたくんだよ!いっぱいいる牛のひじかたくんのうちのひとりだよ!
「よろこびの歌」by ハイロウズ



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