緑、赤、白。ベースは闇。知らない声と知らない言葉でささやく誰かの歌を従えて、絡み合う3つの色に、一瞬照らされた顔や肩や腕はやっぱり一瞬で闇に戻っていった。
ささやきや笑い声、それから罵声が、酒のにおいとタバコの煙、ひとの熱のすきまを途切れず無秩序に漂う。行き場もないまま積み重なったその声のかたまりは、せまいフロアを飲み込む歌声だってたまにかすむくらいのボリュームで、なのになにを言ってるのかはひとつも聞き取れなかった。
なんだっていいんだろう。現実とかしがらみとかそんなものを、曖昧にさえできれば、言葉なんてべつになんでもいいんだろう。好きにすればいいとおもうけれど馴染む気にもなれないのはただ、俺の目的がそれとは違うからだけのことだ。頭に鳴り響くたくさんの音と、うごめくたくさんのひとのすがたから、俺は目を伏せた。赤いライトが手に持ったグラスを横切っていくのを、ぼうっと追いかけていったところで、たどりつくのは結局、フロアの壁を取り囲むちいさなテーブルを、四つぶん通り過ぎた場所にある、あのひとの背中だった。
薄い水色のシャツをまとった肩と、銀色が、知らない誰かのために楽しげに揺れているのも、何度見直したところで変わらなかった。

「…帰りてェな」

いつものあのひとの過去のはなしがいつのまにか今にまで足を踏み込んでいたのは、生クリームといちごの塔が目の前で斜めに崩れたときのことだ。
昔よく行ったバーの、店長をしてるとんでもないらしいおっさんに、あのひとが絶対来いと言われた何周年か目の記念パーティーの日は土曜日だった。俺が毎週、あのひととふたりきりですごすための日だ。
金曜日からあのひとの家に泊まって、土曜日の朝一緒にメシを食べる。それから、特になにかするわけでもない。持ち帰った仕事をぶーぶー言いながらこなすあのひとを、ぼうっと眺めるだけのこともあるし、ふたりでダラダラとテレビを見たり、映画を見たりすることもある。ヒマすぎて寝てばかりなこともある。
いちど、付き合いだしたばかりのころに、やっぱりヒマを持て余してたらあのひとが、どっか行くか?と聞いてきたことがあったけれど、すぐに断った。邪魔されたくねェし、とつぶやいた俺に、そーだな、と笑ったあのひとはきっと、俺の答えなんて聞く前からわかってたんだろう。教師だとか生徒だとか、年齢だとか性別だとか、そんなつまらないことを、忘れるための日にわざわざ思い出させてくれそうななにかに、襲われる確率は少しでも低いほうがいいんだと、あのひともおもってくれたことが嬉しかった。
スーパーもコンビニもファミレスも、レンタルショップも、ふたりの時間を守るためのあくまで手段で、出かけることそれ自体を目的にすることはだからほとんどなかった。あるとするなら、パチンコで勝ったとか競馬で当てたとかで、金に余裕のできたあのひとが、妹も一緒にメシに連れていってくれるときだけだった。
そんなときはたいてい、そのままあのひとが俺の家に泊まっていくから、日曜日の部活へは大事な妹とあのひとがふたりで送り出してくれることになった。目覚めのいい妹の元気な声と、死ぬほど目覚めの悪いあのひとのだるそうな声に、俺は、部活に行くために送ってもらうのか、送ってもらうために部活に行くのか、たまにわからなくなることがあった。ただ両足が、気を抜いたら逆戻りしそうになることだけは確かだった。
夢のかたまりのような金曜と土曜と日曜が、だからって毎週当たり前に叶うとおもってたわけじゃない。
あのひとの都合だったり俺の都合だったりで、諦めなきゃならないこともあるんだろうと、わかってたはずなのに、現実になったらやっぱり悲しかった。あのひとと過ごせる自由が俺にあるのと同じように、他人にはそれを邪魔する自由があるんだと、簡単に受け入れられるほど俺は大人じゃなかった。だからって湧いたそのままの感情を押しつけるほど子供にもなれなかった。ごめんなぁ、と相変わらず情けない顔と声で謝ったあのひとに、じゃあ俺も行く、と言ったのはだから、単純に少しでも一緒にいれる時間をほしがる子供な部分と、あのひとがどんな世界に生きていて、どんなふうにふるまって、まわりの人間がそれをどんなふうに受け止めるのかを見れば、あのひとの好きなものがわかるかもしれないと期待する大人の部分が、混じり合った結果だった。
あんまおまえの相手してやれねーとおもうけど、そんでもいい?
なんでついて来たいんだとか、ついてくるなとか言われなかったことに、ホッとするので夢中だった俺には、あのひとの意地の悪そうな笑みの理由なんて、だから気づくわけがなかった。

「ほんっと、意地悪ィ」

わかってたんだろ。俺じゃねーヤツ相手にしてるアンタに俺がどんだけイラつくかなんて、アンタわかってて連れてきたんだよな。俺からかって遊ぶの大好きだもんな。届かない背中にぶつけたい言葉を、俺はグラスの中身と一緒に乱暴に飲みくだす。
はじめて飲んだ外国製のビールは薄くてまずくて最悪で、こもった空気は鬱陶しかった。さっきから入れ替わりで誘いをかけてくるヤツらはもっと鬱陶しくて、なのにあのひとは、最初の男のときにいちど振り向いて以来、まるきりこっちを気にする気配がなかった。
きっと、あのひとにとっては当たり前のことなんだろう。だったら俺も、あのひとの前で愛想を振りまくどこかの誰かを、あのひとから引きはがすことはできないと、自分を戒める余裕はそろそろ使い切ってしまいそうで、なのにあのひとが振り向く瞬間を、あのひとが俺のものになる瞬間を、まわりの連中に見せつけてやりたい気持ちは、まだ使い切れてなかった。だから、帰れない。
うすら笑いで新しい男が近づいてくる。俺の隣を陣取ったそいつが口を開く前に睨みつけて追い払った。苦笑いひとつで背中を向けた男の、趣味の悪いシャツにひどくイラついて、勢いで飲み干した酒はやっぱり最悪で、余計イラついた。あたらしくタバコをくわえる。フィルターを噛みちぎりたくなりながら、意識して隅っこのカウンターに目をやれば、丸い顔に陽気な笑みを浮かべたおっさんが忙しそうに酒をつくってるのを見つけて、少しだけ気が楽になった。
これがウワサのとんでもねーおっさんな。
そう言ってあのひとが紹介してくれた店長は、オネエ言葉以外はどこにでもいるただの小太りなおっさんだった。そこらの悪ガキみたいな扱いであのひとを小突いたりののしったりするおっさんに、いつもの気だるい調子で返すあのひとが俺にはひどく幼く見えた。まるであのひとが自分と同じ場所に立ってる気になった。どう言えば気に入られるだろうとか、どうすれば嫌われないだろうとか、なんにも考えないで一緒になって笑えたのは久しぶりで、それが嬉しくてやたらと笑い転げてた俺に、酒焼けしたダミ声とひとの良さそうな顔をしたおっさんは、かわいそーにねぇ、とほんとに同情してるみたいな表情で言った。面倒なオトコに捕まっちゃって。こんなのマトモに相手してたらアンタ、疲れちゃうわよ。
アタシだったら絶対ゴメンだわこんなバカ。数十センチはうえにあるあのひとの頭を小突いたおっさんに、俺もゴメンだわこのメタボヤロー、と言い返しながらあのひとが、俺に向けたどこかひとの悪い笑みに、俺は、見抜かれてるんだとおもった。おっさんの言葉がいまさらもう遅いくらい、あのひとのことが好きで、振り回されてるんだと、あのひとはちゃんと知ってるんだろう。知ってて俺を振り回すんだろう。
最悪だ。火をつけたタバコの、最初の煙を吐き出しながら、俺は床を見下ろした。こぼれた酒と吸い殻が散らばる板張りの床に向かって、少しだけ笑う。笑うしかなかった。あんな最悪なヤツ、なんで好きなんだろーな。バカじゃねーの俺。気がついたらこぼれそうになっていた灰を、灰皿に落とすために上げた顔はやっぱりあのひとを見つけていて、バカみてェ、と今度は音にしてつぶやいた。知らない誰かの手があのひとの銀色に触る。あれがどれだけ柔らかくて、どんなふうに寝癖がついて、それをあのひとがどのくらい時間をかけて直してるのかを、あの手の持ち主は知ってるんだろうか。
知らなきゃいいのに。つーか触んな。ライトにたまに照らし出される手の持ち主を睨みつけた、ちょうどそのタイミングで、あのひとがテーブルを離れるそぶりをみせた。こっち来んのかな。いままであのひとの向かいを独り占めしてた男に今度は、背中をみせたあのひとを見逃さないよう、必死で目を凝らす。
俯きがちなあのひとの顔に、早くこっち向け、と心のなかで夢中で呼びかけたときだった。向かいにいたその男があのひとの前に立ちはだかった。邪魔すんなと、舌打ちする暇もなかった。あのひとの首にすがりついたそいつがあのひとにくちづけたのを俺は、はっきりと見た。白いライトが一瞬だけ切り取ったその光景のなかで、あのひとは、俺を見て笑っていた。
なにをおもえばいいのかわからなかった。ただ勝手に動き出した足に任せて歩き出した。誰かの肩を押しのけて、ぶつかりながら、店のドアを開けたときには、手からタバコが消えていた。
目の前に飛び込んだいろんな色の看板や派手なライトに目を細めていたら、背後からとーしろう、と呼ぶ声がした。ようやく聞けた相変わらず甘い声に、振り返りたくなかった。ビルと人ごみと残飯のにおいにうまった世界へ飛び出す。何回目かの声と、何歩目かの早足のあとに、腕を掴まれた。無理やり振り向かされたさきで見たあのひとの顔はすまなそうに、けれどやっぱり笑っていた。
アイツしつけーんだよ。なっかなか離してくんねーの。だからさ、油断しちまったみてー。やっとおまえんとこ行けるっておもったらさ。ごめんなホント、許して。
頭のうえから降ってくるあのひとの声は、セックスしてるときみたいに低くて優しかった。けれどなにを言ってるのかはよくわからなかった。どんな顔をしてるのかも、見れなかった。見たくなかった。帰る、と、ようやく絞り出した声に、ひとりで帰れる?俺まだ居なきゃなんねんだけど、と言ったあのひとのくちびるが、額に落ちてきたとわかった瞬間、俺はあのひとを突き飛ばした。吐きそうだった。当たり前の顔で俺に触ろうとするあのひとから、走って逃げた。夢中で走って、気がついたら夜の街と、オフィスビルの群れの境目に居た。あのひとが追いかけてこないのを確かめて、俺は、近くにあった植え込みの角に座り込んだ。
跳ね上がった鼓動が、すこしずつスピードを落としていくまで、どのくらい時間がかかったのかわからない。ただ呆然と聞いていた俺に、降ってきた知らない男の声に、顔を上げたのも、だから無意識だった。ヒマだったらどっか遊びに行かない?と笑顔を向けた、俺とたいして変わらない年にみえる男に、ついてく気になったのは、茶色く染めた髪も、細い目も、薄いくちびるも、ぜんぶ、あのひととはまるで違っていたからだ。なんだってよかった。あのひとを忘れさせてくれるなら俺は、どうなったってよかった。
あんま俺、金ねーんだけど。そういえばそうだったと、言ってあらためて思い出した事実を、覚えていた自分がなんだか滑稽で、つい笑ったら、男はなにか勘違いしたみたいだった。遊んでくれたらお小遣いあげるよ、と意味ありげな笑みで俺を立ち上がらせた男が、バカみたいで、また笑った。
はじめて入ったホテルではじめてしたあのひとじゃない相手とのセックスは、単純に気持ちよかった。それだけだった。
相手の言葉も、声も、キスの仕方もゆびの触れ方も、顔だって覚えてないことに気づいた朝に、残ったのは、隣に誰もいないベッドと、しわくちゃになったシーツと、灰皿の下にしかれた二枚の万札に、知らない携帯の番号が書いてあるちいさな紙だけだった。簡単なんだとおもった。セックスもキスも簡単で、簡単すぎてバカバカしくなって、笑えるだけ笑ったあとに、涙が出た。
気持ちも、簡単だったらよかったのに。


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