現れたとおもったらいつもの空き教室に直行した男を追いかけて、親友は2限目がはじまるまえに教室からいなくなった。
一限目の授業は彼女がわりと好きな英語だった。まじめに聞いて、かわりに二限目がはじまったら今日の朝のできごとをメールで親友に相談するつもりだったのに、慌てて駆け出していく親友の嬉しそうな背中を見たら、送り出してやることしかできなかった。憎らしいあの男の邪魔ならいくらだってしてやりたいけれど、親友の邪魔はしたくないのだ。
後ろから二番目、窓側から三番目の席から、彼女は廊下側のからっぽになった席をすこしのあいだぼうっと眺めた。つぎに、黒板のほうをそっとのぞく。昼に向けて熱を持ちかけた日の光が、窓を突き抜けて教室中を明るくあたためていた。
ひかりを跳ね返してつやつやとかがやく、クラスメイトたちの黒や茶色や、たまに黄色がかった髪を飛び越えたら、大嫌いな世界史の教師が神経質そうに眼鏡を指で持ち上げる場面を目撃した。彼女は眉間にしわを寄せた。机のうえに分厚い教科書を立てかけて、読むふりで顔を隠した。
うまくいかないことばかりだ。彼とは気まずいし、親友はとられるし、憂さ晴らしになる体育はないし、目の前には声を聞くのも嫌な教師がいる。
今年はいったばかりの若い男の教師のことを、かっこいいと騒ぐ同級生には鳥肌が立つ、そのくらい嫌いだといつからバレてしまったのか、目が合えばさいご、嫌みだらけの説教に持ち込まれるようになった。だから彼女は、この男の授業のときには決して机から顔をあげないことにしている。
できるだけ姿勢をくずさないまま、彼女は机のなかから携帯を引っ張りだした。教科書にうまく隠れる位置で、机の上にのせる。彼に、なんて送ればいいんだろう。相談する相手がいなくなってしまったから、自分ひとりで考えなきゃいけない。
悪いのはきっと自分のほうだ。彼はいつもどおりに話そうとしてくれていた。
だからって、素直に謝れる自信なんかない。まともに話せる気もしない。メールから慣らしていって、いまのうちから会話の糸口をつくって、なにを話すか決めておかなきゃ、昼休みに顔を合わせてもきっと、同じことの繰り返しだ。
静かな教室に、嫌いな教師の嫌いな声が淡々と響く。それを聞こえないふりで、薄暗い携帯の画面を彼女はじっと眺める。
もっとかわいい色にすればよかったのにと親から不評の黒い携帯は、彼女の大好きなやくざ映画の俳優が劇中で使っていたのとおなじものだった。おなじ俳優を好きな彼の携帯もおなじだと知ったのは、買ったあとのことだ。
彼女の家で彼のつくった夕飯を食べながら、テーブルに並んだまるきりおなじ携帯ふたつに真似すんなよ、してねーよと喧嘩になった、その次の日、わかんなくなるだろ、と言って彼がくれたのは、エイリアンのかぶりものをしたキューピー人形のストラップだった。
汚れて、いまではかぶりものが破れてしまったけれど、彼女ははずさないでいる。かわりに彼女があげた、スポンジでできたイチゴのストラップは、彼が後輩とつきあっているときでも彼の携帯を独り占めしていた。それを確認して、ほっと息をついた記憶が彼女には、何度もある。
一緒に、ストラップを買いに行こうと誘ってみるのはどうだろう。おもいついたとたん、彼女は一気に体温があがった気がした。
そうすれば、どこに買いに行くかだったりどんなのが欲しいかだったりで、話す材料は尽きないはずだ。もしかしたら彼は今日バイトかもしれないけれど、それならいつ買いに行こうかと一緒に予定をたてることもできる。たくさん話せるし、それになんだか、デートみたいだ。
彼女は、自分のおもいつきが誰かにバレるわけがないと、わかっていても恥ずかしくなった。教科書の脇から、まわりを見回してみる。行儀よく並ぶクラスメイトの頭の半分くらいは、机に突っ伏すか、眠気に誘われてゆらゆら揺れていた。教師は板書に夢中だ。誰も彼女のことを気にしてないと、確かめてから彼女が、両手で携帯を持ったとたん、暗かった画面がまぶしく光った。
うすピンク色を背景に、羽の生えたマヨネーズが手紙を運んでいる。『受信しました』の一行に、キーを押すゆびはすこし震えた。
差出人に彼のなまえを見つけて、もういちど押すときには深呼吸も必要だった。

『おばさんに晩飯たのまれた。おまえなに食いたい?』

おもわず、笑ってしまったのは、彼がいつもとなにも変わらなかったからだ。
朝のことは気にしてないと言ってくれてるみたいで彼女は、悩んだ自分が馬鹿みたいだともおもった。それでも、嬉しかった。
ゆびはもう震えなかった。

『餃子がいい。おまえ今日バイト?』

送信ボタンを押したさきから、返事が待ち遠しかった。ぶらさがったキューピーのほこりを、つまんでとってやり過ごす。
画面がもういちど光ったときには、大好きなマヨネーズを見守る暇ももったいない気がした。

『えびでいい?今日はない』
『えびでいい。帰りにストラップ買いに行こう。あと、朝、ごめん』

最後の一行は、おもったより躊躇わず打つことができた。ただ返事がくるまでの時間は、いちばん長く感じた。

『えびも買いに行かねーと。おれも、ごめん』

うまくいかないことばっかりじゃ、ないかもしれない。勝手に笑ってしまう顔に気づかないほど、浮かれはじめた彼女は背中を、うしろの席からつつかれてることに気づかなかった。教室中に走る緊張にも気づかなかった。
目の前から、突然携帯が奪い取られた。反射的に顔をあげたら大嫌いな教師が、なによりも大嫌いな薄笑いで彼女を見て、それから取り上げた彼女の携帯を見た。

「『帰りにストラップ買いに行こう』」

彼女ははじめ、なにが起こってるのかわからなかった。
教師がメールの中身を読み上げる。相変わらずの薄笑いを、彼女はまばたきも忘れてながめた。この大人はいったいなにがそんなにおかしいんだろう。なにを笑ってるんだろうと、真っ白になったあたまで考えた。
自分と彼のことばを笑ってるんだと、わかったとたんゆびさきがふるえ出した。
くちのなかがカラカラに乾く。心臓がうるさく打つ。なのにからだは冷えていく。あんなに彼女を嬉しくさせた彼のことばが、読み上げられたとたんどうしようもなく、からっぽなものになっていく気がした。

「くだらないな」

携帯を投げるように彼女に返して、教師は言った。
まったく、君たちは色気づくことにしか興味がないんだからね。僕は日本の未来が心配でしょうがないよ。黒板のほうへ戻っていく教師の、遠くなるこえはどこか嬉しそうに聞こえた。あいつマジやりすぎじゃね?サイテー。ありえねー。教室のいろんな場所からあがるこえは、けれど彼女を救ってはくれなかった。余計に、みじめにさせた。
気にすることないよ。背中から投げかけられたこえには、うなづくだけで精一杯だった。ふるえの止まらない両手で、もとどおりひざのうえに持った携帯を彼女は、ひたすら眺めてすごした。
チャイムが鳴って、教師が教室からすがたを消した瞬間、立ち上がった彼女は誰にも話しかけられないうちに教室を飛び出した。
ぶつかるのもかまわずに、誰とも目が合わないよううつむいたまま、廊下を突き進む。たどりついた空き教室のドアを勢いよく開けたら、ぐしゃぐしゃになった暗幕のうえに足をくずして座る親友と、そのひざを枕に本を読んでいる男がいた。
ふたりの目が彼女を見る。明るい日差しを背に、ぴったりと寄り添うふたりのすがたに彼女はまた、みじめになった。ふたりに近づくと彼女は、邪魔な男の頭を蹴り落とした。ごつんっ、とにぶいおとが聞こえたけれど、無視した。

「なにしやがるテメェ!」

怒鳴る男のこえも無視して、彼女は親友に抱きついた。やわらかい胸にぎゅうぎゅう顔を押しつけて、甘いにおいをかいで、安心してから彼女は、やっと泣いた。
好きになっただけだ。彼を好きになって、ずっと片思いをして、やっと両思いになって、あとは楽しいことだけを夢見ていた。
携帯だけじゃなく、彼をまるごと独り占めして、あの後輩なんかに負けないくらいかわいく笑ってふたりで過ごす日々だけが、待ってるとおもっていたのに、つらいことばっかりだ。
すこしもうまくいかなくて、悩んで、うまくいったとおもったら邪魔されて、馬鹿にされて、みじめなきもちになみだを流す。

「トシちゃん?ちょっと、なにがあったんスか?」
「っ…おれもう、やだ…やめる…っ」

親友の華奢な手に髪を撫でられて、彼女のなみだが勢いを増した。男のため息がどこかから聞こえる。彼女はいつか、このふたりみたいになれると信じていた。けれどもうあきらめた。
こんなにつらいことばっかりなら、恋なんてやめてやる。


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教師は例のごとくあいつですよ。かわいそーな役回りナンバーワンのあいつ。


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