三限目のはじまるチャイムが鳴った。ドアの向こうの足音やこえが、遠く薄れていったせいで、彼女は自分の鼻をすするおとがおおきくなった気がした。
置き去りにされたようなさみしさを、振り払うために、髪を撫でる優しい親友のゆびとやわらかな胸に、甘えていた彼女の、背中のほうで立てつけの悪い引き戸を一気にこじ開けるおとがした。
機嫌を損ねた男が出て行ったおとだとはじめはおもった。

「なんとかしろよこいつ」

出て行ったおとじゃなく、呼び出された誰かが入ってきたおとだと教えてくれたのは、不機嫌そうな男のそのこえに、遅れて聞こえた携帯を折りたたむおとだった。呼ばれる誰かなんてひとりしかおもいつかなかった。彼女は、必死になって親友の胸にすがりついた。
恋なんてやめると決めたばかりなのに、顔を見たらきっと、やめたくなくなってしまう。

「トシ」

彼のこえに振り向かないために彼女は、もっと必死になって親友の胸にはりついた。彼のため息が聞こえた。
履き古したスニーカーの、引きずりがちな足音が近づいてくる。

「おい、こっち向け」

肩に触れた彼の手を、彼女は片手で叩いて払った。彼の二度目のため息に、男のため息も加わったら、もうひとりぶんの足音も近づいてきた。親友の両肩を男の手が押さえつけたのを盗み見た。
それを待ってたように、彼女の両脇のしたに彼の手が差し込まれた。

「ちょっ、痛い痛い!トシちゃんおっぱい引っ張らないで!」

引きはがそうとする男の強いちからに、歯向かうことに精一杯だった彼女は、目の前にあった親友の胸をちからいっぱい握っていたことに気づかなかった。切羽詰まった親友のそのこえにおもわずちからを抜いた、その一瞬のすきに、彼女のからだが宙を浮く。
おおきく息をつく親友と、その隣で面倒そうにもういちどため息を吐く男の顔を一歩ぶん遠くに見ながら、抱き上げられたからだを降ろされる。彼女は諦めなかった。ふたたび親友のもとに逃げだすために、両腕をつかむ彼の手にからだじゅうで暴れて歯向かった。彼はびくともしなかったけれど、それでもやめるわけにはいかなかった。彼の手に噛みついてやろうとして、けれど、目の前に立ち上がった親友を見つけたら、忘れてしまった。
男と並んで、親友が近づいてくる。

「ちゃんと仲直りするんスよ」

すれ違いざまそう言って、彼女にいつもどおりの笑顔を見せた親友が、ちいさく手を振って彼女を通り過ぎていった。せなかのほうで男と彼がなにか言い合っていたけれど、彼女には聞く気もなかった。親友がいなくなってしまうことのほうが重要だった。

「っなんで、」

置いていくんだと、振り返ったときには、ふたりは半分ドアの向こうにいた。最後に苦笑いを残して、親友はドアを閉めた。
ゆいいつの味方の、足音が遠く小さくなっていく。 それに合わせて、どんどん大きくなっていく心細さは彼女から、ちからを吸い取るようにあたらしいなみだを引きずり出した。彼女はその場にしゃがみこんだ。震えるくちびるを、手の甲におしつけて食い止めようとしたら、ひぃっく、としゃくりあげるこえがおおきく鳴って、余計に震えるだけだった。
彼の、三度目のためいきが聞こえた。

「俺のせいなんだろ?」

あたまの真後ろで聞こえた、抑えた低いこえに、彼女は彼も一緒になってしゃがんだのがわかった。
こたえるつもりなんてなかった。なのにちょうどよくしゃくりあげたこえが返事の代わりのように響いてしまって、悔しかった。彼女は歯を噛み締めた。

「じゃなきゃまっさきに俺のとこ来るはずだもんな」

なみだのもとが腹立ちだろうと悲しさだろうと、泣いてしまった彼女がいちばんに会いにいくのは小さな頃から、いつだって彼のところだ。
グチや罵声を吐けるだけ吐いたら、ちっともなぐさめにならない彼のなぐさめのことばに今度は腹が立って、ふたりで言い争ってるうちに泣いた理由も忘れてしまえる。
いつものそのやり方で、けれどいまのなみだは止まるんだろうか。泣いたのは彼のせいじゃない。うまくやれない自分の、うまくいかない恋が理由だ。泣かないためにはだから、恋をやめなきゃいけない。でも彼をみたらきっとやめられない。
だったらこのさきずっと、彼と離れて生きなきゃいけないんだろうか。たどり着いたこたえは、彼女にとって恐ろしいものだった。噛み締めた歯が震えてほどけた、それを合図に、溜めておく場所が破けたみたいに、なみだが一気に溢れ出た。

「っ、ひ…っ」
「あーもう、ンなに泣くなって」

しゃくりげるどころじゃすまなくて、こどものときのようにこえをあげて泣きはじめた彼女の、あたまのうえに、彼の手が乗る。
どんなにおおきく骨っぽくなっても、髪をかきまわす乱暴な優しさは昔とちっともかわっていなくて、彼女はもう、振り払えなかった。やめるには、この手も捨てなきゃいけない。そんなことはできない。やめたくなんかない。でもみじめなおもいもしたくない。

「…俺とつきあうのやだった?」

ちがう、とうまくこえにすることもできなかった。代わりに一生懸命首を振るのを、ちゃんとみてもらえているか不安で、とうとう振り返ったらなみだ越しにうつる彼の顔は、笑っていた。
どこかぎこちないその笑みが、彼の照れたときのものだと、彼女は誰よりもよく知っていた。自分にもその顔をさせてやれるんだと知ったら、嬉しくて、おかげでなきごえはもとどおり、しゃくりあげるだけになった。そしたら彼は、さっきとおなじように彼女を軽々と持ち上げた。驚くひまもないうちにまた降ろされたときには、彼と向かい合わせだった。
降ろされるまま、むき出しのひざで正座したら、床の冷たさがつたわって、おかげで彼をみつめるくらいの冷静さは取り戻すことができた。みたら、やめなくてもいいやり方を聞きたくなった。
必死な自分を知られたくないなんて、いまはもう言ってられない。彼を手放さないほうがずっと大事だ。決意を糧に、彼女はなみだをおさえつけた。しゃくりあげるこえはまだしぶとく歯向かってくるけれど、負けていられない。
顔じゅうに散らばったなみだのあとを、シャツの袖で強くこすってぬぐいとる。震える息でむりやり深呼吸をしてから、しゃがみこむ彼のすがたをみつめなおしたら、すこしはマシになった視界に彼が、目を細めたのがみえた。

「わ、わからねーんだ」

こえにしたら、また泣きそうになった。彼女は、ひざのうえでスカートを強く握りしめて耐えた。

「また子とか、おまえがまえ、つき合ってたやつ、とか、みてーに、かわいくしようって、おも、おもうのに、できねーんだ。なにしゃべっていーか、わかんなくなるし、か、かみも、むすべねーし、メール、みん、みんなのまえ、で、よまれ…っ」

おもいだしたみじめさに、勢いをとりもどしたなみだが彼女のスカートや、スカートを握りしめた手の甲に、つぎつぎと落ちていく。
彼がどんな顔をしているのかなんて、だから見たくても見えなかった。
彼の四度目のため息が、ハァ、といままででいちばん長くのびた。

「おまえはほんと…」

くだらないと言われるだろうか。でも彼女にとっては恋を続けられるかどうかの境界線だ。親友にも去られて、あとは彼しか残ってない。助けてほしいと、顔いっぱいに張りつけた彼女の、両頬が、とつぜん強くつねられた。
無理やり顔を持ち上げられて、痛みと、それから驚きで、おもわず見開いた目の前で彼は、不機嫌そうな困ったような、よくわからない顔で彼女を見ていた。
五度目のため息とともに、彼女から離した手の片方で彼が、飛び跳ねた後ろ髪をかき乱す。ンだよそれ。俺のせいかよ。いや俺のせいっつったら俺のせいだけど。いやでもさァ。床に向かってぶつけられる彼の、つぶやきを、彼女はひとつひとつ聞き取って、そして期待した。
彼のせいなんだろうか。うまくやれないのは自分のせいだとおもっていたけれど、彼のせいなら、彼になんとかしてもらえるだろうか。熱を持ってはれぼったいまぶたを、精いっぱい開けて、彼を待ったら、顔をあげた彼はどこか、拗ねたような顔で彼女を見ていた。

「おまえ俺がなんで前の女と別れたか知らねーだろ」

ふてくされたように言い捨てる彼に、彼女はただ、まばたきをした。

「顔もかわいくて料理上手で、おっぱいもでっかくて言うことなしだったけどよ…なんか、もの足んねーんだよ」

ことばを悩むように、彼が顔をふせる。

「こっちの言うことにはひとつも歯向かわねーし、ちょっときついこと言ったらすぐ泣くしで、喧嘩にもなりゃしねェ。わざとらしく甘えてこられたってちっともかわいいとおもえねーし、メシつくってくれんのはいーけど半分も食わねーうちにもう無理っつって残しまくるし…こんだけ言ったらわかるだろ?」

雪崩のように、だんだんとスピードを増していった彼のことばを彼女は、泣くひまもないほど必死に聞き取った。意味を噛み砕くのはだからこれからだと、伝えるために、いちどだけ首をよこに振ったら彼は、だからっ、と苛々したように言い捨てた。
睨みあげてきた彼の目は、けれど彼女にはこれっぽっちも怖くなかった。

「比べちまうんだよおまえと!ひとの言うことにいちいちつっかかってきて、終いにゃつかみかかってきて、甘えるどころか当然の顔してひとにメシつくらせて髪結ばせて、茶碗山盛りのメシに死ぬほどマヨネーズかけてガツガツ食うような女じゃねーとダメなんだよ俺は!あーもう言わせんなよこんなこと!」

かんしゃくを起こしたように彼が髪をかき乱す。その顔が、きのうとおなじようにうすピンクいろに染まっているのが、信じられなくて、ひたすら目をこらしていた彼女を睨みつけて彼は言った。

「おまえはいままでどおりにしてりゃいーの。俺にとっちゃそれがいちばんかわいいの!そーゆうとこが好きなの!わかったかコノヤロー!」

彼女は、自分が笑っていることに気づかなかった。
服だって髪だって自分で整えて、親友や彼とつき合っていたあの子のように笑えるようにならなきゃ、手をつなぐことも、かわいくなることもできないだなんて、いつから思い込んでたんだろう。
自分で髪が結べなくたって彼がやってくれる。憎まれ口しか言えなくたって、いままでどおり意地っ張りだって、笑えなくて無愛想なままだって彼はちゃんと、かわいいと言ってくれた。好きだと言ってくれた。
好きだと、彼に言ってもらいたかった、ただそれだけのことだ。こんなに簡単なことだったんだと、気づかなかった自分がおかしくて、からだじゅうがふわふわして、落ち着かなくて、動き出したがる両手と両足に促されるまま彼女は、言うだけ言って顔を背けた彼めがけて、飛びついた。うおっ、と間抜けなこえをあげて、彼がしりもちをつく。
取っ組み合いの喧嘩のときにはこのまま首を絞めてやるんだけれど、今日は彼の両肩に手をつくだけにして、顔をあげたら、死んだ魚のような目をいっぱいに見開いた彼の、うすピンクいろの顔がすぐ近くにあった。
親友たちのように穏やかに寄り添うことは、できそうにないのが少し残念だけれど、こうしてにぎやかにくっつくことなら誰にも負けないし、できなくたって、彼が自分のことを好きなのはちゃんと伝わった。みじめなきもちには、だからもうならない自信ができた。
そうして彼女ははじめて、まだいちども、ずっと言いたくて言えなかった秘密を彼に、打ち明けてないことに気がついた。

「おまえなァ、いきなり、」
「銀ちゃん」

彼にばっかり言わせておくわけにはいかない。せかされるように、彼のことばをさえぎって彼女は言った。

「だいすき」
「っ…たく、テメェはっ」

彼女の背中が、勢いよく彼に抱き寄せられる。
彼の、白いシャツの襟元に鼻先がぶつかったら、すこしの汗のにおいと、彼が、隠れて吸っている煙草のにおいがした。彼のゆびが、彼女のあご先を持ち上げる。
見上げたさきの彼の顔は、相変わらずうすピンクいろで、いつもは気だるい赤い目は、怒ったように拗ねていた。彼女はまた笑いたくなった。緩んだくちびるはけれど、近づいてくる彼の、拗ねたままの目と、くちびるに、緩みかけたままになった。
ほんの一瞬、くちびるがふれあうだけのくちづけだった。
離れて、それでも身動きを忘れたまま、彼を見つめるだけだった彼女に彼は、あきれたように顔をしかめてみせた。

「こーゆうのもアリだって、おまえ全然わかってねーだろ」

うすピンクいろに染まるのは、こんどは彼女の番だった。


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寸前でたかすぎに邪魔されるってゆうのはやめておきました。ぎんさんがかわいそうすぎる。
つぎは恒例?の仕返し編です。



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