日曜の昼前にひとりで帰ってきた俺を、妹は言葉にするよりよっぽどなにか言いたげな目で迎えてくれた。いったいどんな顔を俺はしてるんだろうとおもうと可笑しくて、勝手に浮かんだ笑みのまま自分と同じ色の髪を、子供のときとおなじようにくしゃくしゃ撫でてやったら、彼女はひどく困ったように眉を寄せながらとうとうくちを開きかけたけれど、音になるまえに俺は彼女から逃げた。なにを聞かれたところでなにも答えられる自信がなかった。 部屋のベッドに倒れこんでからしたことは、天井を見つめるか寝るか、メシどーする?とドアごしに聞いてきた妹にいらないと返すか、あとは左手を、目の前にかざしてみるくらいだった。鈍く光る銀色を眺めたところで、なにかおもうわけでもなかったし、考えるわけでもなかった。なにも考えられなかった。考えることなんてもう、なにもなかった。 あのひとからはいちどきりの電話だけだった。出ないでいたらすぐに止まった。どうせ明日学校でいやでも会えるとおもってるんだろう。放課後あたり担任の権限でいつもの準備室に呼び出して、あの甘い声で機嫌をとればなんとでもなるとおもってるに違いないあのひとにとっては、俺も、簡単なもののひとつでしかないんだろうとおもうと、悔しくて泣きたくなった。だからって泣いてやるのはもっと悔しかったから、鼻をすする音ひとつで耐えた。それからまた可笑しくなって、すこしだけ笑った。あのひとのことを必死で知ろうとしてたいままではなにもわからなかったのに、なにも考えてないいまならなんでもわかる気がするだなんて、矛盾してる。 多串くんは放課後準備室に来るよーに。 月曜日の帰りのHRで、いかにもついでみたいに俺の予想どおりの言葉を吐いたあのひとが、ひどく滑稽で、おもわず吹き出したけれど、そのときあのひとがどんな顔をしてたのかは、見ないでおいた。気だるい目をしたたかそうに細めてるあのひとの顔を、思い浮かべただけで死ぬほどみじめな気持ちになったのに、実物なんて見たらなにをするかわからなかった。顔をあげることも返事をすることもしなかった俺に、けれどあのひとはなにも言わなかった。 俺があのひとに会いに行くことを当たり前みたいに信じてるあのひとの、おもいどおりに俺がなるのはこれが最後なんだと知ったあのひとが、どんな顔をするのかだけは、わからなかった。 「失礼します」 二回のノックのあとに開けた引き戸のさきで、いちばん最初に目にはいったのは、ソファにぐったりと座りながらタバコを吸う彼の横顔だった。 窓から入る夕日以外、明かりのみなもとのない薄暗い部屋で、汚い茶色を余計汚くまとってみせる皮のソファは破けて綿が飛び出してる場所がいくつもあった。いつもそこで昼寝をするあのひとの白衣に、たまに黄色い綿がくっついてたことを俺は思い出した。壁の本棚いっぱいに積まれた古い本の裏にジャンプが何十冊も隠してあることや、机の引き出しに甘い菓子のストックが大量に詰め込まれてることなんかも、引きずられるようにいっぺんに思い出した。 いつまで思い出せるだろう。湿った紙のにおいもタバコの煙も、それからあのひとのにおいも、そういうものにつつまれながらしたくちづけも俺は、いつか忘れるんだろうか。忘れられるんだろうか。 「まだ怒ってんの?」 後ろ手で扉を閉めるのと、彼がメガネをはずすのは同時だった。いたずらっ子みたいな笑みで俺の顔をうかがい見ながら、片手でタバコを消す彼の、だらしなく座った隣をポンポン叩くもう片方の手は、無視した。従ったら最後、同じことの繰り返しだ。抱きしめられてなだめられて甘やかされて、ほだされる心地よさを、振り払うためにはけれど、手のひらをすこしだけ強く握る必要があった。彼から目を俯ける。 深く息を吸って、吐き出してから、もういちど見つめた彼の、満足げに細められた目は、いまからどんなふうに変わるんだろう。 「俺、アンタじゃねーヤツと寝たよ」 なにも変わらなかったらどうしようかと、おもうだけ無駄だった。バカみたいに目を見開いてみせた彼が可笑しくて、俺は笑った。 「土曜日、帰る途中で声かけてきたヤツ。名前も聞いてねーし顔も覚えてねーけど」 彼の赤い目が、すっ、とふたたび細められた。ひどく無表情な顔に、瞳だけを冷たく光らせながら彼が、音もなく立ち上がる。 ゆっくりと一歩を踏み出されたとき俺は、はじめて彼を怖いとおもった。 「ふつーにヨかったよ。しかもなに勘違いしたのか金おいてきやが、っ」 シャツの襟元をすごい力で掴みあげられた。苦しいと、おもう暇もなく鈍い音とともに頭の後ろが扉に叩きつけられた。 痛みにおもわずゆがんだ顔に、けれど目の前の彼は眉ひとつ動かさなかった。 「冗談じゃねーぞガキが」 低い平坦な声に、聞き慣れた甘さなんてどこにもなかった。 「目の前でイチャつかれてヤキモチやいて、だったら俺にも焼かせてやるって?」 「ちが、」 「ちがわねーだろ。安心しろよ俺いま死ぬほど腹立ってっから」 少しも笑ってない目で笑う彼の、言葉に合わせて硬い扉に俺を押しつけるちからは増していった。息がつまりそうだった。人並み以上にはケンカ慣れしてきた自信があるし、いまと同じ状況なんて腐るほど抜け出してきたはずだ。なのに、そんな俺の経験値なんてなんの役にも立たないくらい彼の腕はびくともしなかった。だからって素直にビビってやれるほど従順な性格も持ってなかった。 瞳孔開いてんぞオマエ、と彼がよくからかってきた目つきを最大限に悪くして睨み返したら彼は、はじめて無表情を壊した。 「いくら世間ずれしてねーからってなァ、ノリでやっていい限度くれーわかんだろーが!」 「っわかんねーよ!」 少ない酸素を全部使って絞り出した声に彼がひるんだ一瞬を、逃さなかった。彼を突き飛ばした、俺の、全力に、それでも一歩ぶんも後退しなかった彼のからだがまた戻ってくる前に、頭を使うひまなんてなかった。 「なんだよノリって!わかるかよそんなモン!」 吐き出した言葉はだから、ただの感情のかたまりだった。 裏返りそうな自分の声や呆然とした彼の顔をどこかで、カッコ悪ィ、と笑ってる自分がいて、そのことにまた可笑しくなった。歪んだ顔がけれど、ほんとに笑えてるのかはわからなくておもわず、俯けた視界が、ぼやけだしてることに気づいた。こぼれ落ちる前に拳で乱暴にこすったらあの、銀色の冷たい感触が目の端にあたった。涙がこびりついてるそれを制服の裾でぬぐってから俺は、ゆびからはずした。ゆびの根元に少しだけ巻きついた跡がまるで、心残りみたいだった。 「返す」 低い放物線を描いて銀色が飛ぶ。彼の、いかにもおもわずなふうに開いた手のひらに乗る場面を見とどけてから、もとどおりまた俯いたら彼の、しわくちゃなネクタイが見えた。 器用なくせにネクタイだけはいつもヘタクソに結ぶ彼を、最後に手伝ってやったのはいつだったのか、思い出すにはすこしだけ時間がかかった。 「ヤなんだよ、もう」 疲れた。と、つぶやいた声が震えてるのに気づいたとたん、せっかく拭いとった涙がまたあふれてくるのがわかった。 「あんたの言うこといちいち気にして、物わかりいいふりしてよ。からかわれたってまともに言い返すこともできやしねぇ。アンタに捨てられたくねぇ、嫌われたくねぇって、そんなことばっかごちゃごちゃ考えて、考え過ぎて疲れるくれー考えて、そんでも、好きなんだよ」 とうとう目から抜け出したしずくを、だからって食い止める気にはもうなれなかった。何回やったってどうせ同じだし、それに、彼のために泣くのはきっと、これが最後だ。だったら好きなだけ泣いておこう。 そうすればすこしでも、彼の記憶に食い込んでくれるかもしれないと、顔をあげたら彼が、やけに痛々しそうに眉をひそめたのが見えた。 そんなひでー顔してんのかな俺。場違いに笑えてくるまま目を細めた拍子に、涙が頬を伝っていく。 「どんだけ疲れたって腹立ったって、恋人でさえいれりゃいいって。そーすりゃ、アンタのこと独り占めできんだって、信じて、だから我慢できたんだ。なのに、アンタはノリで、どっかのヤローとキスできんだもんな。俺じゃなくてもいーんだもんな。俺には、アンタしか、いねーのに」 少しでも震えないように絞り出した言葉は、気がついたらぶつ切りだった。それにまた笑ったら、彼の手が近づいてきた。 歪んだ視界のすぐ前で、振り払っておきながら、追いかけたがってる自分にうんざりした。 「俺さ、わかったよ」 口を開きかけた彼を、遮る強さで俺は言った。 「キスもセックスも簡単なんだって。やろうとおもえば誰とでもできんだって、アンタ以外のヤツとやってみてわかったけど、そんでも、俺は、起きていちばん最初に、アンタのこと探してんだ」 知らない場所の、誰もいないベッドで味わったみじめさを思い出して、しゃくりあげそうになった。食い止めようと必死で吸い込んだ息が震える。恐る恐る吐き出したら、一緒に涙まで吹きだした。バカみたいだとおもった。ホント、バカみてーだよ。アンタのこと忘れたくてヤってんのにアンタのことばっか思い出してた俺も、アンタなんか好きになった俺も、アンタなんかのために泣いてる俺も、いまでも好きな俺も、全部、みんな、バカみてーだけどさ。それでも、後悔なんてしてねーんだ。できねーんだ。自由の効かない顔と、くちびるで、精一杯の笑みをつくって俺は、彼にむかって少しだけ頭をさげた。 ふたたび見上げたさきには、なにがおこってるのかよくわからないような顔の彼がいて、俺はその、間抜けな顔が、可笑しいのに泣きたくなった。 「みじかい間だったけど、楽しかったです」 幸せだったんだよ。アンタとキスして、セックスして、一緒にメシ食ったりダラダラしたり、夢みてーに幸せだったからさ、もう、いいんだ。十分なんだ。後悔なんてしねーから、だから、終わらせてくれよ。頼むから、終わらせてくれ。 これ以上みじめなおもいするくらいなら俺は、 「さよーなら、先生」 夢が夢のまま終わっちまったほうが、そのほうがずっと、幸せなんだ。 ハッとしたみたいに俺にもういちど伸ばされた彼の手を、同じように振り払って俺は、扉を開けた。暗い廊下の、後ろから彼が、とーしろう、と俺を呼ぶ大きな声を聞いたけれど、振り返らなかった。必死で走った。 階段を駆け下りる。冷たい空気と自分の足音を浴びながら、思いついた事実に俺ははじめて、ほんのすこしだけ後悔した。 恋人でいられた最後くらい、アンタに抱かれて終わりたかったよ。 next どーしよーかこれ。 |