今日にかぎって直らない寝癖が、彼女は憎たらしくてたまらない。
カーディガンはクリーニングから返ってきたばかりの、しゃっきりした深い紺色だ。白いシャツにひとつもシミがないことは昨日のうちに確認ずみだし、いつもは机のうえに脱ぎ捨てっぱなしのスカートも、しわにならないよう寝る前にハンガーにかけておいた。
ハイソックスはカーディガンと、いろだけじゃない、ロゴだってお揃いなのに、耳のうしろのほうでたったひとふさ、流れにさからう髪のおかげで、予定していた完璧な朝はいつまでたっても実現してくれない。
地べたに置いた正方形の鏡のまえに、座り込んだ彼女のまわりには蒸したタオルとドライヤーと、ヘアワックスとアメピンとそれからブラシが、役立たずのまま散らばっていた。
さんざん悩んで決めたシュシュは彼の好きな水色だった。校則ギリギリの明るいいろをしたそれで、いつものようにくくってしまえば隠れるだろうとおもったのに、何度やり直してもそのひとふさだけが、きれいに外へ飛び出してしまうのだ。

「っンだよもう!」

言うことをきかないすこしの髪を、きっちりまとまった他の髪ごと彼女はぐしゃぐしゃにかき乱したくなった。ベッドのうえの目覚まし時計を振りむく。針は、彼の迎えにくる時間を目指してラストスパートだ。
屋根のいろだけがすこしずつ違う、五つ並んだ建て売り住宅のいちばん端が彼女の家で、三つ隣が彼の家だ。
小学生のころに引っ越してきた彼が、集団登校の集合場所に現れるときはいつもひとりだった。親に手を引かれてやって来るほかのこどもたちを、眠そうな目で眺めている彼に、教師以外ではじめて話しかけたのは彼女の母親だった。

『ババァはまだおきてこねー』

遠い親戚のおばさんだという、彼のたったひとりの家族は居酒屋のおかみで、昼過ぎにならなきゃ起きてこないんだと、ふてくされた顔でそのとき彼が彼女の母親から目をそらしたのはたんに、照れてたせいだと、彼が教えてくれたのはずっとあとになってからだった。つぎの日から彼女は彼女の母親と一緒に、彼を迎えに行ってから集合場所へ行くようになった。
集団登校がなくなって、母親が付き添わなくなると、こんどは彼が迎えにくるようになった。高二のいまでも、前の日につかみ合いの大げんかをしたって、彼は必ず迎えに来る。
銀時くんが一緒なら安心だわと、顔を合わせては時おりこぼす彼女の母親に彼が浮かべる、ぎこちない照れ笑いを見て、おもしろくないきもちになるのは彼女がいまでも彼に秘密にしていることのひとつだ。もうひとつの秘密は昨日、あまり上手に打ち明けることができなかった。
挽回するための今日の準備は、だから万全だった。そのはずだった。会ったらさいしょになにを言おうかとか、どんな顔をしてやろうとかまで、布団にくるまりながらシュミレーションしておいたのにいまは、ひとつもうまくやれる気がしないのだ。
あまり器用なほうじゃない彼女以上に、不器用な母親がなんとかしてくれるとはとてもおもえなかったけれど、頼むだけ頼んでみようか。階段をのぼってくる足おとに、彼女は最後の望みをおもいついた。立ち上がったら、ドアをノックするおとがした。焦った勢いでドアを開けた彼女の目の前で、ふいをつかれた顔をさらしていたのはところが、彼だった。

「…オメーは、いつまで人のこと待たせりゃ気ィすむわけ?」

ドアノブを握りしめたまま固まる彼女を、こえに合わせた不機嫌そうな顔で彼が見下ろしたのは、一瞬だった。反らされた彼の目はつぎに、彼女をすり抜けて、部屋のなかに向かった。
それもほんのすこしのことだった。ふたたび戻ってきた彼の目を見て彼女は、床のうえに転がったものたちの意味に彼が気づいたのか、気づいてないのかもわからないまま咄嗟に寝癖を手のひらで押さえつけていた。
これじゃあ自分からバラしてるようなものじゃないかと、気づいたときには彼は、すべてを見抜いたようなため息をひとつ、吐きおわっていた。

「ったく」

彼が彼女を押しのけて、部屋のなかに入っていく。彼女が振り返ったときには、鏡のまえに座り込む途中だった。
鏡と彼のあいだにはちょうど、もうひとり座れるだけの空きがあった。あぐらをかいて、眠そうな目で彼女を振り向いた彼はそこを、片手で二回、叩いてみせた。
彼女は彼に負けないくらい、不機嫌な顔をつくって、わざと乱暴な足取りで彼に近づいた。そうして用意されたその場所に、スカートのプリーツがひるがえらないよう押さえつけながら、彼に背中を向けて座った。
彼の手が、髪からシュシュを抜き取っていく。

「無駄に時間かけるくれーなら、最初っから言えっつーの」

片手で彼女の髪を持ちながら、もう片方の手で彼が、床に落ちていたブラシを拾い上げた。その手を目で追いかけながら彼女は、あたまのうえから降る彼のこえにただ、きゅっ、とくちびるを引き結んだ。
器用な彼は彼女だけじゃない、彼女の家族全員の強い味方だ。彼女の父親の本棚を直したのも彼だし、彼女の母親が留守のときに飯をつくりに来てくれるのも彼だ。
彼女が夏休みの宿題でつくったエプロンは、彼がいなければ血だらけになってしまうところだったし、大好きな先生のためにはじめてつくったチョコレートケーキだって、彼が見張っていてくれなきゃただの黒こげの固まりになっていた。
中学生のころ、伸ばしはじめたばかりの髪を、毎朝結ってくれたのも彼だ。
ポニーテールだけは彼女も、なんとかいまでは自力でできるようになったけれど、特別きれいに仕上げたいときだったり、ほかの結いかたをしてほしいときにはだから、彼に頼むことにしている。
こんなふうにしたいんだと注文をつければうっせーな、だの、めんどくせー、だの、いろんな文句をつけながら結局は理想どおりに仕上げてくれるのだから、寝癖くらい、彼に言えば簡単に直してくれることはわかっていた。それでも今日だけは、彼にだけは頼りたくなかった。
鏡ごしに彼を盗み見る。なにも考えてないような顔つきで、なんでもないことのようにブラシと、ピンを、両手で操る彼の、すじばったゆびが、彼女の髪のあいだをすり抜けていく。
その丁寧なしぐさと、感触に、身を任せるのが彼女は好きだ。拒みたくないほど好きだからこそ余計に、彼女は悔しかった。
きのうと違う今日を、いちばんかわいくできあがったすがたで彼に、見せつけてやりたかったのに。

「なァにをぶすくれちゃってんのオメーは」

残り少ない夏の空は、隙のない快晴だった。玄関の扉を背に、大きく伸びをした彼は、持ち上げた両手を降ろしながら一歩うしろの彼女を振り返って、めんどくさそうに顔をしかめた。
彼女は日のひかりを跳ねかえす銀髪が、まぶしいような気がして、おもわず細めた目を彼から、うつむけた。彼の、穿きふるしたスニーカーの汚れたつまさきを、じっと見た。

「まさか出来上がりが不満とか言わねーだろーな」
「…別に、言ってねーし」

彼女があんなに苦労したひとふさを彼は、いくつかのピンとブラシを使ってたった数分で、どこにあったのかもわからないくらいきれいにおさえこんでしまった。どころか、いつものポニーテールは彼女が自分でつくるいつも以上に、緩みなく、引きつれることもなく、空よりも薄い水色のシュシュが、根もとをまとめてくれている。
それが気にくわないなんて、彼女にとっては死んでも彼に知られたくないことだ。

「つーか誰もぶすくれてねー」
「…あっそ」

彼のつまさきが、まわれ右をした。

「そりゃスンマセンでしたねェ」

通りに踏み入れたところで止まったスニーカーに、顔を上げたら、黒いTシャツのうえに、白いシャツを重ねた彼の、ひろい背中があった。
出会ったばかりのころは彼女のほうが背が高かったのに、いまでは背伸びをしても彼のあごの先にしか、彼女のあたまのてっぺんは届いてくれない。
歩幅だってだからまるで違うはずなのに、彼女が追いかけて、追いつけなかったことは、いちどもない。彼女が横に並ぶまでいつだって彼は、立ち止まったままだ。
彼の左手にはほとんどぺちゃんこなスポーツバッグがあって、それとおなじかたちといろをした自分のバッグを彼女は、右手に持った。彼の右側に立つまで、二歩とすこしがかかった。ゆっくり、まっすぐに歩く彼に、ぴったり合わせて歩くことなら彼女は、誰よりもうまくやれる自信がある。
一軒家ばかりが両脇を囲む、ほそい通りはそれぞれの家の庭から無秩序にはみ出た木の影と、日差しで、まだらに染まっていた。おなじようにまだらになった前髪を、邪魔くさそうにかきあげる彼の首すじには、汗が浮いていた。見慣れているはずなのに、見ていられなくて、彼から目を反らした。
歩くさきだけ見据えたまま、ふたりで歩く。
ことばのひとつもない時間が、いつものことだとしても、彼女はなにかを話さなきゃいけない気になった。だからって、なにを話していいのかわからなかった。
もどかしかった。憎まれ口ならいくらだっておもいついた。けれどいま必要なのは、そんなものじゃない。

「さっき、」

と、こもったこえで彼が言ったのは、三人の誰かとすれ違ったあとだった。

「オバサンにさ、オメーがみずからシャツはたたむわ風呂はなげーわ、昨日からありえねーことだらけで」

彼女はますます、彼を見れなくなった。いちどに跳ね上がった熱に、からだじゅうが焼け焦げそうだった。

「もしかして好きなヤツでもできたのかって聞かれて…言っていーのかどーか分かんねーし、とりあえずテキトーにごまかしといた」

ふたりぶんのあしおとと、鳥のこえに、遠くからひとのこえがした。おなじくらいはっきりと、乱れた心臓のおとが彼に、聞かれている気がした。バッグの持ち手を握りしめる。べとついたナイロンに、汗のにじんだ手のひらを知った。
黙り込んでしまった彼が、いったいどんな顔をしてるのか気になって、けれど確かめることはできなかった。この場からいますぐ走って逃げ出したい衝動を、抑えるだけで精一杯だった。あたまのなかをただ、恥ずかしい、のひとことだけが、ひどい早さでぐるぐる回っていた。
彼をおもって、彼のために必死な自分を、彼にだけは知られたくなかったのに。


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