俺ちょっとコンビニ行ってくっから。
明かりもつけてない部屋のベッドに寝転がってぼうっと、窓の外ではずむ電車の音を聞いていたら、妹の声がした。兄さん?寝てんのか?と繰り返しドアを叩く妹に、なにか返事をしようとおもって俺が、あぶねーから木刀持ってっとけ、と言ったら、バカじゃねーの、と吐き捨てられた。軽い足音が遠のいていく。かわいくねーなアイツ。いつからあんなんなっちまったんだいったい。
まぁ実際バカだけどよ。片手で両目をおおい隠しながら、浮かべた笑みはため息とセットだった。
木曜、水曜、火曜、月曜、一週間、一ヶ月。四日と七日と三十一日。足して四十二日間。
たったそれだけなんだと、丁寧に数えあげた時間に自分で驚いたのは、部屋にこもってからすぐのことだ。あのひとのいなかった金曜日の夜をどうやって過ごしてたのか、たったそれだけのあいだに忘れてしまった俺は確かに、どうしようもないバカなんだろう。電車の、通り過ぎたあとのホームのアナウンスまで聞き取りながら、だったらあのひとはどうなんだろうと、考えたってむなしいだけなのはわかってるのに、気がついたら考えてる俺は、きっともっとバカだ。わかりきってんじゃねーか。俺のことなんかとっくに忘れて、遊びまくってんだろ。
暗闇に、左手をかざしてみる。明るくたって暗くたって、どんなに目を凝らしたって、赤と紫の中間みたいな色がもう、残ってないんだと知ったのは、月曜日の夜のことだ。学校であのひとが、俺と目も合わさなくなったのは、火曜日だった。電話だったり呼び出しだったりは一度もなかった。
結局、その程度だったんだろう。あのひとのなかの俺はたった一日でなかったことにできる程度で、なのに、俺のなかのあのひとは、まだ少しも消えてくれない。

「…明日どーすんだよ」

考えたくない確実な未来は、吐き出してしまえば少しは楽になるとおもったのに、結果は、ひどく大きなため息だけだった。手さぐりでサイドの棚を探る。つかみとったタバコは、知らない男に抱かれた次の日に銘柄を代えておいた。吸うたびにあのひとをおもいだすなんて、冗談じゃない。
からだを起こして、あぐらをかいたあとにふたを開けたら中身は、一本しかなかった。買い置きするほど愛着はまだない、とりあえず買ってみただけの箱を眺めながら、俺もコンビニ行ってくっかな、とつぶやいたとき、玄関のドアの開く音がした。一瞬、あのひとかとおもった俺はほんとうに、救いようのないバカだとおもう。合鍵渡したこともねーのに入ってこれるわけねーじゃねーか。
入れ違えか、と、なんとなくおもいながら床に降りて、いつもどおりの距離を歩いたさきの、見慣れきった部屋のドアを開けたそのあとに出会ったのは、けれど、いちばん見たくて、いちばん見たくないものだった。

「よ、こんばんわ」

なんで入ってこれんだよ。なんだそのふざけたあいさつ。つーか、なにしに来やがった。
どれを最初に言えばいいのか考えるまえに手を、伸ばしそうになる衝動を、必死で抑えても無駄だった。逆光になった彼の顔を読み取る前に腕を、つかまれたとたんこわばったからだが、もういちどベッドへ引きずられていく。抵抗は、できなかった。いちばんほしいときに目の前にあらわれた、いちばん、受け取ったらいけないものに、飛びつかないだけで精一杯だった。肩を押されるまま、ベッドの端に座る。
見上げた彼の表情は、暗がりに慣れた目でもよく、わからなかった。ひどく真剣で、なのにどこか苦しげで、それでも、浮かべた笑みはやたらと嬉しそうだった。いったい、どれがほんとうなんだろう。

「トシちゃんがな、協力してくれたんだわ」

言いながら彼は、俺の足下に正座してみせた。だらしなく寝そべるかあぐらをかく以外の姿勢が、まさかできるとはおもわなかった彼のすがたに感じる、居心地の悪さは、彼を見下ろさなきゃいけないぶん余計だった。まるで彼に、すがられてるみたいだ。

「抱きマヨ買ってやんの条件に、オマエと二人っきりにさしてくれるって」
「…ンだよそれ」

俺だって欲しかったのに。無意識に呟いた俺を彼は、目を細めて見上げていた。なんか、ヘンだ。俺は怖くなった。どーしたんだよいったい。なにがあったっつうんだ。なんでそんな、弱ってるみてーな顔。
葬式でもあったんだろうか。最初にみつけた理由はそれだった。見慣れない位置にいる彼が、もっと見慣れないものに包まれてるのに気づいたからだ。そばに置いてある紙袋からは黄色い花びらがはみでているし、いつも飛び跳ね放題な銀色も、いまは無理やり後ろに押さえつけられている。真っ白なシャツも、黒いスーツも、折り目がわかるくらい手入れされていて、なのに、ネクタイはなかった。
アンタまた結べなかったのか。俺は、状況も忘れてすこし笑いたくなると同時に、結んでやる相手が彼にいないことが、嬉しかった。だからってもう、俺が結んでやるわけにはいかないし、それにたとえ、彼がほんとうに弱ってるんだとしたって、なぐさめてやるわけにもいかない。したくたってできねーって、アンタわかってんだろ。なのになんで俺のとこ来やがんだ。

「夢中だったんだよ」

苛立ちを通り越していっそ、憎しみに近い疑問にくちを開こうとした俺の、先をこした彼の情けない笑みは、ようやく見慣れたものだった。けれどそれは、俺じゃなく床に向かっていた。

「俺がなにしたってオマエ、健気に俺のこと追っかけてくっからさ。かわいくてしょーがなかったんだわ。つぎどんなことしてイジメてやろーかって、必死で平気なフリしてるオマエ見たさに気がついたらンなことばっか考えてた。…オマエがどんな気持ちでいんのかなんて、考えもしねーの」

自分で言っててサイアクだな。独りごとじみた声でつぶやきながら彼が、せっかくいつもよりは整ってた髪をグチャグチャと乱すのを、俺は、冷静に見ることができた。そうできるだけ彼の言葉と、俺の気持ちに距離があった。あんだけ言ってもアンタ、全然わかってねーのな。アンタがどんだけサイアクかなんざこっちは、とっくの昔に知ってんだよ。知ってて好きなんだよ。それがイヤで別れたんだろ。いまさらなに言ってやがるコノヤロー。
ンなどーでもいいこと言いにきたんなら帰れよ、と、言うために吐き出したため息に、彼が、肩を震わせるのがわかった。どう見ても恐る恐るなしぐさで顔をあげた彼の、おびえたみたいな目にまるで、いじめてるような気になった。

「ガン泣きしてるオマエ見て、」

結局なにも言えずに終わった俺のかわりに、彼がまたくちを開く。

「マジで死にたくなったよ。なにやってんだ俺って」

ほんのすこし伏せられた彼の赤い目が、やけにきれいで、俺は、そればかり見ていた。

「はやく引き止めねーとって、おもうのにさ、なんも言えねーんだ。わかってんだもんよ。いまさらなに言ったっておせーんだって。そんだけのことしちまったんだって」

おせーとかはえーとかの問題じゃねーんだよ。彼に気づかれないように俺は、こっそり笑った。アンタのこと俺が、バカみてーに好きなんだって、それだけの話だ。バカみてーに好きでバカみてーに欲しがって、でもアンタはそーじゃねーって、ただそれだけで、アンタがどーこーしよーったって無理なんだってのはちゃんと、わかってんだよ。
気持ちが、簡単じゃねーことなんて俺は、誰よりもよくわかってんだ。

「考えたんだ俺」

気がついたら彼は、ひどく真剣な目で俺を見ていた。

「どーやったらオマエに信用してもらえっかなって、すげー考えて、マジで死ぬほど考えて、そんで、」

これしかおもいつかなかったと、そう言いながら彼が、紙袋のなかに手を突っ込んだとたん、ほんのすこしはみでていた黄色はちいさな花びらをたくさん集めてできあがった、そんなに大きくない花束にかわった。目の前にかざされたその、光ってるわけでもないのに暗闇を照らすまぶしさに俺が、ぼんやりと目を細めたときだった。

「俺と、結婚してください」
「…は?」

ああ、そーか。頭からっぽっつうのはきっといまみてーなこと言うんだな。目の前の現実が、見えてるのにわからないなんてはじめてで、なのに相変わらず真剣な彼の目はやっぱりきれいで、目の前の黄色はまぶしくて、抜け殻みたいにただそのふたつの色を見くらべることしかできなかった俺のくちが、音を出したのは、だから意志とは無関係だった。

「や、だからさ、」

どこか焦ったように彼が言う。

「恋人でも俺、オマエのこと不安にさせちまうんだろ?だったらもうそれ以上になっちまえばいいんじゃねーのっつう結論に達したわけよ。ほら俺、こー見えてアレだから。わりかし亭主関白入ってっけど、そのぶん大黒柱的なアレはすげーから。給料は…まぁ大したことねーけど、安定性は保証するしよ。炊事洗濯一通りこなせっし二世帯別居だし、なんならマスオさんでもかまわねーしさ。タバコ代は小遣いから引いてくれてかまわねーし、酒はよえーからそんな飲まねーし、パチンコと競馬は月イチ交代にするって約束するし…って、おい、なに笑ってんだよ」

銀さんこれでも真剣なんですけど。そう言って顔をしかめた彼に、けれど笑いは止まるどころか余計に増幅されるだけだった。含み笑いでも消化しきれない量に俺が、とうとう声を出して笑ったら、彼が、チクショウ、とつぶやくのが聞こえて、それにますますおかしくなった。
ヤベェ、涙出てきた。腹を抱えたままベッドに倒れこんだら、彼の立ち上がる気配がした、そのつぎに、イッテ、とこぼす声がした。それにまた笑った。足痺れたんだろどーせ。慣れねーことすっからだ。バーカ。
見上げた天井を、彼のすがたが覆いつぶす。見慣れた子供っぽさよりもっと弱々しい彼の、情けない顔に笑いは、気がついたら止まっていた。今度は純粋に笑み返したら、彼は、情けないどころか泣きそうな顔をしながら、俺に向かって手を伸ばした。
骨張ったゆびが、こぼれっぱなしの涙を拭いとる。頬に触るその手以外、なかなか近づいてこない彼に焦れて、花束と一緒に垂れ下がったままだった彼の、もう片方の手を引っ張ったら、やっと、ひどく遅いスピードで迫ってきた赤い目をはやくもっと、近くで見るために俺は、両手で彼ごと抱き寄せた。やわらかい銀色に、さわるのはどれくらいぶりだろう。
額がくっつきそうなほどの場所まで近づいた赤にようやく満足して俺が、彼のまぶたにくちづけたあとに、よかった、と、つぶやいた彼の声は、震えていた。

「もー俺、本気でダメかとおもった」

泣きたいのか笑いたいのかよくわからないような顔を彼は、俺の肩にうずめる。彼のタバコのにおいと、甘い菓子のにおいと、体温と、重さに、中途半端に整ったままの銀色はひどく不似合いだった。気に入らなくて、崩してやるのに専念してた俺の目の前に彼の、すっかりただの無邪気に入れ替わった顔が現れたのは、あ、といかにも思い出したような声と一緒だった。

「言っとくけどさっきのも本気だかんな。本気でプロポーズしに来たんだかんな。この日のために俺がどんだけ、」
「あーもーいいから黙れよオッサン」
「ちょ、テメ、なんだその言い、っ」

喋りだしたら間違いなく止まらないはずの彼のくちびるを俺は、くちびるでふさいだ。彼は一瞬ひどく間抜けな顔をして、それから、死ぬほど崩れた顔で笑いながら、離れたばかりのくちづけを、今度は自分から繰り返した。
掠めるだけのくちづけはくちびるをはみ出して、手当たり次第いろんな場所に落ちてくる。くすぐったさに、けれどよけるなんてすこしも考えられない自分を、バカだとおもった。けどアンタも大概バカだよな。わかったよ俺。俺もバカだけどアンタも相当なバカだって、今日はじめてわかったんだ。だってアンタ、震えてただろ。花持つ手も声もバカみてーに震えてんの見て、わかんねーわけねーだろ。
なんだよアンタ、もっとはやく言えよ。何回目かなんてどうでもよくなるくらい繰り返された彼のくちづけの隙をついて、俺は言った。

「アンタってさ、バカみてーに俺のこと好きだよな」

コンビニで待ってるらしい妹を迎えに行くためにふたりで立ち上がったのは、彼のスーツの折り目がよれはじめたときのことだった。
さんざん俺がいじりつくしたせいでいつも通り跳ねまわった銀色を、どこか満足げに掻きまわす彼に、そんなスーツ見たことないと俺が言ったら、今日のために買ったんだと彼は言った。ネクタイはどうしたと分かってて聞いた俺に、紙袋から青みがかった灰色のネクタイを取り出してみせながら、ほんとはさ、と言った彼は、照れたように笑っていた。ほんとは俺、自分で結べんだよ。
けど、夢でさ。両手は結ぶことをやめないまま視線だけ向けた俺の、髪を撫でながら彼は言った。好きな子に毎朝ネクタイ結んでもらうの、夢だったんだよ。給料日前で金ねーし、だからって前とおんなじ指輪つけさせんのもなんかヤだし、だからこれ、結婚指輪のかわりっつうことで買ってみたわけ。
このネクタイ、オマエの目とおんなじ色なんだぜ。出来上がった結び目をなぞりながら、どこか得意げに笑う彼に、俺は明日、彼と一緒に赤いネクタイを買いにいこうとおもった。俺の夢は終わっちまったけどさ。
今度は、アンタの夢に俺がつきあうよ。


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ほんとはここで終わらせるつもりだったんですけども、
せっかくなんでつぎはいとーを出そうかなとかおもって。
もっそい当て馬ないとーで。かわいそーなくらいの扱いで。


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