高校教師になる自分を誰よりも予想していなかったのは銀時自身だった。
教職免許を取ったのだってただのノリだ。大学を卒業しても就職先がなかなか決まらなくて、いっそフリーターでもいいかとおもっていたのだ。教員募集の話が舞いこんだときはじめて自分が免許を持ってると思い出したくらい、だから教師なんて視野にはない未来だった。
銀時が勤めているのは、評判が悪すぎて教師が誰もよりつかない公立高校だ。
授業なんて教科書を取り出す生徒がクラスの半分いればマシなほうで、トイレと屋上には常にタバコの吸い殻が散らばっている。教師はみんな平等に手を焼いていて、そのなかでついにノイローゼでやめてしまったものの代わりに呼ばれたのが銀時だった。
教育意欲と、ついでに勤労意欲もなかった銀時には天職だった。授業がどれだけ適当だろうと誰も文句は言わない、なのに給料はもらえる。
端から生徒と打ち解ける気なんてなかったのに、面倒にならない程度の悪さを黙認していたら妙に懐かれた。銀八だなんて格好のつかないあだ名も、すでに生き物でさえないものから名前をつけられたほかの教師にくらべたらマシなほうだ。
そんなどうしようもない環境で、彼は少し異質な子供だった。
滅多にサボらないし、授業もちゃんと聞く。髪も染めないし補導歴もない。
前に偶然タバコを吸っている場面に遭遇したときだって、銀時がなにも言わないことは知っているはずなのにひどくバツの悪そうな顔をしてみせたから、かえって新鮮な気持ちになったくらいだ。まわりに流されない、自分なりのけじめを貫く彼が、けれど銀時は気の毒だとおもう。
適当に流されて適当に道を踏み外すだけの軽さが彼にあったら、きっとここまで悩まずに済んだんだろう。

「中学んときから、なんか変だとはおもってたんだ」

俯きがちに呟いた彼の声は、まるで独りごとのような響きを持っていた。

「ダチとAV見ても俺だけなんとも思わねぇし、好きな女もできねぇし。そんでも、単に興味ねぇだけなんだろっておもって、あんま気にしてなかったんだけど、高校入ってすぐ…好きなヤツが、できて」
「男だったっつうわけか」

フッ、と、煙を強く吐き出しながら言った銀時の顔を、彼は視線だけで一瞬のぞき見たけれど、すぐにまた地面に向けてしまった。
わずかに頷いてみせたのはそのあとだった。

「最初は、信じたくねぇし無理やり女とつき合ったりしたんだ。けど、その…それっぽい雰囲気になっても、勃たなくて」

ギリギリ聞きとれるくらいの掠れ声でそうささやいた彼の顔が、ほんのすこしだけ赤みを帯びたのを銀時は見逃さなかった。
今どきめずらしーほどの純情っぷりだなオイ。銀時は自分まで一緒になって照れてしまいそうで、短くなったタバコを地面にこすりつけるついでに目を反らす。
銀時がはじめて自分の性癖に気づいたのは中学生のころだ。
友達から借りたエロ本の、顔も見えない男優の身体で興奮した事実に、悩んだのはその日一日だけだった。夜寝て朝起きてからすぐ、俺ゲイだからと宣言した銀時を両親はまるで信用しなかったけれど、一年間言い続けたあげく年上の男の恋人を紹介したら、やっと信じてくれたと同時に大げんかになった。
ぎこちない毎日が続いたのはそれでも一週間程度で、ふたたび恋人を連れていったときには二人そろって、病気にだけは気をつけなさいと母親に説教までされた。
高校一年の自己紹介では、『坂田銀時十五さい、性別は男でセックス対象も男です』と言ってドン引きされた。それははじめから予定どおりのことだった。
そのなかから引かなかったやつだけをダチにしようと決めていたからだ。引かなかったどころか、そのころ年を隠してかよいだしたゲイバーにまでおもしろがってついてきた男友達に自分のカミングアウトの話をしたら、世界中のゲイがみんなテメェなみに軽かったらカミングアウトなんて言葉は存在しねェなァ、と爆笑されたのをいまでも覚えている。
三年生になるころにはもう、夜の街に染まりきっていた。
乱交まがいのこともしたし、クラブのトイレで名前も知らない相手とセックスしたこともある。テキーラをひと瓶一気飲みして一日中吐き続けたこともあるし、出どころ不明のハッパでトんだことも、警察に捕まりそうになったことも一回じゃすまない。
それが普通だとは言わないけれど、だからって別にたいしたことでもないと今までおもっていたのだ。なのに、たかが勃つか勃たないかを口にするくらいで顔を赤らめている彼を前に、銀時ははじめて罪悪感みたいなものを感じていた。
この子ほんとに高三?実は中二なんじゃね?顔が見えないのをいいことに、銀時は彼の頭から足先までをくまなく観察してみる。

「そーゆうこと何回か繰り返したらさ」

ため息をつくように彼が言った。

「もう信じねぇわけにいかねぇだろ。でも…そんでもどっかで、もしかしたらって。もしかしたらただの勘違いなんじゃねぇかって。だから、」
「確かめたかったって?」

銀時の声に、彼はかすかに肩を震わせた。
沈黙がふたりを取り囲む。数十秒が経って、それでも黙り込んだままの彼に、銀時は二本目のタバコを取り出しながら大きくため息をついた。

「別に男とセックスしてみてぇっつうのに文句は言わねぇよ。けどな、相手が悪すぎだ」
「…いちばん最初に声かけてきたんだよ。それに…やさしそうに、見えたし」
「やさしいヤツがあんなとこ連れてくかっつうの」

差し伸べられた手に見境なくすがりついてしまうほど、弱っていたのはわかる。
わかるけれど、だからって警戒心までなくしていいわけじゃない。いかにももの馴れない空気に満ちた彼は、あんな場所では絶好のエサだ。食いつくされる前に見つけ出せた偶然にあらためて感謝する気持ちが生まれるくらいには、なにも知らない子供をおもいやれるだけの良心くらい銀時だって持っている。

「で?」

動く感情をおさえるために、銀時は吸い上げた煙をわざと時間をかけて吐き出しながら、できるだけやわらかい声をつくって言った。

「どーする?これから」
「…え?」

はじめて顔をあげた彼の目は、涙がみえないのが不思議なほど痛々しくゆがんでいた。

「実はさっきまでダチと飲んでたんだけどよ、たぶんまだあの辺うろついてんだろうから、今から戻るんならめぼしいの何人か紹介してやるぜ?」

わざと軽い笑みをつくった銀時に、彼がこれ以上ないほど目を見開いてみせた。普段の生意気な彼なら絶対見せないに違いない、無邪気なその顔を、見れる数少ないはずのひとりになれたことに銀時はすこしだけ優越感をおぼえた。

「身元は保証するし、病気も持ってねぇし、おまえほどじゃねぇけど顔もイイし。まぁ先生のダチやってるくれぇだからそこそこバカだけどな、そんでもさっきのあのオッサンに比べりゃ五百倍マシだわ。どーする?会ってみっか?」

彼は、ふたたび顔をふせた。くちびるをすこし噛んで、考え込むふうな彼のつむじをのんびりと眺めながら、銀時は、こっそりと苦笑をうかべた。
あらためて見てもきれいな顔だ。年相応の幼さと、年に見合わない意志の強さが絶妙なバランスで散らばっている。
取り合いになんじゃねぇかなコレ。やっぱりひとりずつ会わせることにしようか、と銀時が考えはじめたところで、彼がしっかりと顔をあげた。
その顔がひどく思いつめていることに、けれど不思議におもう暇もなかった。

「先生がいい」

その声は、ひどく震えて掠れていた。

「誰かわかんねぇヤツとするくらいなら、先生がいい」

先生はおまえの先生だからね。言いかけた言葉が、なんの理由にもならないことに、銀時は呆然とした。
手を差し伸べてやりたいとおもったのは確かだ。
それがどんなかたちでだろうと、望まれるのなら叶えてやるのが、教師として間違ったことだとは言いきれないと、気づいたと同時に銀時は、それがただの言い訳だとも気づいてしまったのだ。
教師としてのモラルとか自覚だなんてもとから持ち合わせちゃいない。自分が教師だろうと相手が生徒だろうと、だからそんなのどうでもいい。
ただ、他の誰でもない、自分を望んだこのきれいな子供を、わざわざ他人の手に渡したくないだけだ。

「いいよ」

吸いかけのタバコをベンチにこすりつけると、銀時は遠くにむかって放り投げた。
それから見つめなおした彼の顔が、間抜けなほど驚いていたことに、銀時は思わず苦笑をこぼす。

「自分で言ったくせになに驚いてんだよ」
「っだって…ほんとに、いいのか?」
「いいよ。そのかわり」

銀時は片手をのばして、彼の頬にふれた。
さらさらと乾いた彼の頬を撫でるように、すべらせた親指のさきを、くちびるとくちびるのあいだにはさむと、かすかにそこがすきまをつくった。

「ふたりだけの秘密な」

身体中をこわばらせた彼は、それでも、銀時から目を離すことはなかった。


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