細い川をあいだに挟んで、化け物みたいに巨大な団地と軍隊みたいにお揃いの平屋が並んだ、大勢の人間が住む街の端っこにあるちいさな店のちいさなしろい看板には、アルファベットの『W』と『M』がくっついて並んでいる。読み方はとくにない。 耳がふたつ並んでおまえみたいだと、空色のペンキで相棒が雑になぞった『M』のとなりに、天パの爆発したみたいな『W』をとうしろうが、寄り添わせてやっただけだ。 「とうしろう」 「ちぃっとまて」 とうしろうの背丈よりも高いテーブルのうえに、積み上げてある椅子をひとつずつ丁寧に降ろしていくのは朝いちばんのちからしごとだ。おおきなテーブル席に四つ、ちいさなふたつのテーブル席にそれぞれ二つずつ、それからカウンターの四つをやりとげたところで、いちど全体を見回してみるのも忘れちゃいけない。 狭すぎずばらつきもせず、見栄えよく並んだ椅子に今日もみごとなしごとぶりだったと、満足したきもちのまま、黒い髪のすきまからひょこひょこと揺れるとうしろうの耳は相棒のつくるホットサンドみたいな三角形だ。 しぼりたてのミルクの白に、朝日を浴びたカラスの黒を、水たまりみたいにばらまいたまだら模様はとうしろうの一族の誇りだけれど、背骨の終着点よりもうすこし下にくっついた、おなじ模様のしっぽも、耳のうちがわにふたつ並んだどんぐりみたいなしろい角も、相棒とほんのすこしのとくべつな人間以外には、決してむやみに見せたりしない。人間じゃないとバレないことが人間の世界に住むための掟なのだ。 だからって魔法で消すことができるようになるのは、年齢にゼロがみっつくっつくようになってからだ。まだふたつしかつかない半人前のとうしろうには手の届かない魔法で、だから今日も、相棒の買ってくれた黒いニットキャップを、一族に代々つたわるピンク色のポシェットから取り出すことにする。しっぽはパンツの内側の、しっぽ用のポケットにしまってあるから安心だ。 母親特製の白いパンツは、しっぽを折りたたんでももこもこしないよう、ゆとりを持ってつくってある。それでいて足と腰のまわりはゴムでぴったりしてるから、驚いたときに飛び出てしまったりもしない。耳やしっぽとおなじ模様をしたワンピースの裾が、揺れるたびに、絶妙なバランスでフリルを見え隠れさせる素晴らしいパンツなのに、とうしろうの相棒ときたら洗濯のたびに笑いを噛み殺すのだ。人間の価値観というやつにはまだまだ謎が多い。 「またせたな」 しっかりと、それでいてかっこいい角度でキャップを被り終えて、ようやくカウンターのほうを振り返ったとうしろうの目に、窓からすきとおる、うすく明るい朝のひかりが、相棒の銀髪をチカチカと瞬かせた。 負けじと黒い目を瞬かせた拍子に、カウンターの向こうから台拭きを放り投げる相棒の赤い目は、いまだ眠気と戦ってる最中だ。重力なんておかまいなしに飛び跳ねた銀髪が、寝癖なのか天パなのかは長い付き合いのとうしろうでもなかなか判断できずにいる。 開店時間は朝の七時。相棒のつくる堂々と甘いケーキたちを、近所のおばさんや女子高生たちは太るなんて合い言葉と引き換えにショーウィンドウが空になるまで何個も買って帰るけれど、朝九時までのモーニングメニューを平らげていくのはほとんどが、出勤前のサラリーマンたちだ。ボリューム重視の日替わりたまご料理とおかわり自由のライスかトースト、コーヒーとかいう焦げ茶色の飲み物は、客によれば目が覚めるほど苦いんだという。 機関車みたいに煙をあげるやかんの湯で、できあがったその日さいしょの一杯は、だからいつも朝に弱い相棒のぶんだ。自分用のマグカップから、スプーンに山盛り五杯ぶんの砂糖と一緒にちびちび飲みながら、紺色のエプロンを身につける相棒のしょぼくれた赤い目はけれど、昼ちかくになってもたいていしょぼくれたままだから、言うほど効くものじゃないんだろう。 しっかりと受け取った台拭きを手にとうしろうは、ポシェットとおなじいろの長靴を脱いで椅子によじのぼった。そうしないと、テーブルのすみずみまで台拭きが届かないからだ。故郷に帰れば相棒に負けないくらい立派なからだつきも、この世界ではエネルギーの浪費にしかならないのはとうしろうたちの常識だから、多少不便でも我慢するしかない。お冷や用のコースターよりもちいさな手を両方つかって、朝日を跳ねかえすくらいつやつやに、とうしろうは力強くテーブルを拭いていく。 じゅわっ、というおとが聞こえた。遅れてただようベーコンの焼けるにおいに、もうそんな時間かと慌ててテーブル拭きを中断したのは、もっと大事なしごとのためだ。毛糸の靴下で包んだ足を長靴の奥に詰め込んで、入り口のドアにとうしろうは駆け足で向かう。 お出迎えをしなきゃならない。毎朝いちばんに来る客は、とうしろうにとってとくべつな客だ。背伸びして掴んだドアノブを、回す前に反対側から開いたドアにつんのめってしまう寸前、伸びてきたおおきな手がとうしろうのからだを宙に浮かせた。 「よぉトシ、おはよーさん」 「こんどうさん!」 無精ひげをはやしたゴリラっぽい顔を、ニカッ、と崩して笑う男のしごとは警察官だ。 とうしろうの正体を知っている数少ない人間のひとりで、店を開くまえの、恐ろしく貧乏だった相棒ととうしろうになにかと世話を焼いてくれた、気前がよくて懐のでかい尊敬できるひとなんだけれど、惚れた女からの受けはあんまりよくないらしい。店に来るたびに振られたといって嘆いている。 こんなにいいひとなのにどうして好かれないんだろう。まえに相棒に相談したら、ストーカーだからじゃねーのと鼻で笑っていたけれど、ストーカーってなんだと聞いたときには相棒は、病気だビョーキ、とため息をついていたから、きっと重たい病気なんだろう。いつか治る方法が見つかればいい。とうしろうの真摯な願いだ。 「いつもの頼むわ」 「とっくにできてらァ」 とうしろうを軽々と肩に乗せたまま、カウンターのひとつにどっかりと座り込んだ男のまえに、相棒が差し出した今日ひとつめのモーニングセットは巨大なオムレツとこんがりちぢれたベーコン、それから、山盛りの飯をいっぺんに載っけたプレートだ。おそろいのスプーンを握りしめた男の子供みたいな笑顔には、とうしろうまでつい嬉しくなってしまう。 だからってそれだけじゃ物足りないきもちを、満たしてくれるいつもの存在を探してとうしろうは、口いっぱいに飯をほうばる男より、ふたまわりはちいさい顔で前後左右を見回した。 「きょうはあいついねーのか?」 とうしろうが生まれ育った月のうらがわには、ぜんぶで十二の種族が生活している。 人間の世界にある干支というやつは、その十二の種族をもとに大昔の人間たちがつくったものなんだそうだ。とうしろうたちの一族はちょうど、人間たちがいうところの『丑』にあたるらしい。うさぎの餅つきだと人間たちが言い伝える夜の月の影だって、ほんとうは夜な夜な盗み食いをする大飯ぐらいの『卯』の子供たちのものだ。 種族ごとにしきたりも生活のしかたもまるで違うんだけれど、修行のためにこの世界へ降ろされるのはどの種族も一緒だ。おなじ故郷と目的を持つひろい意味での仲間は、だから頑張って探せばそこらじゅうに居るはずなんだけれど、修行をつめばつむほど人間に溶け込んでしまう仲間たちを、半人前のとうしろうが見つけるのは難しい。 男の相棒がとうしろうの仲間だと知ったのも、みずから正体を明かしてくれたその仲間のおかげなのだ。毎朝男と一緒にとうしろうを訪ねてきてくれる、この世界で出会ったひとりめの仲間と語り合う時間はなによりの楽しみなのに、今日はおあずけなんだろうか。店じゅうをふたまわり探したって見つからない仲間のすがたに、かくんと垂れ下がってしまったとうしろうのあたまはけれど、男の豪快な笑い声にもとどおり持ち上がった。 「そうしょげるなトシ!もうちっとすりゃあ追いつくさ!」 「ねぼうか?」 「いやーそれが、髪のセットが決まらねーとかなんとか」 「なァにがセットだか」 いっぱいにこじあけたあくびに混ぜて、つぶやく相棒のかかげたポットから熱いコーヒーが、なめらかな放物線を描いてカップのなかに飛び込んでいく。 「毛づくろいの間違いなんじゃねー、ぶへっ」 皮肉な笑みをかたどった相棒の頬に向かってそのとき、飛んできたのは弓なりに反った一本の白い牙だった。 とがった先端で赤い跡をこしらえたあとで、風を切るおとを立てながら来た道を戻っていった牙がたどり着いた場所は、とうしろうに負けないくらいちいさな手だ。とうしろうとおなじだけのからだに、赤茶色のつなぎを着たその手の持ち主をドアのそばに見つけたとたんとうしろうは、男の肩からぽんっと飛び降りた。 「てんぱのやきもちはみぐるしーぜぇ?ぎんときぃ」 『亥』の一族のたかすぎは、ゼロがみっつつく立派な一人前だ。 服とおなじいろの耳もしっぽも魔法で自由に出し入れできるし、くちの両端からいまはほんのすこしだけのぞく牙も、好きなようにのばしてはさっきみたいな武器にできる。一族のつぎの長に推薦されるほどの実力者なのに、そんなことはすこしも見せつけないだけの気安さで接してくれるから、とうしろうにとっては兄貴分みたいな存在だ。 駆け寄っていったとうしろうに、たかすぎはニヒルな笑みを浮かべながら持っていた牙にふぅっと息をひとつ吹きかけた。瞬間、牙は金色の蝶をちりばめた煙管にかわった。 くちの端でななめにくわえながら、片手でとうしろうのあたまをポンポンと優しく叩く。 「おそくなってすまねーなぁ、とし」 「きにするな。みだしなみはおとこのかいしょうだ」 「いうねぇ」 たかすぎがフッ、と笑った、その拍子に、煙管のさきからふわふわと舞い上がった煙はかすかな甘いにおいがした。故郷に咲く花に似たにおいだ。 とうしろうたちのエネルギー源は種族によってばらばらなんだけれど、どれについても人間の世界にとてもよく似たものが存在していて、とうしろうの場合、この世界ではマヨネーズだ。ただ栄養価が劣るから、故郷では一日にコップ一杯ですんでたものもここでは、特大のチューブ一本ぶんが必要になる。 毎朝、店に出るまえに一日ぶんを一気飲みするとうしろうを見ては、胸焼けがすると顔をしかめる相棒だって、風呂上がりに甘いいちご牛乳をおおきな紙パック一本ぶん飲み干してしまうのだ。いったいなにが違うっていうんだろう。人間ってやつのことはやっぱりよくわからない。 けれどこの世界で、煙草をエネルギーにしているたかすぎの、どうせいつも吸ってなきゃならないのならせめて気に入ったにおいの煙をかいでいたいというきもちなら、とてもよく理解できた。とうしろうだって、カロリーハーフのマヨネーズは味気なくていまいち好きになれないのだ。つまりはそういうことだ。 「きょうはかわらにいこうぜ」 煙管が導く懐かしい花と、すこしだけ似てる花が咲いているのをとうしろうは知っていたから、今日はたかすぎにも見せてやろう。かまわねぇよ、とかえってきた答えに促されてとうしろうは、カウンターを振り返った。 「ぎんとき」 「ァア?」 頬をさする相棒のこえは寝起きなだけじゃ足りない不機嫌さを浮かべていたけれど、とうしろうは気にしない。 天パがコンプレックスの相棒はどうも、まっすぐな髪のたかすぎをやっかんでるらしい。だからたかすぎがなにをしたって言ったって気に入らないんだと、教えてくれたのは半人前のとうしろうよりずっと物知りなたかすぎなんだから、きっとほんとうだ。人間の世界では『おっさん』と呼ばれる特別なおとなにもうすぐ進化しなきゃいけないのに、なんておとなげないはなしだろう。 「おれぁちょっくらでかけてくる。るすばんたのんだぜ」 「オメーまだテーブル拭き終わって、」 「そーかそーか!」 あごひげのさきに米粒をつけながら、顔いっぱいの笑みを向けた男の野太いこえはとうしろうの相棒を簡単にさえぎった。 「ふたりとも車には気をつけてな!」 「ゴリラてめー!ゴリラのくせに人間サマの話さえぎってんじゃねー!」 「ゴリラじゃありませんーちょっと毛深い紳士ですぅー」 「ケツが毛だるまの紳士なんざ居てたまるか!」 「え、おまえ知らねーの?かつて中世ヨーロッパでは名だたる貴族たちがケツ毛の濃さを競って決闘を」 「するかァ!」 カウンターを乗り越えて男につかみかかっていく相棒のすがたが、出会ったころとすこしも変わらないと来た日にはそりゃあ、ため息だってつきたくもなる。 とうしろうたちよりずっと短い時間しか生きられないのに、人間ってやつはどうしてこう、成長しないんだろう。 「ばかどもはほっといて、いこうぜ」 「ああ」 まったく、いつまでたっても手がかかる。背中を向けたたかすぎに従いながら、ドアをくぐる間際、おとなの余裕でとうしろうは、自慢の耳をキャップのしたでひょこっとひとつ、揺らしてやった。 end. 無理やり終わらせなきゃどこまでも続くところでした。 「TODAY」 by AIR |